2017年7月12日 (水)

インターネットがつながる

 もっと早く手をうてばよかった・・・
 パソコンのインターネットから離れて12日が経ち、何とかしなくちゃ、という気持ちが急いていた。繋がらないのは電波が弱いものとの思い込みで、2階でパソコンを起動して、電波の強弱に問題があるかどうかを確かめればよかったが、Wi・Fi中継器を先に購入してしまった。しかし2階でも繋がらないことが分かって、思案に暮れたが、時々お世話になる「パソコン教室」の先生に相談することを思いついて、とにかく事情を話して繋いでほしいと懇願した。午後にやってきて、ちょこちょことみて、“やっぱりな・・・”とつぶやいて、パソコンをまたちょこちょこといじって、“インターネットアクセスが繋がっていない”といって、モデムから写し取った10桁以上の数字を打ち込んだら、ちゃんと繋がった。そして1階に持っていて試みたところ、ここでもOKで10分ほどで解決。電波は届いていたのである。
 それで購入した中継器は無駄になってしまったが、幸いにも荷ほどきしていなかったので、家電店に返却の手続きをして事なきを得た。しかしこの間、右往左往したわが姿を思うたびなさない気持ちにさせられた。
 わが身は、もはや“時代おくれ”の渦中にあるのだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年7月 5日 (水)

古希+3の限界?

 断捨離の対極の世代か
 6月30日の「仮住まい」からの引っ越し後の仕事は、梱包状態のままが多かったので、いわば往路より復路の方が楽できると楽観していた。しかしその予想は外れた。まず新居のスペースが従前よりかなり少ないことが挙げられ、部屋のほとんどが段ボールで埋まってしまった。書籍類は、スライド式の書棚をもう一つ導入したので冊数だけで言えば十分といえたが、大判の雑誌、資料集、グラビア・写真集と運動の資料などが山積状態。その結果、部屋の中の“動線”が確保できないため、物の移動に手間と労力が増した。
 当面の収納スペースが確保できないとわかって、引っ越しの際一部を残留させた。そのため1日以降、段ボールを紐解いて効果的に収納し、空いたスペースを確保、そこへ残留物を押し込む作業を繰り返した。仮住まいと新居とは400メートルくらいの距離。その間台車を使って往復することとなったが、日中の作業がきつかった。それでも“あの引っ越し屋の若者の労働に較べれば、まだまし”と考え、「古希+3」の体に無理を言い押し通したのだった。
 3日目になったら、首筋と腰回りが痛くなった。頭の中では“こんな程度では音をあげんぞ”と思ってはいたが、「心技体」のうち、やはり「体」が先にガタが来たようだ。
 “60過ぎたら、引っ越しするものではない。もう大変なんだから”とは聞いてはいたが、果たして「年齢」に問題があるのだろうか?確かに一理はあるとしても、“大変”なほど物が多いことが第一因ではなかろうか。特に私たちの世代では、家電を含む「嫁入り道具一式」持参の時代であり、「大幅賃上げ、高利子配当」もあって、「大量消費時代(世代)」に生きてきたのではなかったのか。或いはひょっとして、「マイホーム」に熱を上げ、「戦後の飢えた時代の反動として、豊富な物に囲まれることで満足し、生きがいとしていたのではないか」さらに“もったいない”が浸透していて、結果として「断捨離」の対極で生きてきた・・・? (追い書き)

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年7月 1日 (土)

引っ越し余話

 重労働の実態を見る
 昨日の朝8時前、時間通りに引っ越し屋がやってきた。早速段取りを話し合い、建物が傷つかないように「養生」の作業が始まった、のはいいが見れば二人きりだ。
  業者から頂戴した段ボールは大小の2種類。小の方に「本・資料」などの紙類をびっしり詰め込んだ。計量してみたら1箱10~12kgあり、私にしてみればズシリと重かった。それが70~80箱。見ていると、20代半ばと30代前半の作業者は、それを二箱ずつ運び出していた。加えて家具類は一通りである。
  「重労働」といえば、第1次産業の農林水産業の現場や、鉱業(採掘現場)、港湾荷役が思い浮かぶが、第2次産業でも鉄鋼、造船の現場、自動車・電機のライン作業、夜勤などがある。そして、物流関係(トラックの運転手)の現場、引っ越し屋は第3次産業に入るであろうが、いずれも過重な「肉体労働」であり、あれこれ比較はできないけれども、引っ越し屋はやはり上位に入るのではなかろうか。
  作業者の一人、30代前半と思われる小柄な人は、聞けば、この仕事を12年続けているという。腰回り・下半身がしっかりしているように見られた。鍛えられてのことだろうが、このまま40代に入っていけるのだろうか。見積もりに来た別の人は20代後半のようだったが「元々、現場でした」といっていたが、腰でも痛めて外交に回ったのであろうかと推測した。
  これらは今風に言えば“ブラックワーク”かなと思ったが、現場を見ていると、そんな冷めたものの見方はできないなと思った。汗ほとばしる労働には、ある種の感動と憧憬があるように感じられるのだ。 (追い書き:7月12日の14時、ようやくインターネットが接続した)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年6月25日 (日)

食品スーパーの閉店

 遠くの百貨店より近くの八百屋・魚屋
 わが家から歩いて3分、ユニー系の食品スーパー「ピアゴ」が、今日の6時をもって閉店であった。夕方5時ころ覗いてみたら駐車場は満車、近くの公園の駐車場や銀行などの駐車場も使われているようだ。
 店内に入ったら人であふれ、空になった商品棚が目に付き、あふれんばかりの買い物の入ったバスケットが片隅に幾つも置かれていた。二つ目の籠をもって買いに行っている人のものなのだろう。レジは行列ができて「最後列」のプラカードを持つ数人も配置されていた。レジは二人体制でフル回転、それもそのはず、ほとんどの人が山盛の籠二つをもって並んでいるのである。
 私は、その日に必要なものを中心に買い物するので、安売りだからといって買いだめすることはあまりない。もっとも昨日は、インスタントコーヒー一つを買い置きしたが。
 このスーパーがなくなると、これからは歩いて片道10数分先の「アピタ」か「アオキスーパー」で買い物をすることになる。往復で3500~4000の歩数になり、1日に課した歩数6300(×0,8=実数の5000歩)の半分程度稼げるから、閉店の不便さは、最小限にとどめることができると思っている。
 そんなことを思う一方、このスーパーができたころ周辺の個人店が閉店した、ということはなかったが、車を持たない高齢者は少なからずいて、その人たちにとってはこの上ない不便さを感じるだろう、ということは数年先にそのことが私にもやってくるということである。
 この先どんな自然災害や、何らかの理由で「品薄」状態がやってこないとも限らない。そんな時地元にスーパーマーケットがあることは心強い。「閉店セール」は一時のこと。日常的に「医・食」が近在にあること、即ち大事にする、大いに利用することが肝要であろう。「遠くの百貨店より近くの八百屋・魚屋」である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

三菱重工・一株株主運動

 株主資格を取り上げられる
 1970年代初頭、多分、「べ平連」の呼びかけだったと思うが、軍需産業「三菱重工業」の、株1株持つことで、株主総会でアピールする、といった運動に共感して、「株」というものを一株ではあるが初めて持った。同時期に水俣病の責任企業「チッソ」の株も一株購入した。
 その後、株式の購入単位の変遷などがあったが、その都度手続きして今日まで「三菱重工業」の一株を維持してきた。チッソは、何の連絡もなく(あったかもしれないが)いつの間にか連絡が途絶えた。
 その三菱重工・一株株主の資格も、いよいよ命運が尽きることになりそうだ。第92回の定時株主総会決議の通知が届き、その最後に、「株式併合に伴う端株処分代金について」という注釈があって、今年の10月1日をもって、株式10株を1株に併合するとし、1株に満たない端株は売却され、それに伴い、株主としての地位は失われるのだという。
 いまさらあれこれ言うつもりはなく、また新たに「100株」購入して株主になるつもりもない。これまで維持してきたのは、その都度送られてくる「会社情報」に幾らか興味があって、どんな兵器を作っているのか、原発事業の状況はどうか、官需、民需の割合なんかを散見する程度に利用していたにすぎない。
 こうして「投資ではない株」の保持は、この三菱重工、チッソ以外に、かつての職場の「三菱自動車」と、労働争議に関連して「豊田通商」「トヨタ自動車」脱原発運動で「中部電力」の株を最小単位(1000株、又は100株)で購入し、通商、トヨタ、中電の株主総会に参加してきた。しかし現在は、「三菱自動車」と「中電」は保持しているが、“生きている株”は中電のみ。三菱自動車株は「死に体」同様で放置したまま。
 こうして、投資ではない株ではあるけれども、一応株を持っていれば、株式市況に目が行き、同時に経済の動きにも少なからず関心が行き、為替の動き、原油価格と「アベノミクス」の関連を考えたりする。とはいっても、深堀はしない、というよりちょっと苦手なのである。
 中電の株主総会は6月28日、この日は引っ越しの前々日なので、「(反原発)株主提案」の委任状は送ったが、総会には行けない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年6月23日 (金)

23日は「沖縄慰霊の日」

 子どもや孫にどう伝えるか
 私は常々、ミニコミ誌などに「わたしたちは忘れない!そして忘れてはいけないこと」こととして「全基地返還まで沖縄を忘れず」「世界全ての核の廃棄を!」を書き込んで、「オキナワ、フクシマ、ヒロシマ、ナガサキ」を忘れないように努めている。
 沖縄については、この6月23日の「沖縄慰霊の日」が一つの記憶しておくべき日である。この日は、1945年6月23日に太平洋戦争の末期、沖縄戦の組織的戦闘が終結したことにちなんで、沖縄県が記念日に定めたとされる。まあ「組織戦」が終わったとはいえ、それは軍事的な意味でしかなく、一般の住民にとってはなお「生きるための戦争」は続いていたであろう。いや、その後の占領政策、「返還」後も、米軍基地の存続と強化、自衛隊の駐屯、そして現在では高江のヘリパッド(オスプレイパッド)の建設、辺野古新基地建設と、沖縄に「終戦」があっただろうか、そんな感じさえする。
 それでも、「沖縄慰霊の日」は、そうしたトータルな「沖縄」を見つめる機会であり、ヒロシマ、ナガサキと共に慰霊することの意義は深い。2015年にピースサイクルの一員として沖縄を訪問し、「沖縄戦跡と米軍基地」を見聞することで、「忘れないオキナワ」の思いをいっそう強く持ったものである。
 この地域で取り組まれている「沖縄行動」に参加する機会は決して多くはないが、この歳であれば、子どもや孫たちに伝えることも大事な務めだと思う。ただ未だその機会を作るまでに至っていないが。
 ともあれ、今日6月23日を迎えて、改めて思いを巡らしたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年6月21日 (水)

古い写真の整理に手を焼く

 身辺整理の一つとして
 30日の「仮住まい」からの引っ越しの日を前に、準備も大詰めを迎えているが、同時に「身辺整理・終活」も進めているので、時間的な猶予は十分でもなかなか進まないのが現状。とりわけ、1980年代後半辺りからの「写真」の整理ができておらず、ネガとプリントしたものが袋に入ったままで、段ボール3箱もある。
 8割がた、袋のどこかに日付と催事メモが書いてあるので、それなりに整理されてはいたのではあるが、2000年代のデジカメに移るまでの約20間は、自身の活動の活発期でもあり、写真は撮りまくっていた。
 時間をかけて整理し尽くしたところで、「事後」は厄介者になる可能性があり、庭先で焼いてくれれば最高、裁断して可燃物として出されるだろうと想像している。ということであれば、一旦整理をしたうえで、無駄な行為ではあるが、自らの手で裁断して焼却するのがベストでなかろうか。
 デジカメになってからは、最小限に選別して編集し、A4の印画紙にプリント、ファイルしているが、それは「個人アルバム」で、運動関係まで手が入っていない。もっとも基本的には、CDに収まっているので、何かに利用する場合は、すぐに引き出せないことはないが、そのCDの整理は十分ではない。
 いったい人間(私)は、どうして写真やら本の類を身辺に置きたがるのであろうか。まして様々な活動資料など、いつか冊子にするかどこかに寄贈する予定でも頭の隅にあるからだろうか。まあ最近のように、人前で話す機会があって、捨てないでいたものが役立ったことがあるにはあったが・・・。
 コツコツとやっていけばいつか完結するか、面倒になって廃棄することを容認する気になるに違いないのだが。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2017年6月17日 (土)

鳴海中学の同窓会

 10回目、ふつうの参加者として
 鳴海中学校を卒業してから15年後の1975年に、(第13回卒業生)第1回同窓会(同年会)を開催して、その後5年ごとに、古希を過ぎた前回からは3年後に開催の第10回同窓会が名古屋で開かれた。
 同期卒業生は9クラス約450人、幹事によれば330人ほど案内状を出したとか。出席者は男女ほぼ同数の60人弱であった。元々の招待恩師は担任9人、教科8人の17人であったが、既に8人が鬼籍に入られ、今回は4人の参加を戴いた。
 準備は万端で、用意された同窓会名簿では、氏名(旧姓)、住所、電話番号はもとより、参加者+二次会名簿、返信はがきのコメントに加え、鳴海中学の沿革、鳴海の今昔物語なども添えられた。テーブルはクラス別の「全指定席」、開会前のクラスごとの記念写真の並び位置も指定するという念の入れよう。
 さて開会。司会者から開会のあいさつ、幹事代表のあいさつがありそのあとに司会者から「残さず食べよう!30・10(さんまる いちまる)運動」の趣旨説明があった。最初の30分間と最後の10分間は席について飲食に専念して出された料理は残さないようにしよう、というものである。趣旨には大いに賛同できるものである。永年幹事をやってきていつも感じていたことの一つに「食べ残し」があって、“せめて自分だけは”と箸、フォーク、ナイフを動かしてきた。ということで、では今日は“完食”したかといえば、実際は飲酒した分を差し引いた「ご飯と味噌汁」だけは手を付けなかった。
 4人の恩師それぞれから近況などが語られたが、米寿から卒寿を越えた御歳であれば、中学時代に教鞭をとった思い出に加え、やはり現況は「健康、持病」の話になった。それも後に続く私たちへの“教え”の一つといえるかもしれない。交流タイムでようやく同窓会らしい雰囲気が出てきたような気がした。あっちこっちで談笑の花が開くのだが、私の感じでは意外と静かのように思えた。“指定席”から離れる人が少ないせいであろうか。特に女性があまり動くことがないように感じたが。
 暫くして同窓生の「近況報告タイム」がやってきて、3~4番目くらいに私も指名を受けたので、第1回の開催から今回まで、こうした同窓会を開催している学年(期生)は他にないことと、昨年6月に開催した同級生による作品展「私たちの小さな足跡展」について話し、来年の秋に2回目の開催の企画があることなどを話した。
 2時間そこそこはすぐに過ぎてしまうものだ。最後にその場で集められたアンケート結果と次回の構想などが提案された。3年後か「喜寿」の4年後か聞きそびれたが、長良川(岐阜)か木曽川(犬山)の「鵜飼」という案が出されていた。これにはどうも同意しかねた。“それは、好きな者同士でやれば”という声も聞かれたが同感である。日帰りと一泊とかがあるとのことだったが、私のテーブルの「総意」は、「名古屋市内で午後の時間帯」であり、特に女性からは、こぞって泊りがけは無理、であった。(分散して鵜飼船に乗ってどうするのだ・・・)
 私にとっては、今回が初めての「お客さん(幹事ではなく、お手伝いもなし)」として参加したが、体調を考えて2次会はパスした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年6月14日 (水)

風邪?をひく

 数年ぶりに寝込む状態となった。
 症状は10日から喉の痛み、咳から始まり、昨日から鼻水の症状が進んで、今がピーク?かな、と思っている。ただ発熱していないので肺炎まではいかないのではと素人判断。新たな症状が出たら病院に行くこともありだ。
 10日といえば、「共謀罪阻止の集会、デモ」が午前、午後とにあって参加した日だった。この日は、遅めの朝食だったので少し多めに摂って昼食は摂らなかった。この日の歩数は11000歩を超えていたから、連日の引っ越し準備もあって、結局“疲れ”からだろうと思っている。とはいえ、この程度の“生活量”でめげることはないと思うので、やはり“加齢”のせいがないとは言えないかもしれない。さらに“非日常(リバウンド)”に対する備えもある程度心得ておくべきかもしれない。
 今日、明日はこのままかもしれず、「共謀罪」成立とあっては、まさしく“遺憾(心残り)”である。

|

2017年6月 8日 (木)

今もってシベリア抑留者!

 戦争“後遺症=残忍性”がまた一つ
 私自身は戦争の実体験者ではないし、或いは戦争映画、ドキュメンタリーを好んで観る方であるが、一方で、反戦、非戦の本(きけ、わだつみの声など)、日本の歴史(昭和史)などに接し、映画でも「人間の条件」「ビルマの竪琴」などに強い影響を受けたという印象を未だ残している。
 去る6日の新聞では、シベリアで抑留された日本人男性、田中明男さん89歳の記事が載った。第二次世界大戦末期の1945年に旧満州(現中国東北部)でソ連軍に捕まり、シベリアで10年ほど過酷な労働をさせられたという。
 この「過酷」とは「飢えと寒さと、重労働」ということらしいが実感できない。しかもそれが10年以上続いたのだから想像を超える。旧ソ連時代のシベリアに捕虜として「抑留」された日本人は約60~70万人、そのうちの約1割~2割6~14万人が死亡したと諸説あるがこの数字も酷い。「戦争は終わった」そのあとのことであるから、戦争終結は、決して1945年ではないといえる。
 それにしても、~田中さんによると、80年代にレニングラード(現サンクトペテルブルク)の日本総領事館を訪れ、「日本に帰りたい」と訴えたことがある。田中さんが満州に渡る前、父は北海道の登別温泉で旅館経営をしており、3歳年下の妹もいた。だが、総領事館から「お父さんはすでに亡くなっている。妹さんの連絡先は不明」と告げられたという~
 これが事実とすれば、日本総領事館の対応は随分冷たいものだったと思う。「日本に帰りたい」というのが田中さんの要請であるから、家族、親戚の事情はどうであれ、とりあえず帰国の方策を考えてやるべきではなかったか。「戦後40年」も過ぎて、日本の国内事情は、中国残留孤児と同じように受け入れる体制はできていたと思うのだ。
 私の知る限りでは、親類縁者の中にこうした抑留者、戦死者はいない。けれどもこういったシベリア抑留者、中国残留孤児、遺骨収集の話、さらに復員兵士、特攻兵士の話などを聞くとわがことのように感じてしまう。
 自ら体験してはいないことを、体験したかのように想像することは容易ではないが、そうした想像力をたくましくして現実に向き合うことは、いつの時代でも、生きている限り大切なことではないかと、この記事を読んで思ったのだった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧