石田芳弘の挑戦、勝手連の奮闘実らず!
― 惜しくも僅差で敗れた知事選挙 ―
知事選挙の結果は残念の極みだ。無念この上ない。
なぜそのように歯ぎしりするのか、多分それは、最初から石田芳弘県知事誕生を前提に、その先のことを我がことのように描いていたことが最も大きいと思っている。と同時に、選挙に敗れてしまった結果、幾つかの落胆、失望が時間を経るごとに拡大してくるからでもある。
知事選に当たっては前号の「結」で以下のように書いた。
「二〇〇七年は、四月に統一地方選挙があり、七月ころに参院選挙がある。その間に、統一日から外れた首長、議会議員選挙がある。ひょっとして、参院選挙の結果や教育基本法、防衛省昇格法、イラク特措法延長に加えて、共謀罪、国民投票法などの悪法の成立、増税案、年金改革など“格差拡大政策 ”による安倍内閣の“失政 ”があったりして、解散総選挙があるかも知れない。少なくとも、『安倍内閣打倒、解散総選挙運動』を起こさないと、いよいよ『憲法改悪』があっという間に行われてしまうかもしれない。そのように考えることは、もはや予測でも杞憂でもない、現実問題である。
ここに中央政治に風穴を明ける、首都圏中央行動と連携した、地方政治での攻防戦がその前哨戦としてある。つまり、二〇〇七年二月四日の愛知県知事選挙は、大型公共事業・国家プロジェクト型地方政治から訣別して、地方自治といえる『住民本意の県政』に転換するなかで、中央政治に風穴を明けるまたとない機会である」と。
選挙後の報道を見ると、序盤からの神田圧勝の予想は、「柳沢発言」で一変してきわどい選挙に変わったのだという。するとその裏返しだったのか、「民主党・連合の動きが鈍い」「石田が焦っている」という“うわさ”は。
もっとも、終盤に柳沢発言を“追い風”と読んで民主党も選対も、国会議員を大量につぎ込んだ。社民党も辻元議員や福島党首をようやく送り込んできたが、もはや時既に遅し、であった。
つまり中央は、はなから愛知県知事選挙を“政局”となるとは読んでいなかったし、そのような戦略を描いていなかったともいえる。ところが柳沢発言が問題化し、北九州市長選、愛知県知事選挙で勝利すれば、柳沢厚労相を辞任に追い込み、安倍内閣を大きく揺さぶることが出来る。そうすれば、都知事選、統一地方選、参院選へ弾みがつく、とようやく気がついたのである。“敵失”でしか政治ができないのか、戦略なき地方選軽視ではないか、というのが私の実感である。
それはともかく私は、参院選のために無党派市民のグループとして立ち上げた「平和の風愛知」を知事選向けの「勝手連」に切り替えた。そして、勝手連の連合体でもある「アイネット」立ち上げに参加し、その事務局を担い、あまり役には立たなかったが、ミニフラグをデザインし作成、また、「1・15アイネット集会」を提案した。このあたりから勝手連に勢いがついたと思っている。
また、未熟で未完成ではあったが、「私家版-県政マニフェスト」の執筆に力を注ぎ、それを石田の「県政マニフェスト」作成担当者に送ったりもした。また、ネットでも政策的意見集約に努めた。
更に、連日のように知事選の動きなどをブログにアップし、石田勝手連のMLに活動報告を書き込み、選挙運動の仕方の一部も紹介した。そして繰り返し「政策論」の必要性を説いた。
私の総括の論点
繰り返しになる部分もあるが個別的に総括的な論点を探ってみたい。
1)石田推薦の弁
最初に、元自民党県議3期、犬山市長3期、民主党・連合推薦の石田氏をなぜ推したか。
第一に、与党候補を打ち破ることで中央政治に風穴をあける。そのためにいきさつはどうであれ、神田与党から離れ、対決の構図をつくった石田氏の決断を評価した。従って、民主党や連合のあれこれは捨象して、自公推薦候補の打倒に政治的意義を求めた。
次に政治は人、人を見て推すべきかを決めるべしで、石田氏の話を聞き、質疑を交わし、稀に見る人物と判断した。“この人ならいける”と実感した。選挙中の演説を何度も聴き、確信した。
2)政策を重視
なぜ私は、勝手連で参加し選挙運動中も政策論を重視し、主張したか。
①従来からの運動観、立場から基本的には「民主・連合に組みせず、さりとて共産党にも組みせず」であるが、状況に応じて是々非々できたので、その論理的説明が必要であった。
②統一地方選挙、参院選挙を視野に入れていた。そのために政策は欠かせないと判断していた。
③無党派市民の結集、市民運動の再興に期待を寄せた。地域運動の“結集軸”を模索していた。
知事選挙はその契機となると踏んだが、私にとって結果は、どうやら裏目に出たようである。
3)候補者一本化の問題
当初から共産党を含む「野党」による候補者の一本化が模索された。それが成就できなかった要因は両者にあったし、強力な接着剤的役割を果たす集団形成が出来なかったのも一因である。
勝手連・アイネットの立場は、候補者一本化であったが、「共産党の推薦、支持」という形は求めなかった。自由投票という形もあったが、最善の形は「勝手連・共産党」であった。党組織には“奇想天外”とも言うべきものであったであろうが、全く希望のない選挙を闘うよりは、地方選、参院選を視野に入れれば、勝手に選挙運動をやって、石田当選に寄与すれば(実際それがあり得た)得るものは計り知れないと、私たちは説得したが、彼らは聞く耳を持たなかった。共産党の戦略ミスは罪深い。それに同調した“市民派”の人たちにも失望した。そうした動き・罪はそればかりでなく、共産党と接触のある周辺の諸運動の動きを縛る結果ともなった、と私はみている。
4)その他の党・派
党として推薦をした社民党、国民新党は、最初と最後に中央から幹部を送り込んだだけで、組織的選挙活動はなかったようにみたが、個人の判断に任せたのだろうか。事実なら理解に苦しむ。勝手連の面々がビラをまき、電話をかけ、演説会場に足を運び、パレードの先頭を担った行動をどう見ていたのか。そんなことで、この先どんな党活動が出来るのかと、首をひねざるを得ない。
そのほか、幾らか付き合いのあった新社会党、緑のテーブル、労働党、人民の力、その他も、全候補を忌避したのか、選挙そのものへの参加を方針化しなかったのか、どんな事情なのかはしかとはわからないが、個人的な動きは見られたものの、組織として動いた様子はなかったようである。
それは、仮に石田が勝っても実利がない、選挙母体の民主・連合に違和感がある、と言う見方はできるとは思うが、2大政党時代といわれる中、「第3極」に結集が期待されるこれらの党・派が、この知事選を傍観したとするなら、私は困惑と失望を隠せない。
6)市民派はどうか
8年前の知事選で、愛知万博を課題に二分して闘った“市民派”も動かなかった。
石田勝手連260の数字はともかく、そこに参加した人数は、9年前の万博の賛否を問う県民署名の時とではその比ではない。さらに私の知る限り、反万博運動に参加した市民派も労働運動関係者も、驚くほど見かけなかった。それは世代の様変わりだけではないだろう。知事選挙そのものへの、誘発されるものがなかったのかもしれないし、閉塞感漂う時流の中に在り続けたのかもしれない。終ってみれば、索莫とした荒野に一人残された感ひとしおである。
7)勝手連の可能性と限界
次に、個人的なあるいは小グループの努力としては大きな力となった勝手連であったが、非組織的性格とそれゆえの戦略・戦術の不十分性にジレンマを感じたのは、私一人だったのか。
前回選挙も勝手連を組織して参加したが、今回、本格的な勝手連運動に参加してみて感じたのは、未知数であるが、予想も出来ない限りなく可能性のある勝手連である一方、状況の推移に合わせた戦術を全体化する術を持たないのも勝手連、勝手連が“燎原の火”のごとく全県的に広がるのを、自然発生性に任せざるを得なかったのも勝手連であったとするなら、このジレンマは解消できないものかもしれない。これは「限界」でなく「性格」といえるかもしれない。
8)選挙のポイント
石田当選のそれは、投票率を上げることに尽きた。その要素を次の3つにあると考えられた。
①二分化-神田と石田の違いがわからない、現職に失政がない、民主はこれまで神田の与党であった。これらから、争点を明確にして二分化された選挙戦が必要であった。石田側戦略の「愛知が日本をリードする」「変えよまい!」「教育の石田」は、鮮明な違いと受け止められなかった。
②マニフェスト選挙-この選挙に限らず、このスタイルは重要だ。神田、石田とも「県政マニフェスト」を示したが、それらを県民に配布することができない上、「マニフェスト討論会」は1回行われただけであった。現職有利の、公職選挙法の不備は如何ともし難かった。
③知名度-現職神田の8年の知名度は、自公、産業界、市町村、補助金受給団体には、それなりに浸透していた。空港、万博も神田の手腕でもなんでもないが、知名度は上げていた。
一方の石田の知名度はかなり限定的だった。「いしだ」を「かんだ」と言い間違える関係者も。
9)得票の傾向と地域性
投票の傾向を振り返っておくと、ここに緑区のFさんの分析があるので引用させてもらう。
「(共産党は)1999年の影山票80万、2003年の池住票35万に続き今回の阿部票16万票とジリ貧、ついに供託金没収の事態になった『革新?県政の会』でした。今回石田氏は、1979年以来最高の投票率52,11%を呼ぶ真の対決を創り出し、得票数1,355,713票は初回神田の1,353,414票を上回っていた。今回神田票1,42,4761票は前回の1,494,974票を下回ったのだ。(中略)結果として総合力では現職を超せなかったが、しかし、名古屋、尾張旭、長久手、日進、豊明、大府、東海、刈谷、三好、豊田、岡崎では1位。犬山、大口、扶桑、小牧、春日井、東郷と、緑、天白、名東、東各区ではなんと過半数票を獲得しているのだ!」
更に付加すれば、投票率が上がったのに石田が敗れた背景には、
①名古屋市内での得票差が2万5千と小さかった。最低でも5万票、10万票差も不可能ではない、衆院選に続いて負けた5区・・・。4区の南区と港区には労働者が多いといわれていたが・・・。
②豊田市の得票差は500票しかない。トヨタ労連が本気になれば11区全体で3~5万票の差はつけられただろう。組織内候補とそうでない違いであろうと推測するが、石田にとって不運というか口惜しかったに違いない。
③神田の出身地一宮市での得票率と、石田の犬山市での得票率、その絶対数の差が大きかった。他に、
・「名古屋人気質」とか「温暖の東三河は保守的だ」といわれる愛知の地域性、県民の気質が事実かどうかは知らないが、「保守、革新」には二分化できないところがあるかも知れない。
・女性票、高齢者票が神田に多く流れたと分析されているが、これを「安定志向」と一口で片付けられるのか。惜しいことに、石田の政策論で「医療、福祉・介護」が強調されたのは後半であった。
石田氏の再挑戦はあるか、地方選・参院選はどうするか
さて石田さんの今後について、2月13日のアイネットの総括会議で報告された内容は、「・・・・この時点では不確定なことが多いが、とにかく新聞報道のような『政界からの引退』はないという点が第一で、この先の4年間をどうするかは未定であるとしても、『4年後をめざす』という選択肢はあることは間違いなさそうである 」であった。
私は、4年後の選挙に立ち会うことはないと思っているが、その間、「県政マニフェスト」をテキストに、石田さんを迎えて年間4回、全12回、県下各地巡回の「石田ゼミ」の、07秋開講案をまとめたが、提案することすら逡巡してしまった。“もういいかな”と。
最後に、どなただったか「石田氏の国政への転進」を口にされていたが、「地方自治に生涯をかける」と言い切った彼に、その選択はあり得ない。またあってはならないことである。
では名古屋市長選挙は?そんなことまでは知らない。
●市民派議員の誕生を願う
愛知県知事選挙のあとは、東京都知事選挙を含む統一地方選挙であるが、前号で名前を挙げさせてもらった立候補予定者にはがんばってもらいたいが、知事選挙で見る限り、様子見をされた方が多いように思われた。候補者石田芳弘はともかく、背景などいろいろ考えてのことだろう。
一方、立候補を予定してなおかつ知事選に全力で参加された方も幾人か見受けた。その双方が競合する選挙区もあるから、私にとっては複雑な気持ちだ。どちらにしても前回ほどのことはできないだろうと思っている。ただただ、無党派の市民派議員誕生を願うばかりである。
●参院選の難しさ
話をそもそもに戻そう。
この7月の参院選挙で、「護憲平和」を確たる方針として立ち上げた「平和の風愛知」は、全国状況と愛知県における現状を勘案して、知事選挙を闘うことによって、その基盤のありかを探るとした経緯がある。
比例区について「平和の共同候補を求める」とした全国連絡会は、共産党、社民党との「共同候補」リストは事実上なくなり、無党派市民の「9条ネット」(参院比例区の確認団体になる名称)を2月24日に三人の候補者名と共に立ち上げたが、この愛知にそれを受け皿とする基盤が見つからないというのが正直なところだ。
一方愛知選挙区では、独自候補は断念し、より「護憲平和」に近い候補を推すことにしていて、共産党推薦の八田氏が最も近いとされていたが、知事選の経緯で白紙状態である。そこで民主党の女性候補、谷岡氏も浮上しているが、去る23日の会議では、民主の候補二人の政治姿勢を見極めたいという前向きの意見もあったが、八田氏を推す線はなくなったといっていい。また「平和の風愛知」は展望を見いだせないまま、5月連休明けまで“休会”とした。
<「緑ネット・第75号」2007年3月1日から>
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