2019年12月 5日 (木)

第14回映画鑑賞会

 地域活動・文化活動として
   シネマ散歩・緑の会の映画鑑賞会も、この12月をもって14回目を迎えた。映画の選定は、私に任されていて今回は「わたしは光をにぎっている」である。任されてはいるが、“私が観たい映画”ばかり、とはいかない。日程を調整したうえで「懇親会」のセットもあり、上映終了時間も考慮することになる。また10日先に設定しても終了してしまうこともあり、概ね1週間先でしか確定出来ない。
 今日になってようやく会誌「シネマ散歩・緑」第14号を発行することができた。その中でこんなことも書いている。
 ・・・時々、過去の鑑賞映画の記録をお知らせしています。それは映画にもよりますが、ある意味では時代を反映している、同時代性を意識させられることもあるからです。
 従来私は、映画は“おもしろけりゃいい”と単純に思っていて、1957年ころから数年の間記録していた「映画鑑賞記録」も、感想文など一切書かれていませんでした。
 後年、様々な活動にかかわって、それらの領域の映画・ドキュメンタリーを観る機会が増え、その感想文を書くようになりました。そして「シネマ散歩・緑の会」を発足させてからは、それなりに鑑賞映画を選択するようになり、ほぼ毎回、感想文などを書くようになりました。もとより、根が“おもしろけりゃいい”であり、まして映画を評論するような立場でもありませんから、毎回四苦八苦しているというのが正直なところです。
 さて今回は12月ということもあり、懇親会は望年会も兼ねます。できれば、それぞれから映画のこと、会のことなど“ひとこと”をお聞きしたいと思っています。それらをお聞きして2020年も「シネマ散歩・緑の会」を続けていきたいと思っています。
 これらについては、以前にも触れたことではあるが、「一人で楽しむ映画」もあれば「みんなで観て、あれこれ話題にして交流する」映画もある。私は、2か月に1回の鑑賞会の間を縫って、「一人で楽しむ」映画も心掛けているし、テレビシアターもときどき・・・。ただ、まとまって時間が割かれるのはつらいところがある。

 

 

 

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2019年11月26日 (火)

フランシスコ・ローマ教皇の残したものに触れて

   C&Lリンクス愛知電子版・第71号
   11月15日から東京に出掛けて高尾山にのぼり、東京駅全景を見に行って、首相官邸前に行き、神楽坂辺りを散策して、ピースサイクルの仲間と議論して、久しぶりの東京行で政治的「外気」にあたったせいか帰名後、特にこの1週間に「C&Lリンクス愛知電子版」を3号続けて発信した。
 書き綴ったものをメーリングリストではなく「個人的」に送っているのは、例えば結果的にはどうであれ政治的主張、立憲民主党を推すためのものという意識はそんなに大きいものではなく、長くお付き合いを戴いている人への「近況報告」みたいなものと、連絡を取り合って情報を交換し、刺激を受けながら「今」を維持する糧に、といったものもあるのである。
   第71号は、来日したローマ教皇の残したものは宗派に関係なく少なくないと感じたので、それに触れながら1)全核兵器・全原発の「核」廃絶へ! /中日春秋 2019/11/26 紙面から/詩「戦闘開始」 石垣りん 2)苦闘する香港のことを思う-巨大権力の前の民主主義 マイブログから 3)立憲民主党と関連の、マスコミ等の情報<11月23日~11月25日>、4)「ツネじい通信」 NO59 2019/11/21 新聞の数字からでも分かる、この国の危うさ。という内容であった。全5頁。
   2019年もあと1か月余りを残すのみ。年越しをさせたくない仕事が一つ、二つ、三つ・・・、やり切れるだろうか、というより“やらねば”が頑としてある限り大丈夫・・・、風邪だけがひくまいぞ!

 

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2019年11月 8日 (金)

「立冬」といわれても・・・

 今どきの意味を思う
 インフルエンザの予防接種を受けに近くのクリニックへ。そこの待合室で何気なくテレビを見ていたら「今日は立冬です」と流れた。それだけことだが、ふと“それがどうした?”という思いから次第に、暦の上でといっても、今どきの若い人はカレンダーなどを壁に掛けているのだろうか、カレンダーを見ても「暦」まで見るのだろうか、思ってしまった。
 そこで暦とカレンダーの違いから、起こさねばならないが、私の中では単に日本語と英語の違いだけとは思っていない。壁掛け、日めくり、卓上、ポストカードサイズ、名刺サイズ含めて、年月日と曜日、祝祭日程度記入の簡素なものはすべてカレンダー。例えば私の手元のカレンダーの11月8日は「日の出6:19 日の入16:53/満潮3:16、15:30、干潮9:19、21:58/旧10.12 先負/つちのと とり/立冬 とあるがこれはカレンダーの中の「暦」ではないかと。
 元に戻ってカレンダーに「暦」があってもいいが、これからのカレンダーには、「9月1日防災の日、関東大震災」があるが、同じように例えば「3月11日、東日本大震災、原発事故」「9月26日 伊勢湾台風」といったような、台風、洪水、噴火、津波など大災害の発生日を書き込んで注意を促すというのはどうだろうか。もっとも私が思いつくことはすでに出回っていることだろう。「防災カレンダー」があっても珍しくないから。

 

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2019年11月 4日 (月)

“その気があるか、ないか”それが問題だ

 ミニ詩集が止まったままである
 今は、遙か遠くに行ってしまったが、以前親しくしていた友人に「バースデーカード」をメールで送った。短い言葉を添えるのだが、折々に詩を書くこともあるので慣れているとはいえ、100字から150字で気持ちを伝えるのはやはり難しい。いっそのこと短歌でも詠んでそれに添え書きすればいいかなとも思うのだが、短歌が即興で出てくるはずもない。まあ何とか130字ほどにまとめ、カットで装飾して送り終えた。
 C&Lリンクス愛知電子版を10号ごとにまとめて冊子化していて、現在通巻第6号(1~60号)まで終えているが、間もなく70号を迎えるので、その準備を始めた。毎度その表紙の装丁に幾らか工夫を凝らしていて、カット絵に短い言葉を添えている。今回のカットは絵の具のパレットに絵筆、それにこんな一文を添えた「生まれた時は無地のキャンバスだった 私の旅路は、どんな色付けをしてきたのだろう。」、詩の一節にしたいとも思っているが、未だイメージが膨らんできていない。
 来週末にピースサイクルの全国会議が東京で開かれるが、その報告書作りに専念している。ここでも空白部に何がしかの一文を入れたい衝動にかられることが多く、関連事項であったり、その時の気分次第で「短詩」を入れることもある。
 こうしたことに馴染んでいるせいか、その時の詩は、だいたいのモチーフが与えられている感じもあるから、1頁以内、縦書きで40~45行程度の詩でまとめようとしてしまう。創造力も乏しいこの領域を脱し切らないと「本格的な(まっとうな)詩」は書けないだろう。そこまで踏み込んではいないのではあるが。
 そういえば「ミニ詩集」も、1月30日の第17号で止まったままだ。C&Lリンクス愛知電子版を、市議会選挙、参院選挙で頻繁に出して来たし、6月の作品展の諸準備、7月ピースサイクル、隔月の映画鑑賞会と続いてきて集中する機会がなかったことは確か。もっとも機会(時間)が主因ではない。「その気」があるかないかである。

 

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2019年11月 1日 (金)

最高の人生の見つけ方

 第13回シネマ緑の映画鑑賞会
 10月例会が、月をまたいでしまったが、シネマ散歩緑の会の第13回映画鑑賞会「最高の人生の見つけ方」に7人の参加で行われた。
 内容は省くが鑑賞後の懇親会で感想などを聞いた、といってもいつもの通り一人を除いてほとんどあまり語りたがらない。まして感想などを投稿してほしいといっても、首を縦に振る人はいない。もっともこの会は、映画を観て何がしかの学習とか教育的なものを得ようとする主旨で開催しているわけではないので、そうした雰囲気を気にしているわけではない。
 “・・・それで、みなさんは、死ぬまでやってみたいことは?”と改めて投げかけてみたが、これも反応なし。多分、だからといって何も考えていない、とは思えない。映画のようにふんだんにお金が使えて、やりたいこと、行きたいところ、食べたい物などができるはずもないから、せめて普段の生活の中から、ちょっと非日常的な時間を持ちたい、それが旅行であり、親しい友人と食事をすることであるかもしれない。言葉にしてそれをどこまで追い求める努力をしているのか、単なる願望なのと見透かされて問い返されるのもいやであろう。
   また例えば、孫の無事な成長、成人した姿(結婚)を見届けたい、人の世話にならないで終末を迎えたいなど、自分自身を中心に考えることが少ないのかもしれない。そのようであっても今回のようにグループの中では話せないとしても、二人きりで向き合えばきっと何かを語ると思う。
   さて私はなんといったか。「東京に3年間“留学”したい。それは大学で学ぶということではなく、ほぼ毎日のようにある、巷の講演会・報告会、シンポジウムなどに参加しながら、さらに様々な文化に触れて(政治の中枢)東京で生活すること。」であると(以前にも触れた気がするが)。但し「それは60代半ばに思ったことであり、今となっては、“留学”の成果を形にするには遅すぎる、機会をなくした」とした。もっとも学ぶことに年齢は関係ない、その意志だけだ、と言われるけれども、私の中には、折角人さまから学んだものを自分の中にしまい込んでおくだけにはちょっと抵抗感があるのである。

 

 

 

 

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2019年10月31日 (木)

あゝ・・・首里城炎上!

 2015年に首里城へ行ったのが…
   朝、寝ぼけ眼を開かせたのは、スマホニュースの「首里城炎上」であった。正殿、北殿、南殿、延焼中・・・なんということだ。
   沖縄の人たちにとって全島に残る多くの「戦跡」は、沖縄戦そのもの、戦争で亡くなった人を忘れさせない現物であろうし、美ら海、山原(やんばる)の森などの豊かな自然、琉球時代からの歴史と文化をつなぐ再建された首里城は、心の拠り所であっただろう。
   建物はすべて木造建築と聞く。今回再建された時木材の多くが台湾から調達されたというから、この先の再建は困難が予想される。
   2015年6月に、私は「沖縄ピースサイクル」に参加した折、南部戦跡慰霊の訪問をしたが、首里城も見て回った。再建されることになったとしてもそれは数十年先とか、まさかそれが私にとって首里城の“見納め”になろうとは。

 

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2019年10月22日 (火)

10月22日が休日だって?

   即位礼正殿の儀の日の過ごし方
   長く活動してきて私が感じている“この問題にはあまり触れたくないな”とか、数あるメーリングリストであまり見かけない話題は少なくとも三つあると思う。その中の一つが「天皇制」についてである。
 私自身深入りしたことはないし、憲法問題で天皇制が「憲法上疑義がある」としても、では憲法を改正するのかどうかの議論に接したことはない気がする。
 これまで「天皇制」については問題を感じても「天皇」そのものについては否定的に思ったことはない、と自分なりに立ち位置を決めてきたが、「昭和天皇は別」「天皇制と天皇は不可分だから、分けて考えることは矛盾する」という点は交錯していた。
 早い話、ちまたの“天皇制がどうのこうの、憲法で何が問題かは知らないが、今の天皇や皇后に親しみはある”という類と大差はないであろうと思う。左翼の活動家を自認するならこんな腰砕けではいけないのだろうけれども、他の政策課題と同じように「ではどうしたいのだ」と問われたとき、私は答えを持ち合わせていないのである。
 それでも、今日の「即位礼正殿の儀」なる仰々しさを正視することができなかった。テレビから離れて、庭の雑草抜きに精を出し、パソコンと向き合い続け、モーツァルトを聴いて過ごした。
 笑われるだろうけれども今日22日が「祝日(祭日)」とは、昨日の朝まで気がつかなかった。孫が、学校がお休みと聞いて、また朝刊にあった「明日の夕刊休みます」を見るまでは。新聞店、他3か所から戴いたカレンダーの10月22日は「即位礼正殿の儀」とあったが、いずれも「黒字」のままだ。どこでどう決まったのか、うかつだった。
 ともあれ、おかげでピースサイクル全国会議に向けた愛知からの報告書作りの仕事が進んだのだった。

 

 

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2019年10月15日 (火)

二階発言、いい歳こいて“まずまず” か!

 せめて教訓の一つにしておこう
 自民党の二階俊博幹事長(80)が、13日の記者会見で、台風19号の被害が「予測されていたことから比べると、まずまずに収まった」と発言したと伝えられた。結局撤回に追い込まれたが、この「まずまず」の表現が物議をかもしたわけだ。災害や事故に対して、国政の中心にいる人物が言うところの「まずまず」とはどんな状態をいい、どの程度を予測したというのか。いい歳こいてこの発言。
 本来なら「まずまず」は、「大きな災害が予想されたが、関係者の不断の努力でそれを防ぐことができた。我が国の防災体制は“まずまず”だが、これからも油断せず、手を抜かずに防災に努めていきたい」といった具合に使うべきであろう。
 あるいは二階氏は、被害状況を刻々と伝えるテレビさえも見ていなかったのであろうか。そして台風がいよいよ近づいて来ても、自分の家の周りに風に飛ばされるものはないかと見て回り、雨戸を閉め、一応2~3日分の食料の有無を家人に尋ね、携帯ラジオは手元に置いておこう、などとは決して思いもつかない、やりもしないのだろうか。
 政治家は、天下国家の“眼”を持たねばならないが、“足”は、いつも地に着けていなければならない。“眼”は、足下も見ていなければ、危機感さえも覚えることができないであろう。
 この発言で、野党は当然追及したが、追及だけでなく反面教師として、「こうした局面では、真っ先に何をなすべきか、次善の策は何か、連絡網は確かかなどを考えておく」ことが肝要かと。
 ところでわが家の「危機管理」はどうであったか。19号のコースから予測すれば、風は北又は北西の風が強まると予想されたので、雨戸は北側だけとした(ちょっと油断)。飲料水、風呂水、即席麺、パン、カートリッジ式ガスコンロ、携帯電話の充電・・・。まずまずであったかなあ・・・。

 

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2019年10月 1日 (火)

消費税増税、処方薬は?

   増税の初日のあれこれ
   消費税が10%に増税された今日私は、予約していた病院へ出かけた。そこで処方箋をもって薬局へ、大量の薬を受け取ったが消費税のことは聴き損ねた。検索したら処方された薬は「非課税」とあった。しかし薬剤を仕入れた薬局は消費税を払うことになるのだという。薬局はそのまま負担を甘んじて受け入れ続けるのであろうか。いずれ、「調剤技術料」「薬学管理料」などが改定され、結局患者負担になるのではないかと考えたりもした。
 それはそれで判明したが、75歳以上の「後期高齢者」の負担割合が、現行1割が、近い将来2割になるという話を聞くがこれはどうだろうか。仮に70歳以下の3割負担、70歳以上の2割負担が据え置かれ、その上「後期高齢者医療保険」が継続されれば、どうなるか。
 変わって夕方スーパーマーケットに買い物に出かけた。今日の買い物は食材だけだから全品8%のまま。この日「おむすび特売」のお店があって、通常140円の各種のおむすび(コンビニのおむすびよりやや大きめ)が全品100円とあった。そこに14~15人が行列を作っていた。
 もちろんこのおむすびは「テイクアウト」だから消費税は8%。私が驚いたのは、安いからといって夕食におむすびを出すのだろうか?という素朴な疑問。“独り者”ならあるかもしれないが、そうでない人ばかりと見受けたが。
 帰り道、ふと思いついた。あれはきっと“食べ盛りの子どもたちの一時しのぎの食”に違いないと。わが家でも孫が帰ってくると、夕食までの時間、空腹訴える。そこでパンとかポテトフライとかチョコレートなどが用意されることがある。(私に、その任はない)、つまり、いつもならパンとかスナック菓子類であるが、今日は特売だからおむすびにしたのであろう。
 近くに「百均」のお店がある。これまでは「108円」で、「煩悩の百八つ」なんて思っていたが、これからは110円だから「ポリショップ」とでも呼ぼうか。

 

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2019年9月29日 (日)

消費税増税2日前

 「主夫感覚」で、買い求めたもの
 10月1日からの消費税が8%から10%に増税されるのを前に、いわゆる「買いだめ」をする人は少なくないだろうと思っていた。しかし中日新聞の調査では買いだめは50%弱だから、思ったより多くない。買いだめしない人の理由のトップが特に買うものがないというものらしい。例えば「家電」などは、買い替え時期とマッチすれば考えたであろうが、10年、15年の耐久消費財は買わないであろうし、生活用品も「軽減税率」の対象範囲が分からないというのも隠れた理由ではないかと思う。
 私の場合、この9月に入ってからは、コーティングが剥がれるなどしていたから眼科の検診、検査を受けて10年になる眼鏡を更新した。これもそのうちにと思っていた故障中だったラジカセを買い換えた(これでパソコンを撃ちながら音楽が聴ける)。さらに消費が激しいプリンターの(高い)インクを2セット買い求めた。
 家事の買い物としては、「軽減税率」の対象かどうかわからないことが多いので、「5%割り引きデー」に限定して、「主夫感覚」で洗剤、石鹸、歯ブラシ、ゴミ袋、乾電池、トイレットペーパーなどを買い込んだ。
 迷ったものは、しょうゆ、食用油、バター、昆布など乾物、缶詰、米、乾麺、カレールーなど。いずれも在庫があり、不急なものなので購入を見送った。衣類、履物、書籍類、常備薬などもゼロ・・・。
 今日29日は、某スーパーが日曜日で5%割引デーなので、私も昼過ぎに出掛けた。思ったほど混雑してはいなかったが、一人一人の買い物の点数は日ごろの倍以上のように見受けられた。つまり、生鮮食品などより、10キロ米、ティッシュペーパーなどかさ張るものが多い。つまり買いだめである。
 単純に考えれば1000円の買い物で消費税が現行の80円から100円になる。20円の出費増。1万円の買い物で200円増。家、自動車、家具など高額品を除いて日常品の範囲でこれだけなら、慌てて買い込むこともなかろうと思ったりもするが、これを年間に直すと食費だけでもざっと1万5千ほど増加する、ということもあるが、私の実感では既に8月頃から季節商品を除いてちらほら値上げが目に付いていた。これは便乗値上げということもあるかもしれないが、生産者から小売りまでの流通過程で2%増が積み重なっていくことによって、最終的に2%の消費税を上乗せしても、それ以上の出費が見込まれる、それを補うための事前値上げではないか、私はそのように推定したのだった。
 消費者(生活者)と政治家(議員)との感覚のずれが悪政を招く、或いは思いが至らないのではないかと思うと、「主夫感覚」は捨てたものではないと・・・。

 

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