2009年1月20日 (火)

寒中お見舞いを出す

 一言コメントをつけて
 寒中お見舞いのはがき約100枚を出し終えた。
 本文の入る二面には、経緯と気持ちを込めた一文に“かまくら”の挿絵を入れ、宛名書きの一面の下段を使って一言コメントを入れた。数種類のパターンを用意して、一人一人、加筆したりした。
 「1月も、はや半ばを過ぎました、寒さはまだこれからですね。還暦を迎えたと思っていたら、もう“緑寿”になるところまで来ました。今年もまた、やり残し一掃の60代と思って、身辺整理だけでなく、念願としてきた幾つかに手をかけようと思っています。同窓会は2010年です。ではお元気で」
 「傘寿を迎えられ、病気にも克つ心意気、世界を、政治を見る姿勢等から、いつも元気を戴いております、ありがとうございます。私の現在は、トヨタと向き合うことを軸に据えて、労働運動の後尾にいます。TMPCWA支援、ATUサポート市民の会、APWSL愛知などです。」
 「何とか立ち直りができそうだと思っていたら、この大不況。三菱自動車の運命はいかに。電気自動車でこけたら、あとがありません。私の現在は、『トヨタと向き合う』ことを軸に据えて、労働運動を続けています」
 「海上の森-愛知万博、設楽ダム・中部空港・木曾三川-知事選挙、藤前干潟-名古屋市長選挙、憲法9条-ピースサイクルという形で関わりを持ちました」
 「2009PCは既に始まっています。沖縄でのプレピースが2月半ばに。コースの選定と報告は2月中です。愛知は例年通りの予定です。5月末の『国会ピース』の署名活動は3月から始まります。来年は25年目の節目の年。その後どうするかの議論が始まっています。今年もよろしくお願いします。」
 「今年は、文学関係の関わりを考えています。第二詩集、随筆集も書き進めていますが、いつになるやら・・・。みどり文化芸術ネットワークの活躍を見続けていきます。以下は、集会の案内です。」
◆第2回「トヨタ」連続労働講座のご案内◆
・日時:2月1日(日)13:30~
・内容:愛知製鋼の偽装請負を糺す。
・会場:牧野コミセン(笈瀬通り)資料代300円。
 一日が早く過ぎていく感じを否めない。持ちこまれる仕事と、内出する“わが道”の、時間確保のせめぎ合いを抱えながら、わが意思は、きっちりと差配していかねばならない。

|

2008年12月22日 (月)

年末のごあいさつ

 お互い、大地を踏みしめて
 今年は、年賀状を遠慮させていただいたので、緑区を離れたかつての仲間に年末のごあいさつのつもりで、以下のメールを送った。
  「お忙しい年末をお過ごしのことと思います。
 この1年を振り返る余裕などないかもしれませんが、それぞれには、晴れ間あり、曇天あり、氷雨も慈雨もありの1年でしたでしょうか。
 私の年末といえば、今頃は年賀状の追い込みに入っている時期ですが、お知らせした通りの事情でその難儀は回避できました。ところが、ここにきて葬儀が重なり、通夜、告別式が4日続く異例の年末となりました。何があるかわかりませんね、この世は。 
 その最中の20日は、四季雑談の会の『望年会』でした。滝の水の『四季亭』で9人が集まりました。
 1月の「冬席」から始まって、四季の席を設けることができ、Y医師の『高齢者の医療、介護、終末』のお話も聞くことができて、1年目としては、まずまずだったかな、そう自己評価しています。ということで『望年会』は、Y医師へのお礼の席でもありました。
 今年の『忘年会』は初めてでしたが、これでおしまいになるかもしれません。
 ブログの方はほぼ毎日更新していますが、無理して毎日でなくても、と思いつつ、流れを断ち切りたくない衝動に駆りたてられ、何とか続けております。2009年の5月ころには、話題が1000に達する予定ですので、何かイベントをと考えていますが、先のことはどうなりますか。
 『緑ネットの総集編』の編集を始めて1年が経過しました。最初の1~2か月は集中して取り組みましたが、全トヨタ労働組合をサポートする支援の会の活動が本格化して、中断したままになっています。
 完遂は難しそうですが、CDに落とすまでなら、できるかもしれません。もっとも時間が経過するほどに、その価値観が私の中で薄れていくことが、問題なのですが。

 新しい年を自らのものにできるよう、お互い、大地を踏みしめて歩いていきましょう。
 いいお年を。 2008年 師走 」

       

       

| | コメント (0)

2008年11月18日 (火)

メールでお手紙

 ○○さま
  メール受け取りました。
 お便りをいただき嬉しく思っております。
 拙い詩を読んで戴きありがとうございます。
 詩を書き始めた19歳のころ、夜間高校に入学したころなのですが、すぐにその才あらずと自覚して、本格的に詩に打ち込むことはありませんでした。
 ですから、以後30年以上も空白があって、ふとまた書き始めたのですが、そのことで、あまり力まず書くことができるような気がしています。
 何事も、人生をかけて打ち込むことはとても大事なことだと思いながら、仮にそれが挫折した時の衝撃、後遺症は決して小さくないだろうという気もします。頂点を目指して、その栄誉を手にするのはほんの一握り。
 そう考えると私は、つくづく中途半端な生き方をしてきたなあという気がしています。
 それは座右の銘、というほどのことではありませんが、「緩急自在、広く浅く、井戸一つ掘る」という私の姿勢にも表れていると思っています。ただ、この歳となって「井戸一つ」が掘り切れていないのが口惜しい限りです。
 まあ、このあたりかなと思い定めて、ツルハシを入れ始めてはいますが。

 メールの印象から動脈瘤の手術は、順調に終えられたと推察いたします。お連れ合いさまもお元気なれば、今しばらく、四季を愛でることも難しからず、と察しております。
 そんな折りに、教え子のクラス会の座がしつらえられ、写真で見る元生徒の皆さんに囲まれたお顔を拝見いたし、安堵しております。
 そういえば、5年に一度の「中学同窓会」は、年を経るごとに、開催期間が長く感じるようになり、いまでも早く開いてほしいという声を聞きます。それもあってか、クラス会とか、同級生数人あるいは、女性たちだけで会う機会を作っているという話も聞きます。
 あまり大がかりに考えなければ、案内状一つで事足りますが、次回の2010年はどうなりますか。「幹事降板」を宣言した私は、案内状が届くのを待つばかりです。

 葉書に書きました「雑談の櫂」を別途お送りしますので、またご笑覧ください。
 それではお元気でお過ごしください。
           2008年11月18日

|

2008年4月18日 (金)

“老い”は共通の関心事

 読者からのお便り
 私が参加している会員制の「老兵たちのフォーラム」の、当日欠席された三人の方から、お送りした「4月例会のメモ・レジュメ」「雑談の櫂・第5号」「C&Lリンクス愛知第43号」の感想などが葉書で送られてきた。
 70代半ばのHさんは、「・・・“雑談の櫂”は、力みのないのが、いい問いかけになっています。介護の問題、皆で討論したいテーマです。“リンクス愛知”所載の『飲む』という詩は、傑作です。
 桜も散って、若葉が出はじめました。この頃の若い、生き生きした緑の色は、生命を象徴しているようで、心が萌えます。」
 80代半ばのIさんは、「桜の花片が美しく散り始めました。お元気でご活躍のことヽ存じます。リンクス愛知、雑談の櫂、大変面白く拝読しました。
 “台所に二人並び立たず”“四季の記”など、貴君の日常のあれこれが、偲ばれて読ませました。
 小生は、相不変、老母、病妻の世話で多忙な主夫を過ごしております。」
 もう一人は50代後半の女性。「フォーラムの報告書他、ありがとうございます。皆さんのいろいろなコメントも興味深いものがありました。『雑談の櫂』春号の方、とてもおもしろかった、どれも私に当てはまることだからでしょうが、“橋上の人”は、日頃思っていた事が文字化されていて、“そうそう、こういう事がいいたいのよ”という思いでした。・・・」
 「リンクス」を政治や社会的な問題をテーマにし、「雑談の櫂」は、居住地の暮らしの問題と、文化をテーマにしていて、私の両輪をなしている。
 今号の「雑談の櫂」で、「高齢者の医療・介護・終末」の問題を取り上げたので、お互い対象の年代であれば、関心が寄せられたものだと思う。
 “老い”は、意識する、しないに関わらずやってくる。そして他者から刺激を受けることも多い。自分のことはさておいて、“あいつ元気いいなあ”“少し老けたなあ”“おお、そんなことに打ち込んでいるのか”“又旅行してきたんだって”とまあ、羨ましいのか、評論家気取りなのか、無責任に言いつつ、ふと“オレはどうなんだ”と、投げかけた意識は、ブーメランのように戻ってくる。そのことは決して、私も例外ではない。
 時折り書く詩も、「雑談の櫂」も、その「進化」というより、「深化」させたいというのが私の願いであるが、未熟なそれは、まるで投げた石が、水没して水面に小さな渦をつくるのではなく、水面を三つ、四つ跳ねていってしまう趣なのである。

|

2007年9月27日 (木)

Tさんへの手紙

 Y・T様
 前略、失礼します。
 詩集「坂」の感想のお葉書有難うございました。
 私には、「陽のあたる坂道」を歩いてきたという自覚はもちろんありませんが、陰の世界、裏街道でもありません。Tさんのおっしゃる「少し翳りのある道」は適切な表現かなと、私自身もそう思うところがあります。それがまた、今日までの運動で生き長らえた背景でもあろうと思っています。
 例えば、議員とか労働組合の委員長とかで表に出ていたら、あるいは逆にこれまでの運動で、参加はすれどもその後尾ばかりについていたら、やはり今の自分はなかったと思っています。
 これまで私が辿ってきた「自立無党派市民」という立場は、すべて「自由な選択ができる」立場である一方、他者から責任の所在、信頼性の密度に疑問を投げかけられる、という自覚もありまして、その点に関する向き合い方、処し方には、かなり気を遣ってきました。
 1997年から本格的に取り組んだ愛知万博反対運動でも、市民運動的手法に加えて、労働運動的な組織運営を心がけ、全体の議論を踏まえながら、核心部分の問題提起、具体的な運動提起、経過の報告、議事録の作成、一つ終えれば総括、そして運動の終息に当たっては、総括的な提起をして、なしたる運動の意義の確認をしてきました。
 私が拠って立ち、その中心をなしたミニコミ誌「緑ネット」は、万博の終了後2年を経て、その役割を終えたとしてこの11月で終刊としました。
 他では、1999年から3回の知事選挙、2001年の名古屋市長選挙でも、全体の総括とは別に、「私的総括」をきっちりやりました。けじめをつけるためでした。

 こうした過去を顧みれば、Tさんのいわれる「シニシズムとは対照的・・・・」という表現もまた、この限りでいえば結果的にそうともいえるのかもしれません。ただ私の性格からすれば多少の「ニヒリズム」もありますから、すっきりとは思わないところはあるにはあります。
 2001年に病気して以来、とばかりいえませんが、この2年ほど前から、運動の第一線から、意識的に戦線を下げてきました。1997年に会社を退職して、“10年がんばってみる”という期間が、今年の7月までであったこととは無縁ではありません。
 また「生涯一現役」と思ってはいますが、その位置については軸足を代えた、と言うところはあります。あるいは「転進」と言うこともできます。
 詩「医師の手」に込められた、ご指摘の「期するところ」はありますが、もはや第一線で旗を振る立場にないという自覚は、その胸の内をあける必然性を失いました。文字の中に封印したままです。
 更に「自分史」を幹として、そこからの枝の出し方、伸ばし方については、太陽に向ってとばかり、とは考えていませんで、自らの足跡を顧みれば、おのずと「翳のある道」と一緒することになります。そしてその記録は、私自身を切り離してのものでなく、私の影を映すものにしたいと思っています。
 いまでは、「TMPCWA支援」「ATUサポート」「トヨタの研究」が、唯一の「現実的」課題ではありますが、その第一線に立つ積りはなく、いずれの場合も「サポート」から出る事はないと思っています。ですから「ATUをサポートする市民の会」の発足に当たっても、その役回りは「一サポーター」というところをご了解願いたいと思っています。
 これまで交流がなかったのに、拙著をお読み戴き、感想まで聞かせていただきました。有難うございました。
 実りの秋、何か一つでも収穫したいものですね。    草々

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年8月19日 (日)

お手紙-2007年夏

 イカロスさま
 原稿依頼の件で、早速のご返事ありがとうございます。何か急かせたようで恐縮に思っておりますが、届くのをお待ちしております。
 メールによれば、新たな構想で執筆に多忙とのこと、それは笠松の「町の部分」となって仕上がり、それらが幾つも書きあがって、いつの日か、笠松の全体像が「市井作家の笠松事典」として集大成されるのでしょうね、きっと。
 そのためには長生きをして、広く人と交わり、集中することだと思いますが、もうその“街道”をすでに歩いているようにお見受けしました。
 先日、きっと覚えていると思いますが、N・Oさんから手紙をもらいまして、「愛知の民衆史が書けるのは君しかいない」なんて、かなり的外れな「期待」を寄せられました。
 多分、彼が歩んできた来た道と私の歩んできた道とが、重なり合う部分も多いこともあって、 彼がそのようなことを望み、また必要性を感じて、私にそれを託そうとしているのではないかと推測しました。それがいつの間にか、「愛知の民衆史」まで飛躍してしまったものと思われます。
 1960年代の後半から、労働運動などの活動に足を踏み入れた私ですから、それ以前のこと、そのつながりと流れのことはわかりません。その後もどちらかといえば、“隙間の労働運動”“落穂拾い”のような地域活動ですから、少数派労働運動、三里塚闘争、境川流域下水道、米軍依佐美基地撤去運動、オルタナティブ-地域運動、名古屋労組連、赤と緑のメーデー、ピースサイクル、愛知万博反対運動、各種選挙と、もうジグザグもいいところで、まるで一貫性がありません。
 また「民衆」というとき、どのあたりをさして言うのか、その視座によっては、一人よがりになりかねません。「史」など、私には思いもよりませんので、とても私の任ではないと、ご返事いたしました。
 N・Oさんは、世代として運動を何らかの形で次代に引き継ぐ必要性を、日ごろから力説しておられます。彼自身の体験もまた、その一部であることは間違いないと、私は思っておりますから、言わんとするところは理解でき、大いに賛意を表したいと思っています。
 しかし、その作業は荒々しい“岩場”のように見え、それを白砂青松の浜に変えるような、目も眩む思いがします。
 ですから私は、そんな風に考えないで、“語り部”のような機会をつくり、それらをこまめに書き残すことでいいのではないかと思っています。手前味噌ながら、「老兵たちのフォーラム」に参加しているのも、そんな気持ちからです。
 
 残暑厳しき折り、大いなる執筆と
     併せてご自愛のほど、お祈り申しあげます。
         2007年 夏

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月17日 (土)

またお会いできる日を

 寺尾さま。
 今日のエントロピー学会の集いでは、私は午後からの「アセス市民の会・総会」に参加していまして、残念なことに“ラストスピーチ”を聞くことができませんでした。でも、そのあとの懇親会(送別会)では、僅かな時間でしたがお話ができて嬉しく思っております。
 そのときにもお話しましたが、最初の出会いとか、共に何かをしたとか、そんな印象が薄いのに、でも何かを一緒にしていた気がしています。ついさっきまで、インターネットで検索していて、改めて寺尾さんが多方面に関与され、尽力されていたのを知りました。幾つかの代表、共同代表、世話人などをしつつ、一市民として関わる姿勢に、多くの人が共感と親愛を抱いてきたものと思います。そんなこともあって思いのほか、出会いが結構多くあったからなんでしょうか。
 懇親会では、幾人かの人から1970年前後の「名工大」の大学闘争の話題が出ていましたね。もちろん私は、そのことだけは知っていましたが、大学闘争の現場へは、一度も足を運んだことはありませんでした。
 そのころ職場には「反戦青年委員会」という非公然組織があって、私はそこに加わってはいましたが、仲間と街頭に出たのは2~3度でしょうか。ですが、当事は労働運動=組合活動が主で、政治活動は組織的に取り組むということは少なく、もっぱら個人参加の形でした。また、私個人としてはどちらかといえば、「ベ平連」に傾倒していきましたが、名古屋のメンバーとは意気投合できず、もっぱら東京に出掛けたりしていました。
 そんな昔話をすれば、参加者全てが1時間でも2時間でも話すに違いありません。良くも悪くも、青年時代に強い社会体験をしたことは忘れないものですね。まだ入社したてのころ、応召して戦地へ行った方たちの、「戦争話」を繰り返し聞かされて、うんざりした経験がありますが、そういうものなんでしょうねえ。
 寺尾さんは、「不戦ネット」の共同代表3人のお一人でしたが、影山さんが体調などで降りられ、この地を離れられる寺尾さんが実質降りられると、水田さんお一人になりますね。これも何か一つの時代を現しているような気もします。
 そうした世代観からすれば、私など若輩に過ぎませんが、「生涯一活動家」という意識の下でやってきましたから、活動に情熱を失くしては、身の置き場がありません。この先も名古屋から離れることはありませんから、何かを求めてまた始めたいと思っていますが、思い切って「転進」したい、というのが現在の心境です。(先の知事選が、私の運動の幕引きのきっかけになるとは全くの想定外でした)
 関東の地に移られると、首都圏と言うこともあり、政治的にも文化的にも、影響や刺激を受けることも多いと思われ、これまで以上に運動への情熱が高まるかもしれませんね。新しい環境ですから、仲間つくりといいますか、人脈つくりも大変でしょうが、全国にお知り合いが多いとも聞いておりますので、そんなつながりを経てきっと、また何かでお名前を拝見することになるでしょう。
 とはいえ、“老域の中堅”に差し掛かりつつありますので、どうぞご自愛くださいませ。
 名古屋へ来る折りもあるとお聞きしておりますので、そのときにお会いできることを楽しみにいております。最後に、TUPの情報いつもありがとうございます。
2007年3月

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年12月 1日 (金)

返信レター

 ○ ○さま 
 拙著「扇川をわたって曲の手へ」をお読み戴きありがとうございました。また、間違いの指摘をして戴き、その裏付けとなる資料まで頂戴し恐縮致しております。
 いずれもご指摘の通りで、異論を挟む余地はありません。今となっては、正誤表を付けることはかないませんが、お読み戴いた方への訂正の連絡は、いずれ致したいと思っています。
 全体の構成、装丁、原稿の打ち込み、校正まで一切合財を自分の手で行いまして、とりわけ校正を3回行ったにもかかわらず、誤字、脱字の類いが散見され、恥ずかしい限りです。せめて校正だけでも、人の手を借りればよかった、と反省しきりです。
 また、主として第一部の前半部のところは、記憶だけの執筆で、裏付ける資料もなく、また、人を中傷したり、不快にさせたりしなければ、全体の雰囲気といいますか、流れがわかって戴ければいいという、気持ちがありまして、間違いや記憶違いはどなたかが指摘してくれることすら願っての執筆でした。ここに陥穽があったと思っています。
 また、頒価をつけずにお配りして、お読み戴ける、それだけでいいという安直な気持ちが、深く推敲することを怠ったものと思っています。
 いまさらに、本屋の片隅でも置くようなことがなくてよかった、そう実感しております。改めてお礼申し上げます。

 お手紙の中で、私の養成工時代に触れた箇所に多くを割いておられますが、間違いの指摘と同時に、その視点と思われる感想、資料も読ませていただきました。
 私の文章は、企業内教育の問題点や歴史認識の欠如に深く立ち入ることはせず、「生活日誌」をベースとした3年間の時間的経過と感想のようなものを述べたに過ぎません。
 三菱という企業の歴史と内実は、日本の資本主義社会の歴史的断面を色濃く映し出しているものといえましょうが、この書で掘り下げることは当初から想定していませんでした。
 「名古屋三菱・朝鮮女子勤労挺身隊訴訟」というのがいまも取り組まれておりまして、私も時折り裁判傍聴に出かけています。これも、当時の政府、企業がどんなものであったか、その後の「戦後補償」にどんな姿勢を貫いてきたかを知るにはいい機会となっています。とりわけ、朝鮮の人たちからの目線、指摘は貴重なものと思っています。
 ご指摘があったかもしれませんが、かの戦争が軍部によって戦端が開かれ、軍主導で遂行されたとしても、中国大陸や東南アジア諸国に資本の利権を求め、その権益を守ろうと軍の出動を要請したのは時の政府であり、資本家・企業連であったことは明らかだと思います。またそれを阻止できなかった国民、報道、知識者階級、政党も責任の一端は免れないものと思います。
 そうした総体的で個別的な歴史的検証については、私は学ぶ立場であり、何がしかの運動の場面で生かす立場でもあって、書で著すことは考えたことはありませんでした。しかし、経験したことの実際とそれを現存するこの社会でいかに止揚するかは、能力的限界はあろうとも、常に心得ておくべきだろうという認識は、一応持っているつもりです。

 還暦を記念して出したこの書は、それ以降の10年ほどはもう少し、いまの運動を続けていこうという密かな決意の書でもありますが、読み手の見る角度は一様ではなく、いまもって、本が一人歩きしているようなお手紙をいただくことがあります。
 最近では、全く面識のない人から、電話を戴いてインタビューを受け、それを機会に「老兵のフォーラム」なるものに誘われています。 (後略)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年10月 1日 (日)

メールで失礼します

 友遠方より来る・・・ また喜ばしからずや・・・
 Tさまご夫妻へ。雨の中、緑区・鳴海までおいで下さりありがとうございました。町の散策、案内ができればよかったのですが、それはまたの機会の楽しみということにしておきましょう。
 杯をかわして、話題が多方面に広がってどんな話をしたのか、手料理の話以外はしっかりと覚えていませんが、それは心地よく話が弾んだことの証しだと思っております。中々、同質の話題を共有する機会はもてないものですが、それがあって“話題の花”が開いたのでしょう。

 それでも、かつて共に闘った仲間の話は、私自身の話と重なって、何か語り継ぐ、書き残す「課題」が潜んでいたような気もしましたが、それを切開することは、気の重い仕事のようにも感じました。
 大言壮語を、こぶし振りかざして叫んでいた人たちに較べれば、私たちのそれは控えめすぎるくらい謙虚だったと思いますが、それでも、「元気のいい」人から退いていったのは、自分の言葉の重みに耐え切れなかったのか、そう信じたことへの絶望感の深さゆえなのか、そうであれば、これも責められない話です。
 というようなことは、もういわなくてもいいかな、という気もしたりしますがどうでしょうか。

 参院選挙や知事選へのかかわりについて問われ、「やる人がいないから」という、消極的な返事をしましたが、これは、私の気力や意志の足りなさもありますが、それ以上に、「この社会、この国の行方」に、希望を見い出していない、社会的“良質部分”の人たちが罹っているであろう病気か倦怠に、私も知らず知らずのうちに、罹患しているからかも知れません。こういうのを「アンニュイ」とでもいうのでしょうか、それとも単に、社会的関心の分散化現象なのでしょうか。
 そんな風にも考えて、自らの力量はともかく、問題提起、情報提供くらいはできるだろう、そのうちきっと“救世主的”リーダーが現れるだろうと、それを期待してせめて「つなぎ」の役くらいは引き受けよう、これが実体に近いものでした。しかし、往々にしてこの世の中は、リーダーは現れず、二流、三流の人物が執り仕切ったりすることが多いようで、今回はさらに、それに輪をかけているような状況ですから、「憲法が危ない」「九条を守れ」というのは、いつになったら“本物”になるのでしょう。

 そういえば、以前にもお話しましたけれど、そちらから「本は一人歩きする」という言葉を聞いていましたから、なるほどこういうことか、という経験を未だに重ねております。特に、昔の学校、学友の思い出などは、話題もその領域にとどまることが多いので、それ以上の広がりはあまりありませんが、労働運動などは現在にまで継続しているものですから、「あの時はどうだった、それからどうなった、これからどうなるのか、どう考えているのか」という、お手紙や電話がきたりします。今後、その方面でのかかわりが出てくる予感がしています。
 一方で、お送りしたものの、全く音沙汰なしというのも、寂しいというより、こちらが何か思い違いをしていたのかな、と思ったりしますから、やっぱり、受贈したものには、一言でもいいから、何か返事を書いて返すのがエチケットかな、という自省ももちました。遅まきながら、Tさんの著書にご返事を書かなかったこと、ここにお詫びします。

 10月は、07参院選・全国会議や講座の発表会、ピースサイクルの報告書、「緑ネット」の発行など、そちらほどではありませんが、結構いろいろ入ってきて忙しい月になります。でも読書、映画、軽ハイキング、チリリン記など秋を楽しむことも大いに心掛けたいと思っています。
 メールで失礼しました。またいつか会える日を楽しみにしています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)