2009年10月11日 (日)

五輪へ、広島、長崎の両市

  メッセージこそ第一か
 広島秋葉市長、長崎田上(たうえ)市長が、2020年の夏のオリンピックに、両市で開催するとの意向と伝えられた。
 かなりびっくりした。そして歓迎したいようなしたくないような複雑な気分になった。オリンピックそのものの是非論からいえば、それはすでに10月2日のブログで見解を書いたので省く。また、広島-長崎での開催が技術的(理論的)、財政的に可能かどうかはさておくとして、広島-長崎が主催都市であるから「五輪-平和の祭典-核廃絶」が、招致理由のバックボーンになるという。そうすると五輪のもつ、もう一つの存在意義「スポーツ競技の最高峰、最高栄誉」と、合流一致するかは不明なところがある。
 思うに、秋葉広島市長、田上長崎市長が開催候補地に立候補を検討するとした動機には、実際に招致する、あるいはできるかどうかは、国民の期待感、注目度、新政権の意向に任せるとして、もっぱら、オバマ大統領の演説、ノーベル賞受賞の流れを読んでの世界への、「核廃絶のメッセージ」に主眼が置かれていたのではないだろうか。しかも、このタイミングこそが重要であると。
 もう一つ思ったことは、秋葉市長にとって、次期市長選に出るにしても、出ないにしても、市長としての総仕上げをする、良き舞台となると踏んでいるのではないか、という点。もとより、世界の核の廃絶という超難題の政治課題が、一市長の個人的な思いだけで展開できるものではない。しかし、思いつきには、ひらめきがあるとしても、長くて深い、思い続けた思想性があればこそ、ともいえる。
  そしてもう一つ。ピースサイクルの仲間の受け止め方である。地元広島、長崎では、どう受け止めているのだろう。それは財政負担、自然破壊のオリンピック自体は賛成しないだろうから、核の廃絶の世界的運動がオリンピックという形で具現化される可能性と方法論についての見方である。
 今すぐ、賛成か反対かをいう必要はなく、両市長の具体的提案を見てからでも遅くはない。ただ、ピースサイクル運動自身が、2010年を25年目の節目としていることで、存続の可否を含めた議論をすることになっているので、核廃絶の世界的運動に連動した運動を展望する時、議論に少なからず、影響を及ぼす可能性がある。
 私自身は、ピースサイクル運動を25年でいったん区切りにする。新しい運動の在り方を模索する。模索して見つからなければエンドとする、が現段階に考えであり、今、仲間の意見を聞いているところである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月15日 (土)

私の8・15

特に何もないのが幸せか
 確かに8月15日は、「終戦の日」と記憶されているが、私個人にとっては特別の日ではない。我が家、ごく近い親戚筋から戦死者、戦病者、戦災死が出ていないこと、空襲で焼け出されたこともなかったなど、強烈な戦争経験がなかったからかもしれない。戦中、戦後の混乱と苦しい生活はあっただろうが、親からは、記憶に残るほどの話はほとんど聞いていない。あったとしても兄たちまでで、末弟の私までは届かなかったかもしれない。
 小中学校でも、戦争で親を亡くされた同級生がいたが、それすら記憶に残るのはごくわずかといっていいくらいのものであった。教師からも、それらに類する話は、少しはあったに違いないが、私は何も思い出すことができない。
 小学生の時、授業中に突然泣かれた女の先生のことを思い出すが、お一人は、野口英世の話の時だったように思うが、確かではい。もう一人の先生の場合は、全く思い出せないから、ひょっとして戦争に触れる話をされ、ご自分のつらい思いがよみがえって、つい泣かれたのかもしれなかった。
 空襲で焼かれた町の風景という記憶もない。せいぜい、田んぼの中にあった「爆弾池」くらいで、“泥沼で、すり鉢のようなっていて深いから、絶対に近づくな”と親から言われた記憶はあるが、それ以上でも、それ以下でもない話であった。
 就職試験を受けた先が新三菱重工であったため、会社の下見をした大江工場にはまだ、焼けて鉄骨だけとなっていた工場建屋が残っていた。それが、戦争の痕跡を記憶する最初ではなかったかと思う。1960年ころ・・・。
 「8月15日は、終戦の日ではなく、敗戦の日である」というような、最初はどこが違うの?と思ったことのある経験は、組合活動に触れた10代後半のことであっただろうか。どんな形であれ、戦争体験を忘れ難く持ち続けている人たちにとっては、終戦も、敗戦も「8月15日」に、何の変わりはないだろうけれども。
 このイデオロギーだけの話は、私の中では強く印象に残っていて、その後の思想的構成要素の一つであった。しかしいつも、その実感の軽さが付きまとっていて、例の「靖国問題」にしても、実際に親、兄弟を戦争で亡くされた遺族の思いに比べると何となく軽薄に思えて、切り込み口をなくしてしまうのであった。
 しかし、しかしだ。今となっては、私より遙かに「戦争体験」の少ない世代が多くなった以上、経験的“語り部” と較べられ、イデオロギーだけの「非戦・平和」であっても、もっと強く主張されねばならないと思う昨今である。
 「8・15」について考えるとき、特に何もないのが幸せに違いないだろうが、人それぞれであると同時、8月15日を何かと利用して「戦争のできる国づくり」に意欲を燃やす人がいれば、それを排する運動は、どんな形であれ必要ではあるまいか。ピースサイクルの運動が、それなりに私の中で“鎮座”しているのは、その反映ではないかと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月 9日 (日)

ノーモア ナガサキ2009

 平和へのメッセージ
 この日の午前11時02分に、人類史上二発目の原子爆弾が長崎市に投下された。
 広島も長崎も「軍都・軍需工場」で狙われたのであろうが、それだけなら名古屋も攻撃目標になっていたに違いないが、この時期に至っては、東京も名古屋も大阪も、大都市はすでに焼け野原であったろうから外されたのか。それともやはり、戦艦大和(呉海軍工廠で建造)、武蔵(三菱長崎造船で建造)が関係したのであろうか。
 ピースサイクル愛知ネットからは、既に田上長崎市長あてに「平和メッセージ」を送ってあった。
 ・・・長崎市主催の「被爆64周年原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」開催にあたり、私たち「ピースサイクル愛知ネット」から、平和へのメッセージをお届けいたします。
 8月9日、長崎市民、そして全国民にとって忘れることのできない被爆64周年を迎え、原爆の犠牲となられた方々のご冥福をお祈りし、この悲劇、罪深きことを再び繰り返さないために、今を生きる私たちは、世界の恒久平和を実現するために努力を続けていきたいと思っています。(以下、秋葉広島市長あてのメッセージとほぼ同文)
 長崎へ訪れたのは、もう20年以上も前であろうか。一人で三菱長崎造船労働組合(第3組合)を訪ねた折り、平和公園を案内され、そこで初めて被爆10周年を記念して建てられたという、高さが10メートルほどの男神像を眺めた。何かを表現しての像であったろうが、その時は、広島と随分イメージが違うなあ、広島のひたすら平和への祈り、世界への叫び、呼びかけが「静」のようであったのに対して、長崎のそれは、どことなく「これは闘いだ!」とでも言っているような「動」を感じたのだった。
 それは、当時の同盟系の第二組合と闘い、共産党色の強かった第一組合とも決別して結成された、少数派労働組合「三菱長船労組」(第三組合)に共感、連帯しての気持ちも反映していたかもしれなかった。
 それはそれとして、広島は峠三吉、栗原貞子に代表される詩と詩人が想起されるが、長崎は、藤山一郎が唄った「長崎の鐘」という歌謡曲が頭から離れない。
 この歌は、今は亡き兄たちがよく口ずさんでいたことで、特に記憶の残滓としてどこかにあるのかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月 6日 (木)

ノーモア ヒロシマ2009

 秋葉広島市長へのメッセージ
 今年もまた秋葉忠利広島市長あてに「平和メッセージ」を送った。メッセージだけでなく、もう一度広島の「原爆忌」の日に訪れてみたいと思っているが、ピースサイクルの運動から離れた時になるかもしれない。
 秋葉市長あてのメッセージの要旨は以下の通りである。
 <前文略>
 ・・・また昨年は、豊田市在住の女性が広島まで自転車で完走し、現地での式典、様々な平和行動に参加したとのことでした。また、5000を超える折り鶴と、自治体首長からメッセージをお届けしたところです。
 さて、核兵器廃絶の動きにつきましては、今年になってから大きな動きがありました。
◇5月18日、ノーベル平和賞受賞者17人が連名で、「ヒロシマ・ナガサキ宣言」を発表しました。
◇6月17日、衆参両議院において日本政府に核兵器廃絶に向けた取組強化を求める決議が全会一致で採択されました。
◇7月07日、オバマ米大統領とメドベージェフ露大統領が、第一次戦略兵器削減条約(START1)の後継条約で戦略核弾頭数は、上限をこれまでの2,200発から、1,675~1,500、ミサイルなど核弾頭運搬手段は1,100~500を上限とすることで合意し、新たな核軍縮条約を締結するという共同宣言に発表しました。
 これらの動きは、核兵器の廃絶を願い、恒久平和を求める、被爆地広島、長崎のみなさんをはじめとする、全世界の人々にとって歓迎すべきものです。ぜひとも削減の実現、さらには完全なる廃絶へと進んで行ってもらいたいものです。
 このような喜ばしい動きがあった一方で、8月6日、広島市内において、「日本会議広島」主催の、前航空幕僚長・田母神俊雄氏を講師に迎え「ヒロシマの平和を疑う」と題した講演会が開催されるという報を受け、その無神経さ、世情への踈さにあきれるばかりです。
 <中略>
 秋葉市長におかれましては、毎年8月6日の式典で、広島市長という立場からだけなく、自ら思いを込めて「広島平和宣言」をお書きになり、読み上げられていることと思います。私たちもその「宣言」に接するにつけ、新たな認識と決意を覚え、勇気をかきたてられてきました。
 今年もまた愛知から「平和の折り鶴」をお届けします。どうか、これをもって、この愛知から、広島の地に思いを馳せ、共に恒久平和を願っている気持ちをおくみ取り下さい。
 最後に、貴職のますますのご活躍と、平和への取り組みを期待しております。<後略>

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月12日 (金)

平和へのつどいinなごや

~ヤスミンが奏でる アッシュ君が語る~
  夏風邪であろうか、ちょっと気分がすぐれなかったが、「9・11」にあわせてでもあろう、半分以上、いや7割方女性という「平和集会」を覗いてみた。「ヤスミンが奏でる~ アッシュ君が語る~ 平和へのつどいinなごや」ざっと200人くらいの参加であったろうか。
 プログラムは、「IRAQ WAR」の上映が20分ほど。そのあと、カーヌーン(アラブの琴)奏者・ヤスミン植月千春さんが平和への想いを弾き語り。カーヌーンなる楽器を直接見るのも聞くのも初めて。両手の親指と人差し指を使ってはじくように弾くのだが、聞き始めると、そういえばどこかで聞いた音色かな、とも思った。
  ヤスミン植月千春さんは、京都芸術大学卒で、アラブの琴(カーヌーン)奏者。専門はラウンジピアニスト。2001年イスラム教徒となり、2003年軍事占領下のイラクに入る。他のNGOメンバーとともに『バグダッド バーニング-イラク女性の占領下日記』などを翻訳出版。イラク攻撃反対・反戦を、祈りの音楽で表現し、全国各地にて公演中。という
 自身の“告白”によれば、2003年イラク・ナジャフ滞在中に、劣化ウラン弾に触れ、それがもとかどうかはわからないが、5年後の今年「子宮肉腫」と診断され、10月に入院、検査・手術になりそうだという。そんな中での公演でもあり、劣化ウラン弾がごろごろするイラク現地の悲惨な映像と二重写しになった。
 もう一人のゲスト、イラク帰還兵・アッシュ・ウールソンさんは26歳。1999年に米陸軍沿岸警備隊入隊。州兵に海外派兵はないといわれていたが、ニカラグア、タリル、イラクで従軍したという。
  帰還後は「反戦帰還兵の会」に参加。2008年1月ボストン~ワシントン、2月広島から9条世界会議会場(幕張メッセ)に向かって9条ピースウォーク(71日間)を歩いた。『日本国憲法は僕らにとっても希望の星。9条の灯を消さないで』と語った。
 またイラクでの体験と悲惨な現状を語ったが、米軍の内側から、兵士たちの意識、気持ち、生活、戦闘時などの精神状態の一部が語られれば、もっとよかったな、とは思ったが、現時点では、語りづらい面もあるのかもしれない。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年8月 9日 (土)

長崎への平和メッセージ

 哀調の“長崎の鐘”を想い浮かべ
 今日の「長崎原爆忌」にあたって、ピースサイクル愛知ネットとして「平和メッセージ」を田上富久市長宛てに、8月3日付で送った。広島へ送った内容とほぼ同じなので、掲載は省くが、三好町長、日進市長も同じようにメッセージを送った。
 そのときふと思ったのであるが、被爆したことでは広島も長崎も同じである。しかし「人類最初の被爆地・広島」が、なにかと「核の廃絶」では、先を行くような印象がある。動の広島、静の長崎のような。
 しかし例えば、広島には峠三吉や栗原貞子に代表される「原爆の詩」があり、野坂昭如の「火垂るの墓」という小説思い浮かべるし、アニメで映像化された
 一方、長崎にも、永井隆が執筆した随筆「長崎の鐘」があり、同書をモチーフとした歌謡曲「長崎の鐘」がヒットした。さらに松竹により映画化もされた。やはり、人類未曾有の出来事には、いろんな角度、観点、様々な人たちが思いを綴り、形を変えて遺している事がわかる。
 「長崎の鐘」は、作詞がサトウ・ハチローで、作曲は古関裕而。当時歌っていたのは藤山一郎だろうが、まだ幼少の私ですら、ラジオで聞いたり、兄たちが歌っていたのを聞いた記憶が残っている。
 メロディーと共にその歌詞にも印象強いものがあったのだろう。せめて今日は、その「長崎の鐘」の歌詞を再録して、長崎原爆忌に思いをいたそうと思う。
  
長崎の鐘
こよなく晴れた 青空を
悲しと思う せつなさよ
うねりの波の 人の世に
はかなく生きる 野の花よ
なぐさめ はげまし 長崎の
あゝ 長崎の鐘が鳴る

召されて妻は 天国へ
別れて一人 旅立ちぬ
かたみに残る ロザリオの
鎖に白き 我が涙
なぐさめ はげまし 長崎の
あゝ 長崎の鐘が鳴る

つぶやく雨の ミサの音
たたえる風の 神の歌
耀く胸の 十字架に
ほゝえむ海の 雲の色
なぐさめ はげまし 長崎の
あゝ 長崎の鐘が鳴る

こころの罪を うちあけて
更け行く夜の 月すみぬ
貧しき家の 柱にも
気高く白き マリア様
なぐさめ はげまし 長崎の
あゝ 長崎の鐘が鳴る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月17日 (木)

イラク派兵・違憲判決

 4・17名古屋高裁
 判決の要旨は、各方面で流されているのでそれを引用するが、一部違憲、一部勝訴といえる判決は、「自衛隊の活動、特に航空自衛隊がイラクで現在行っている米兵等の輸送活動は、他国の武力行使と一体化したものであり、イラク特措法2条2項、同3項、かつ憲法9条1項に違反する」及び、「平和的生存権は全ての基本的人権の基礎にあってその享有を可能ならしめる基底的権利であるとし、単に憲法の基本的精神や理念を表明したにとどまるものではないとし、平和的生存権の具体的権利性を正面から認めた」という点である。
 一方、棄却された部分は「自衛隊のイラク派兵差し止め請求」と「原告一人あたり1万円の、損害賠償請求」であった。この判決は、請求それ自体が棄却されて被告・国側の勝訴であり、上告できない。そして原告が上告しないことで判決が確定することになった。
 自衛隊が活動する具体的な「戦闘地域」と「輸送業務」が違憲であるとしたことから、本来なら憲法違反の行政行為は、直ちに中止されねばならないと考えられるのだが、原告が、具体的に平和的生存権が侵害されていない、またその適格性もないとして退けられている。では、自衛隊の行為そのものが違憲であるとするなら、それを法的強制力によって差止できるのはどのようなケースなのか。
 イラクに送り込まれた自衛隊員が、今回のようなケースで原告となった場合であろうか。その場合でも、当人が直ちに本国に送り返され、挙句解雇されたならどうなるであろうか。「解雇は無効」の判決は引き出せても「差止請求」は認められるであろうか。
 あるいは、最高裁の判決で確定した場合は、否応なく自衛隊撤収となるであろうが、その機会はなくなったと同時に、上告しても、国側の「敗訴部分」が高裁に差し戻される可能性は大きいというのが、原告の判断であったろう。
 結局、司法の判断を行政府がどう受け止めるかに関わる。福田首相の「傍論」であるとして気にかけないといったが、一国の長であれば、憲法を軽く見下すような発言はよくない。また毎日新聞による「自衛隊派遣は、自衛隊の合憲性とともに国の存立にかかわる高度な政治的問題で、判決で国家の統治行為に踏み込むのは司法の勇み足・・・」(百地章・日大法学部教授)に至っては、何をかいわんやである。
 この判決は、「憲法判断」を避けようとしがちな裁判所(裁判官)に一石を投じたことにも意義がある。また、民主党の中にある改憲論、自衛隊派兵容認論にも影響があると考えられるが、それらの該当議員のコメントも聞いてみたいものである。 
(追い書き)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月 3日 (木)

ピースウォークに部分参加

  久し振りに栄を歩く
  昨日愛知県入りをした「ピースウォーク」の今日は、名古屋市北区の黒川から、名古屋の繁華街栄に向けて歩くのが午前中の予定。途中、県庁と市役所で申入れをしたという。
この日私は、午前7時に起床、8時半に黒川に行く予定をしていたが、家事を頼まれ午前中の参加はあきらめた。
  ええい!いっそのこと午後もあきらめて残務仕事に精を出そうかなとも一瞬考えたが、やはり、全国のピースサイクルの仲間に少しでも様子を知らせたい、また、昨年の全国会議でも確認していることもあって、午後2時栄行きを決心して出かけた。
  1時50分に現地に到着すると「栄ひろば」には、およそ150人、「ストリートパフォーマンス」が続いていたが、2時10分頃になって行進が始まった。
  名古屋駅前と並ぶ名古屋の繁華街・栄を、街宣車を先頭に、のぼり、横断幕、プラカードを持った一行が、三越、松坂屋、パルコなどが並ぶ大津通りを南の金山駅へ向けて歩き始めた。
  私は、「ピースサイクル全国ネット」の旗を掲げて参加した。両端を棒で結び、広げて掲げたので、通りがかりの人によく見えたと思うが、支える側の私は、強風に悩まされた。
  あとでデジカメを覗いたら、この旗は結構見栄えがして映えていた。
  午後3時15分、金山駅に到着し、折り返して女性会館に向うというので、
市民会館前で離脱して一行を見送った。
  明日は、お休みで、

5日は、名古屋・八事を出発して、日進市経由で豊田市入り。
6日は、豊田市から岡崎市
7日は、岡崎市から豊川市
8日は、豊川市から豊橋市 となっている。
                                       
<追い書き>

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2007年11月20日 (火)

「9条世界会議」への取り組み・PC全国会議・4

  2008年5月幕張メッセ他で開催予定
 ピースサイクル全国会議で、取り組みが呼びかけられた中に、「9条世界会議」があった。
 主催は実行委員会であるが、そもそもこのキャンペーンを始めたのは、「国際交流NGOピースボート」と「日本国際法律家協会」であった。そして、紛争予防のための世界的NGOネットワークGPPACをきっかけに2005年に活動を開始したということである。
 この「グローバル9条キャンペーン」について、HPで検索したところによると、以下の通りである。
 ・・・日本が「国」として「もめ事を解決するために武力は使わない」「その手段としての軍隊も持たない」と決めた憲法第9条。その理念や平和主義を、世界の人々に知ってもらい、もっともっと広めていこう、というのが「グローバル9条キャンペーン」。
 憲法第9条は、日本が世界に対して、自動車やコンピュータ以上に誇れるものです。そんな9条を、世界に輸出しよう!という考えのもと、今後もイベントやネットワークを通じて活動を展開しています。
 9条を世界に発信する前に、国内での改憲問題に取り組むべきという見解もみられています。しかし私たちは、私たちならではのネットワークを通して、9条を支持していくという意志を隣国に伝えるとともに、世界からの関心の強さを国内に反映させることによって、悲惨な戦争を体験せず憲法9条改正に対する抵抗が弱まった日本現代に、9条の重要性を再確認して欲しいのです。そして「二度と過ちを繰り返さない」というアジアの人々に対する誓いを守っていくために、今後も前向きな活動を続けていこうと考えています。
 現在予定されている日程は、
2008年<5月3日 憲法集会・東京(別団体の主催)>
     5月4日 9条世界会議・幕張メッセ 7000人規模
     5月5日 分科会及び地方会議・広島の同時開催
     5月6日 地方会議・仙台及び大阪
世界からのゲスト
コーラ・ワイズさん 米・ハーグ平和アピール代表
マイレッド・マグワイア 北アイルランド・ノーベル平和賞受賞者
 その他の著名な平和運動家の招聘計画が進んでいるという。
 ピースサイクル全国会議では、各地の「九条の会」に参加、連携しながら、憲法9条を守り、活かし、世界に広める運動の重要さを確認し、この「9条世界会議」の賛同団体として参加することを決定した。
 賛同、カンパなど詳しくは、下記のHPに。

http://www.article-9.org

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月20日 (土)

九条の会の動き

  以下のような呼びかけが来ました。許可を得て転載する。
 九条の会の、もう一回り大きい領域での広がりが期待される。

   憲法9条を守るための国際交流推進の
    呼びかけ人に加わっていただくお願い

  日頃の皆様のご活躍に、心から敬意を表します。
 皆様には、日本国憲法、特にその前文と9条にもられた平和の理念に変更を加えようとする動きに、危惧や不安や怒りを感じておられることと思います。すでに全国に6000を越える「9条の会」が結成され、憲法守れの国民の声は、燎原の火の如く広がり燃え上がっています。
  目を海外に転じましても、アメリカ・カナダ・スリランカ・オーストラリアなどに「9条の会」が結成されています。海外の9条の会の主張は、日本国憲法は単に日本国の国内法ではなく、侵略戦争と植民地支配に対する日本国及び日本国民の真摯な反省に基づく国際社会への平和宣言・誓約であるから、それを変更することは許されないというものです。
  私たちは、「9条は世界の宝」「21世紀の平和の指針」と主張してきましたが、まさにその主張が国際的に認知され、実現しようとしています。すでに1999年、ハーグ市民平和会議は、「各国議会は、日本国憲法第9条のような、政府が戦争をすることを禁止する決議を行なうべきである。」と述べています。コスタリカが平和憲法を持つ軍隊のない国家であることはよく知られていますが、ロシアの中の小さな共和国であるタタールスタンにも、日本国憲法と同様の戦争放棄の条項が盛り込まれました。またフランスやイタリアでは、EU憲法に9条と同じ精神を明記させようという運動が起こっています。大西洋の孤島カナリア諸島には、9条のスペイン語訳の碑文が建っています。
 私たちは、国内の民衆の声と国際世論の力で日本国憲法を守りぬくために、国際的な交流活動を積極的に行ないたいと考えています。つきましては同憂の士に共同で呼びかけ人になっていただきたく、このお願いの文をしたためました。皆様のご賛同を、心から期待しています。
  具体的には、10月末~11月に発足する「韓国9条の会」(仮称)に連帯の挨拶を送るとともに、韓国を訪れての交流を予定しています。ご自身が直接交流に参加できるかどうかは別にして、主旨にご賛同いただければと思います。
 ついで12月には、南京虐殺70周年式典への参加、1月には、ニュージーランドでの被爆写真展と9条の会発足の話し合などを予定していますが、それぞれの具体化は、その都度皆様のお力とお知恵を借りて行ないたいと考えています。

                               2007・10・20
天野鎮雄 江崎信雄 小林 武 田辺凖也 水田 洋 うのていを

連絡先:TEL/FAX 052-444-9951(西本方)
   E-mail : nishimoto-
srilanka@estate.ocn.ne.jp

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2007年9月22日 (土)

戦争-宗教・宗教者の場合

  真宗大谷派でも?
 70年前の1937年9月、日中戦争で出征兵士を見送る際、「戦争は罪悪である」と反戦を訴えた岐阜県垂井町の明泉寺元住職、竹中彰元さん(1867~1945)が、このほど、真宗大谷派(東本願寺)の本山から、当時受けた処分「軽停班3年」が撤回され名誉を回復されることになったという。(9月21日付毎日新聞朝刊)
  「軽停班」というのは、会合の席で末席に座らせるという処分らしいが、竹中住職が陸軍刑法違反で有罪となって、それにならって処分が下されたのだという。当時が軍国主義下で宗教も宗教者も弾圧されたであろうから、そのことは幾分大目にみたとしても、戦後62年経った今になって「間違いだった」というのは解せない話である。
  私が市民運動などで出会った宗教者たちは、「平和・人権・環境」にとりわけ熱心に取り組んでおられたと記憶するが、このような形を変えた「戦争責任」が払拭されていないことは驚きである。他にこういった例はあるのだろうか。あるいは、軍国主義にひれ伏したそのことをどのような“問い返し”(宗教では何というのだろう、改心、回心、とでもいうのだろうか)をしたのだろうかと思った。
  京都の綾部市に行った折りには、「大本(おおもと)教」について幾らかは知り得たが、地域の運動では、キリスト教、真宗大谷派、日本山妙法寺だったかな、団扇太鼓を叩く・・・、そんな人たちとよく出会ったもので、教会、寺院の施設をお借りすることもあったのであるが・・・・。
  そういえば、いつの会合だったかな、「宗教の問題について」が話題にあがりかけたが、この場合、自民党と連立を組む公明党の支持母体・創価学会を指してのことであった。
  創価学会については殆んど知らないが、ホームページで見てみると「恒久平和、豊かな文化、人間性あふれる教育の創造・・・」と書いてある。これを見る限り、どこかで出会う機会があったであろうに、まったくというほどなかったのは、学会の理念と行動領域が、私が参加していた「環境・教育・人権・自治・労働」などの諸運動とは、その基盤がまったく違うと言うことなのだろうか。あるいは、宗教活動と社会運動には、一線を画すものがあるということなのだろうか。
  いずれにしても、自民党の改憲派の狙いは「戦前への回帰」の疑いが濃厚であるから、われわれ市民と共に宗教者も今一度、歴史と現在の拠って立つ所を見つめ直すことが求められているといえるのではないだろうか。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007年8月15日 (水)

8月15日

 継 承
 2007年8月15日の正午、そのとき私は、東名高速道路の上にあって、息子夫婦の運転する車の後部座席から、画像の乱れた高校野球の中継を見ていた。そして、正午と共に、プレーが中断され、グランド・ダッグアウトの選手と関係者、スタンドの観客全員が立ち上がって、サイレンとともに黙祷を捧げる姿を、その乱れた画像で見ていた。
 日本の徴兵制の年齢がどのような変遷を辿ったかは知らないが、敗戦色濃い1944年ころには、下は17歳か18歳以上、上は40歳前後まで対象になっていたと思われ、親父は44~45歳、一番上の兄が17歳、もう一年戦争が長引いていたら、二人とも戦場に狩り出されていたかもしれない。
 私の同級生の中にも、戦死した親を持つものも何人かいたし、近所にもそんな家庭があったと記憶している。そうした家庭や環境の中で育った人にとっては、戦死したとされる日と8月15日は特別の日に違いない。そして、そのような境遇になかった私には、その人たちにとってそれがどんな心象なのか想像もできない。
 父が、1945年6月9日、愛知時計電機が空襲を受けたときの“生き残り”であることは聞かされていたが、詳しくは話さなかった。兄は聞いていたかもしれない。いま病床にある兄の、これまでの生き様をみると、多少の影響があったようにも見受けられる。私は、その兄からどれほどの影響を受けたのかは自覚できないでいる。ともあれ、わが「反戦平和」はここまで揺らぐことなく来た。これからはどう継承するかを考えねばならない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年8月12日 (日)

平和美術展

 これらも一つの形
 8月13日は月遅れ盆の迎え火から始まって15日が旧暦7月15日の、月遅れ盆と“高島暦”に書いてある。盆といえば、「祖先の霊を祀る」訳だが、8月15日はいうまでもなく、敗戦(終戦)の日、そして8月6日が広島原爆の日、9日が長崎原爆の日である。そうか、偶然かもしれないが、8月というのはそうした一連の日が集まっているから、日本にとっては特別の月なのだ。
 かといって、わが家では、お盆だからといって特別な家庭行事は何もない。直系で戦死者も出ていないから、仏壇の前に兄弟姉妹一同が集まるわけではない。両親の墓参りで線香を上げ、供花するくらいなものだ。それだって、どちらかといえば、女の仕事のようになっていて、私などは文字通り“お供”するだけ。
 さてそれはそれとして、3日間の平和美術展の最終日だったので、緑区役所講堂に出かけた。もう十数年は続いているのであろうが、出かけたのは初めて。
 正式の名前を記せば、「核兵器のない平和な世界を願うみどり区文化のつどい2007」の一連の行事の一つで、他に「平和コンサート」「子ども広場」「オカリナ、人形劇」などがあった。
 会場には、絵画、ちぎり絵、絵手紙、書道、写真などがあり、特別展示として森住卓のフォトレポート“イラク 戦争と子どもたち”があった。
 作品には、書道で憲法第九条全文とか「恒久平和」というものもあったが、これら全てが、戦争や平和に関するテーマとした作品ばかりではなく、日ごろの趣味や同好会の発表の機会という一面もあってか、それだからだと思われるガラス工芸、陶芸、手織物、押し絵、リフォームと言うのもあった。
 実行委員の人たちは、毎年展示に工夫を加え、足を運んでくれる人たちが一人でも多く、と知恵を出し合って準備を進めてきたのであろうが、一定のサークルの外にどれほど広がっているかは、私が見たところそれほど多くはないように見受けた。
 私は「緑ネット」のインフォメーションで紹介はしたが、それだけで“行ってみようかな”と思ってくれる人は、そう多くはないだろうなと思ってしまう。かといって実行委員になって私の周辺で、たとえ数人でもいいから誘うという気にもなれないジレンマがある。
 市民運動であるとか、社会性をもった地域の運動には、どうしたって人の集まりは欠かせない。そこに特定の政党の影響があろうと、イデオロギーが絡もうと、そういう人たちが入ってこようとも、である。
 第一義的目標が何かさえ押さえれば、と思いつつ、しかし、どうも雰囲気が合わないな、と感じてしまうと足が遠のく。これを克服するすべはあるだろうか、そんなことを一方で考えながら、それでも丹念に見て回ったことはたしかだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年8月 8日 (水)

大野のり子写真展

 中国山西省・黄土高原の村から
 昨日と今日、大野のり子の「中国黄土高原紅棗がみのる村から」写真展に行ってきた。
 日本(軍)の中国侵略の実像は、歴史教科書ばかりでなく、市販の写真集や断片的な映像で見たり、聞いたりしてきた。それによって「基本的な認識」は、持ちえているとは思うが、実際に侵略を受けた側にたった、特に、日本軍の殺し尽くす・焼き尽くす・奪い尽くすという、中国の側から呼称された「三光作戦」で、村全体が蹂躙されたというその実態は、辛うじて生き延びた村人の生きた証言を聞くほかない。
 大野のり子が、中国放浪の旅で、たまたま降り立った山西省のとある村は、「三光作戦」の村であり、かの女は、戦後この村にやってきた初めての日本人だったという。2003年10月のことだった。
 2005年6月からその村に住みついた彼女は、丹念に村人たちから聞き取りをしていった。しかし彼女は言う。「私は社会学や歴史学にいう『聞き取り調査』をして、彼らの記憶を記録することだけが目的で“紅棗(なつめ)がみのる村”にやってきたのではありません」と。
 写真は、「証言の」聞き取りに同調した中国の友人、仲間たちの風景や子どもたちなどの写真と共に、彼女が聞き取りしたであろうお年寄りたちの顔写真126点の展示と、23の証言がパネルで紹介されている。(他に40分のビデオを放映)
 そのしわの寄った老人たちの表情は、中には鋭い視線を感じさせるものもあるが、全体としてはとても穏やかで、それゆえ証言を丹念に読むとか、チラシにある写真展の企画の真意を知った上で接してみないと、通りがかりの人には分かりづらい面は否めない。
 「・・・最後の答えにたどり着くまで、まだまだ私の旅は続く・・・」「今回展示される写真は、いわば中間報告であり、村人たちの表情から、私の考える“新しい可能性”の端緒を読み取っていただければと願っています」と、大野のり子は結んでいるが、飽食の中に耽溺し、歴史を風化させてきた感のする日本人に対しての“新しい可能性”なのか、そのような一般論としてではなく、自覚する人々と切り結ぶ自己の未知の世界をさして言うのか、写真展に足を運んだ私にも、何がしかの糸が絡んだようである。
 名古屋写真展は、12日(日)午後5時まで。平日は10時から7時。会場は名古屋・栄、市民ギャラリー栄(中区役所のあるビルの7階)入場無料。他に、大阪、埼玉、松本、長野、京都でも順次開催予定。東京は既に終えた。詳しくは、

http://www.natsume2007.jp

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年8月 6日 (月)

秋葉広島市長への平和メッセージ

 ピースサイクル運動の一つとして、広島市長宛ての平和メッセージを送る運動がある。今年は、愛知ネットからのこのメッセージのほか、三好町長、日進市長、コスモスの会日進からも送られた。
広島市長 秋葉 忠利 様
                         2007年8月3日
                       ピースサイクル愛知ネット

   平和を願い、被爆者に心寄せる愛知からのお手紙

 拝啓
 今年もまた暑い夏と共に、8月6日の「広島・原爆の日」がやってきます。恒例の、その「式典」には、核保有国を含め、昨年の36か国を上回る国の参加が期待されています。参加されたすべての人の胸に、二度とあってはならない原爆の悲惨さを刻んで戴き、全世界がすべての核を廃絶する流れへと向かう運動に寄与されんことを望まずにいられません。
 遅まきながら1986年から始まった私たちの「ピースサイクル」運動は、今年で22年目を迎えました。その「平和とすべての核の廃絶」をめざす自転車リレーは、8月5日に広島に到着し、夕方からの「8・6ヒロシマ平和へのつどい2007」という市民集会に合流する予定です。この集会では「変わる時代 変わらぬ誓い 平和の希求」を合言葉にしています。

 さて、去る7月30日、「原爆症」の認定を求める裁判で、熊本地裁は原告勝訴の判決を出しました。これは、昨年8月の広島地裁判決、今年3月の東京地裁判決を含め6度目の原告勝訴判決であり、被告である国が厳しく断罪されたものであります。
 戦後62年を経たなお、このような裁判が続けられ、お歳を召した「原告」のみなさんが裁判所に通い続けねばならない現実にこそ、私たちは怒りを新たにすると共に、この国、この社会のありように深く思いをいたしているところです。
 戦場で、戦災で命を落とし、また飢えと病気で300万人余の命が失われたかの戦争を忘れることはできません。そしてその戦後は、未来永劫「不戦と平和」を誓ってこそ、死者への鎮魂であり、子々孫々に伝え、引き継いでいくことが残された私たちの努めであります。
 思うに、昨今の憲法改正論議を聞くにつけ、「国際貢献」とか「国の防衛・安全」という名のもとで有事法制等が制定されるなど、再び戦争のできる国になってしまう危惧がいっそう高まってきました。「不戦と平和」は、スローガンだけでなく、広く市民の実践的な運動として根付かせていかねばならないゆえんでもあります。もとより私たちもその一端を担っていきたいと思っております。

 今年もまた愛知から「平和の折り鶴」「平和のメッセージ」をお届けします。どうか、これをもって、この愛知から、広島の地に思いを馳せ、共に恒久平和を願っている気持ちをおくみ取り下さい。
 この愛知では、自治体訪問で「反戦と平和、全ての核の廃絶」を行政に反映させて欲しいことを申し入れ、西加茂郡三好町長と日進市長から、秋葉市長宛のメッセージを戴きました。
 秋葉市長におかれましては、毎年8月6日の式典で、広島市長という立場からだけなく、自ら思いを込めて「広島平和宣言」をお書きになり、読み上げられていることと思います。私たちもその「宣言」に接するにつけ、新たな認識と決意を覚え、勇気をかきたてられてきました。
 最後に、貴職のますますのご活躍と、平和への取り組みを期待しております。
                                 敬具

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月21日 (木)

沖縄ピースサイクル

 沖縄県庁訪問にメッセージ託す
 22年目を迎えた「ピースサイクル」は、春の「国会ピース」に続いて夏の本走、「ヒロシマ、ナガサキ、六ヶ所に向けて」が始まるが、先陣を切って「沖縄ピースサイクル」が今日から始まった(~25日)。
 那覇空港に集結した一行は、午後1時、沖縄県庁を訪問し、平和行政、米軍基地問題などについての申し入れと、全国から寄せられた仲井真知事宛メッセージを届ける予定となっている。
 ピースサイクル愛知ネットから託したメッセージを以下に紹介する。

沖縄県知事 仲井眞 弘多様 
                    2007年6月18日
               ピースサイクル愛知ネットワーク

          愛知ネットからのメッセージ
 昨今の、沖縄を取り巻く様々な課題に、日夜取り組んでおられる貴職に、心から“ご苦労さま”と申し上げたいと思います。
 沖縄とこの愛知とでは、あまりに隔たりが大きく、“事あらば、すぐにでも駆けつける” とは参りませんが、新聞報道、テレビニュース、ネット情報などに注意を払い、関心を寄せ、事態の推移を見守っているところです。
 ところで、沖縄と本土との歴史的関係は、様々な見方、正反両面あろうかと思いますが、概して、本土側が沖縄(琉球)に、困難、忍従を強いる場合が多かったものと、私たちは教えられてきました。又、現在もそのように認識をいたしております。
 このたびの、「在日米軍再編」に基づく辺野古地区の基地建設については、去ること2005年10月29日、日米政府の「日米同盟:未来のための変革と再編」を合意したところから具体化したものと思います。その後、沖縄をはじめ座間、相模原、岩国ほか多くの地域の住民と自治体が反対しているにもかかわらず、2006年5月1日、米国ワシントンで開かれた日米安全保障協議委員会(2プラス2)で「在日米軍再編」に関する「最終報告」として決定されたと聞いております。
 それによりますと、辺野古沖での基地建設に対しては、多くの地元の人たちの反対で一度は断念されるかに見えた計画が、再び辺野古沿岸地域での新たな基地建設案が浮上して、そればかりでなく、沖縄県南部の遊休米軍基地を沖縄島北部に集結して、米軍の基地機能をより強化しようとしていると聞き及んでおります。
 そうした中で、防衛庁(省)案の「V字型滑走路付きの辺野古沿岸案」が出されてきて今日に至っております。これは新たに、沖縄に負担を強いるものであります。
 さて直近の情報によれば、いわゆる「普天間代替基地建設計画」(沖縄・辺野古沿岸への新基地建設)で、事業者が環境アセスメント法に基づかない事前調査の実施を始めていると伝えられています。それの作業には、海上保安庁のみならず、海上自衛隊も出動しているとのことで、作業の中止を求める地元の人たち、全国から駆けつけた人たちとの間で緊張の高まりと、海上、海中での攻防も伝えられています。憂慮に堪えません。
 私たちピースサイクル運動に参加する立場からは、そうした現地の状況を知るにつけ、いっそう関心を払い、注視をし続けていると同時に、来る6月21日からの「沖縄ピースサイクル」に、その思いを託しているところです。
 どうか、仲井眞知事様、これまでの敗戦に基づく米軍による接収、基地建設とは違う、日本自身による辺野古沿岸の新基地建設を認めないで下さい。
 私たちはこの愛知で、安倍内閣の進める日米軍事一体化、戦争のできる国づくりのための憲法改悪の動きを封じ、沖縄から米軍基地をなくし、自立できる経済、産業基盤・生活基盤の整備を求めていきたいと思っています。
                                 以上。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年5月 3日 (木)

護憲、改憲論

 憲法記念日に寄せて
 昨5月2日の夜、安倍首相の中東訪問での記者会見があって、放送の時間帯が変則であったが、通常の45分間から1時間に延長された憲法施行60年・特集としての、NHK「その時歴史が動いた-憲法九条 平和への闘争 ~1950年代改憲・護憲論~」を観た人も多かろう。
 1947年5月3日の日本国憲法施行から、1960年の日米安保条約改定までを描いたものであるが、戦争で負け、国土が焦土と化し、殆んどの国民が飢餓の線上でさまよい、明日の糧を求めていた時政治は、戦後の復興、戦後の政治体制、独立に向けた講和条約、そして、大日本帝国憲法から新憲法制定へと動き出していた。
 新憲法は主権在民、基本的人権の尊重、平和主義などがその柱で、「二度と戦争はしない」ということで、「憲法九条」で戦争放棄、戦力不保持が明記された。これは理念ではあるが同時に日本人全体が希求した本心でもあったはずだ。
 新憲法制定を前後して、「朝鮮戦争」そして東西冷戦という政治、社会、世界の情勢がいかに変わろうとも、「日本は、戦争は二度としない」というこの一点は不変である。
今となっては、名前は自衛隊だが、世界でも有数な軍隊となった自衛隊、その自衛隊が戦争に繋がる核兵器を持たないことは当然であって、理由の如何を問わず、他国との交戦は許されないことは今も厳然と生きている。そして名前は日米安全保障条約であるが、実体は日米軍事同盟、これも基地拡張、機能強化を図る与党の政策は逆行している。
 さて、それでも自民党など改憲派は、「敵が攻めてきたらどうする」という仮定を設けて、「自衛のための戦力は禁止されていない」と詭弁を弄する。この論理の行き着く先は「攻撃は最大の防御である」であって、攻撃兵器、装備の近代化、増強に道を開こうとするものである。軍事的優位、相手国へ威圧の論理である。「敵が攻めてこない、敵視されないためにはどうするか」という議論をしたのであろうか。
 「世界の安定こそがわが国の国益、安寧となる。世界貢献こそ今求められている」とご高説を並べる方もおられるが、それが、米軍のお先棒を担ぐ自衛隊の海外派兵であろうか。地域紛争には、領土・資源問題、宗教・部族対立もあるが、多くは様々な装いをした「侵略」である。そのうえでの貧富の格差、不公平・不平等な相互関係である。それらの解決に武力は必要ない。武力に依らないところが、日本国憲法の日本国憲法たる所以である。
 憲法論議はいくらしてもいい。変えるべきところがあれば、変えることもありうるだろう。だが、変えてはいけないところは、どこまで行っても変えていけないのである。その一つが「憲法第九条」であることはいうまでもない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年2月 7日 (水)

参院選・平和の風愛知のこれから

 勝手連「平和の風愛知」として取り組んだ知事選も終わり、これから統一地方選挙、7月参院選挙を迎えることになるが、知事選前のような気持ちには戻っていない。
 石田さんが勝っていればまだしも、負けは負け、しかもこの選挙運動を見てきた限り、参院選の「平和の共同候補を支援する」運動については全く展望を見失ってしまった。
 「平和の風愛知」としての方針は次回の会議で話し合われるが、個人的にも有力支援候補であった八田ひろ子(共)の推薦は白紙といえるだろう。民主党・新人の谷岡郁子(たにおかくにこ)が第二候補とも考えていたが、一度会って直接話を聞くことはあっても、国政で民主党候補を推す気になれない。もはや愛知選挙区では、私たち無党派の「護憲平和候補」を支援する運動の展望は限りなく小さいように思われる。
 では比例区についてはどうか。
 中央段階で模索されてきた共産党、社民党との「共同候補のリスト」は事実上なくなり、議席のない新社会党、緑のテーブル、人民の力、労働党などの党・派の動きを、知事選を通じて注視してきたが、意外にも見るべきものはなかった。小なりとも党組織である以上、知事選と同じように参院選は傍観しないだろうが、市民派との共同行動の道は険しいといわざるを得ない。
  また、統一地方選を控えた無党派の各級議員の動き、共産党と接点を持っている平和を主題とする市民運動も、注意深く見てきたが、狭間で動きが取れなかったのか、選挙には関わらないと静観と決め込んだのか、動きは見られなかった。
 これらを総合すると、「平和の共同候補を求める連絡会」が立ち上げる「9条ネット」(参院比例区の確認団体になる予定の名称)を起動する基盤がこの愛知に見つからない。私にとっては、知事選敗北に加えて、失望感はこの上ない。
 いずれ展望をなくした者などは置いていかれ、新しい人たちが先陣を切る状況になるだろうが、私自身は“転進もあり”と考えている。
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月17日 (日)

9・17集会&デモ

 白川公園、大津通から栄へ
 広い白川公園広場の一角に、レインボーフラッグははためいていた。
 “あいちの空と海と大地を戦争に使うな”“航空自衛隊をイラクからすぐもどせ”“『米軍再編』の白紙撤回を”というメインスローガンで集会は始まった。見回したところ、ざっと60人くらいであろうか。
 共同代表の一人寺尾さんが、「憲法を遵守すべき公務員でもある首相、閣僚、議員が平気で憲法違反の言動をしている」「9・11はどうも怪しい」などを交えた集会基調の挨拶を行い、自衛隊のイラク派兵差止訴訟原告・代表の池住さんからは、「現在は戦後でも戦前でもない、イラク戦争で米軍に加担していて、まさに戦争中であるという自覚を持とう」などと呼びかけた。
 そのほか、「韓国・平澤(ピョンテク)」の米軍基地問題の訴え、政教分離を定めた憲法20条を守れ!の運動、ピースアクションの連続行動の訴えなどがそれぞれの団体から行われた。
 集会宣言を採択したあと、70人を越える参加者が旗、ノボリ、横断幕をもってデモに移った。
 デモ行進は、会場から若宮大通に出て、矢場町交差点を左折、大津通を北進。この大津通は、パルコ、松坂屋、三越などが並ぶ栄地区の繁華街であり、人通りも多い。そんな中をシュプレヒコールと、楽隊のドラム、時折りフォークシンガーの板谷さんがギターと共に歌声で平和を訴えた。
 私より少し年上のMさんと並んで歩きながら、「この歳になると、ここへ出てこようという気持ちが大事で、家でお茶でもすすってテレビでも見ているようになったら、お仕舞いだね」などと、慰め合うというより、お互いの元気を確かめる会話があった。そんなこともあって、やっぱり「まだ現役!60代の会」をつくって、のぼりの一つも作って掲げたいものだと思ったものである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月16日 (土)

橘宗一墓前祭

 初めて墓碑の前に立つ
 1枚の葉書には、「・・・関東大震災、大杉栄、伊藤野枝、橘宗一少年の虐殺から八三年、敗戦から六一年のこんにち、世界の戦争はさらに拡大し、憲法改悪など、改めて近代日本の歩みを直視する必要に迫られています。第三十二回墓前祭にご参列下さるようご案内申し上げます。」とあり、私は満を持して出かけた。
 というのも、随分前から毎年案内を戴きながら、一度は出かけてみようと思いながら、いつも差し替え難い行事と重なったり、去年などは寝坊してしくじるという失態で、これまで果たせなかったのである。
 今年はなぜか期するものがあって、時間に遅れまいと出かけ、午後1時前には名古屋市千種区・覚王山日泰寺に到着。そこからマイクロバスで墓碑のある場所に移動した。そこには既に、40人ほどの橘家ゆかりの人たちが到着していて、合わせて80人ほどが狭い墓石の間の通路を埋めた。
 読経が始まり、参加者全員による菊花の献花、合掌、主催者、ゆかりの人などからのあいさつを受けて30分ほどで終えた。
 30数年前、草莽(そうもう)の内に埋もれた墓碑をある名古屋市の職員が偶然発見して以来、それを聞いた数人の人たちが発起人となり、墓前祭が営まれてきたというのであるが、軍国主義の非道と、戦前、戦中、戦後の社会を見てきた人たち、闘ってきた人たちの交差点になっている面もあるようだ。その人たちの多くはお歳を召され、髪は白く、この場に来られない人もいると聞いた。
 「橘宗一少年というが、生きていれば“卒寿(90歳)”になります・・・」という言葉が、いつまでも余韻として残った。
 終えてからの、記念講演や懇親会の席では、初めての参加にも拘らず私は、思わぬ人の交わりの中に溶け入って、私の中に埋もれていた人脈が、わずかな“点”に過ぎないけれども浮き上がってきた気がした。この話は後日にまた。

 橘 宗一(たちばなむねかず又はそういち)の概要
 
橘宗一少年は,1917年(大正6)にアメリカ移民の父と大杉栄(おおすぎさかえ)の妹との間に長男として生まれた。
 1923年(大正12),家族はアメリカから日本に帰国する。しかし,その年の9月1日に関東大震災が発生する。その際に少年は,横浜に滞在していた。おじの大杉栄に預けられていたのである。
 大杉は無政府主義者で,当時の政府に警戒されていた人物の一人である。大震災の混乱の中,東京憲兵隊分隊長,甘粕正彦(あまかすまさひこ)は,大杉と青鞜社(せいとうしゃ)に参加し,婦人解放運動や社会主義運動に活躍した伊藤野枝(いとうのえ)と,この橘少年を逮捕し,虐殺した。世に言う「甘粕事件」である。
 少年の墓は,昭和初期に父親により建てられた後に放置されていたが,現在は覚王山日泰寺墓地内に置かれている。
 引用-
http://www.aichi-c.ed.jp/contents/syakai/syakai/nagoya/nag023.htm

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月 1日 (金)

名古屋で全国集会

自衛隊イラク派兵差止訴訟「全国交流集会」
 この日名古屋で、北海道から熊本まで全国11か所で提訴されている(山梨は敗訴が確定している)原告が集まり、闘いの経過報告、経験交流、獲得した成果、そしてこれからの運動展開などが話し合われた。同時に、現下の状況認識を共有する意味で、
(1)山本みはぎさん(名古屋の原告)が、イラクにおける空自の輸送活動の問題点について
(2)西谷文和さん(関西の原告)が、映像を使ってイラクでの知られざる米軍の残虐行為を報告し問
題を提起した。彼は、イラクの子どもを救う会の代表でもある。
(3)愛敬浩二さん(名大教授・憲法学)が、「憲法からみた日本政府の最近の動き、徹底分析」と題し
て講演した。
 質疑を含め、5時間に及ぶプログラムであったが、マスコミでは報道されないリアルのものであり、参加者の“もっと知りたい”という内容も多く、終始飽きさせなかった。私の集会メモを見ると、
① 北海道・原告側の証人、山田晃さん(明大)の、自衛隊がサマワに持ち込んだ武器の詳細についての証言に、興味を惹かれた。
② ほとんどのところが実質審議なしで結審(判決)という、裁判官の横並びの異常さ。
③ 憲法を守らせるべき裁判官の憲法意識が低い?という会場発言と、多くの弁護士の発言に、同じ法科で学び、司法修習受けたにもかかわらず、この両極に至るのはなぜか?職業的立場で憲法意識がかくも違うことが、私にはわからない。
④ 準備書面主義に対する疑問、改善を望む声に同感。
⑤ 訴訟関係の集会だから弁護士が一方の主役ではあるが、全体が「法廷中心」的運動との印象を与えていないか、ちょっと心配だったが、参加者の顔ぶれからすれば、“杞憂かも”とある。

 さて、質疑のコーナーで私も、幾らか逡巡もしたが挙手した。その内容は「これまでの報告からすれば、訴訟の結果はある程度見えてきた。しかも、違憲訴訟の根拠となるその憲法が改悪されようとしている。ぼつぼつ次の手段の議論があっていい。改憲の手続きは、まず国会での議決である。とすれば、(国政)選挙には消極的な人も多いと見受けられるが、7・7全国会議もあって動き出している。議論の一つに加えて欲しい」といったようなものだった。
 「選挙」となると例外はあるとしても、私も含め「市民派」は、どちらかといえば消極的である。法廷や街頭キャンペーンの盛り上げで、イラク派兵を止めたいと思いつつも、現実の壁の厚さは痛感しているはずである。翌日は「事務連絡会議」で、集会のとりまとめと、今後の運動の進め方などの議論をし、午後から小牧基地司令への申し入れに行くということだった。
 なお、名古屋から、12月の2日(土)または3日(日)に小牧で、「自衛隊のイラク派遣特措法延長反対全国集会」の企画を検討中との報告があった。(この稿8月26日)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年8月 9日 (水)

ノーモアナガサキの日に

長崎市長 伊藤 一長様

                   ピースサイクル愛知ネットワーク
                       名古屋実行委員会

      平和と核の廃絶を求める愛知からのお手紙

 拝啓 

 今年も暑い夏がやってまいりました。被爆から61年を迎える8月9日、長崎の空に街に、「長崎の鐘」は、鳴りわたることでしょう。遥か遠いこの愛知の地にも、心を清ませ、思いを馳せ、南の空を仰げば、鐘の音が届いてきそうです。そのようにして、6日の広島、9日の長崎の「原爆の日」をほんのひとときでも共有したいと思っています。
 
 私たちは「ピースサイクル愛知ネットワーク」といいます。ピースサイクル運動につきましては、これまでも、当地の「ピースサイクル・長崎」の仲間からお伝えしていることと思いますので、きっとご記憶にとどめておられているものと拝察し、運動の紹介は省かせていただきます。
 今年で21年目を迎えた「ピースサイクル全国運動」ですが、その3年目から参加したこの愛知では、今年も7月26日に浜松からのリレーを受け、豊田市、三好町、日進市、名古屋市、愛知県の、各自治体訪問で「反戦と平和、全ての核の廃絶」を行政に反映させて欲しいことを申し入れてきました。又、陸上自衛隊・豊川駐屯地、航空自衛隊・小牧基地にも出向き、平和を求める市民の立場から、海外派兵や軍備と基地機能強化に反対する気持ちを伝えてきたところです。
 
 さて、長崎市の上空500メートルで炸裂した原子爆弾によって、7万4千人の方が亡くなられ、7万5千人の方が傷つき、さまよい、心の奥まで傷ついたと聞き及んでいます。
 そこにまで至らしめた当時の国の政策の誤りは糾さねばなりませんが、いまは「ふたたび被爆者をつくるな」「長崎を最後の被爆地に」との声を、限りなく多く広く、そして強くあげていかねばならないと思います。
 戦後60年余、「不戦と平和」の誓いは、昨今の憲法改正論議を聞くにつけ、或いは、国際貢献、国の安全という名のもとで有事法制等が制定されるに至って、この国の行方に、再び戦争のできる国になってしまう危惧を強く感じるようになって来ました。
 そればかりではありません。核兵器の廃絶を求める世界の声をあざ笑うかのように、核兵器は拡散し、より性能の高い(より効率的に人を殺し、傷つける)核兵器の開発が進められているといわれています。湾岸戦争、イラク戦争では「劣化ウラン弾」が使用され、沖縄や韓国の米軍基地に大量に備蓄されているという報道がなされました。
 私たちはこの現実に目を背けてはいけない、なしうる事はどんな小さな事でもなし、声を上げ続けていかねばならないと思っています。

 伊藤市長におかれましては、8月9日の式典で、長崎市長という立場からだけなく、自ら思いを込めて「長崎平和宣言」をお書きになり、読み上げられていることと思います。私たちもその「宣言」に接するにつけ、新たな勇気をかきたてられてきました。
 最後に、貴職のますますのご活躍と、平和への取り組みを期待し、平和と核の廃絶を求める愛知からのお手紙とさせていただきます。
                           敬具

                    2006年8月2日

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年8月 6日 (日)

ノーモアヒロシマの日に

広島市長 秋葉 忠利 様

                    ピースサイクル愛知ネット
                      名古屋実行委員会

平和を願う愛知からのお手紙

 拝啓
 今年もまた暑い夏と共に、8月15日の「終戦の日」を迎えようとしています。
 当時を思い起こせば、前日の8月14日に「ポッツダム宣言」受諾を決め、15日の「昭和天皇の降伏放送」があって、9月2日に降伏文書に調印するという経過をたどりますが、もし、6月の、沖縄の日本軍が壊滅した時に戦争を終えていれば、8月6日の広島と9日の長崎への原爆投下はなかったであろうし、3月の、米軍機による東京大空襲があった段階で、戦闘中止、終戦交渉に入っていれば、連合軍の沖縄上陸作戦はなく「沖縄の悲劇」はなかったことになります。もっと遡って、戦争など引き起こさねば、貧しいながらも、日本は日本らしい生き方を求めて、近隣諸国と手を携えていく道を、国を挙げて、国民一人一人が真剣に考え行動することがあったなら・・・。と、いまさらに思うのですが、もはや、歴史、時間を巻き戻す事はできません。
 そうなら、再びそのような過ちを繰り返さないことが、この国の未来永劫の努めであり、日本人の誓いではなかったでしょうか。それが戦場で、戦渦で命を落とした人たち全てへの、せめてもの「供養、償い」でしょうし、子どもや孫たちの未来に残してやれる「平和」ではないでしょうか。

 戦後60年余、「不戦と平和」の誓いは、昨今の憲法改正論議を聞くにつけ、或いは、国際貢献、国の安全という名のもとで有事法制等が制定されるに至って、この国の行方に、再び戦争のできる国になってしまう危惧を強く感じるようになって来ました。
 もとより、一人一人に訊ねれば、ほとんどの人が「戦争はイヤ、平和がいい」と答えます。なのにどうして国の方向は、逆を向いて進もうとしているのでしょうか。
 1986年から始まった私たちピースサイクル運動は、今年で21年目を迎え、この愛知では、自治体訪問で「反戦と平和、全ての核の廃絶」を行政に反映させて欲しいことを申し入れ、西加茂郡三好町長と日進市長から、秋葉市長宛のメッセージを戴きました。又、陸上自衛隊・豊川駐屯地、航空自衛隊小牧基地にも出向き、平和を求める市民の立場から、海外派兵や軍備強化に反対する気持ちを伝えてきました。

 秋葉市長におかれましては、毎年8月6日の式典で、広島市長という立場からだけなく、自ら思いを込めて「広島平和宣言」をお書きになり、読み上げられていることと思います。私たちもその「宣言」に接するにつけ、新たな認識と決意を覚え、勇気をかきたてられてきました。
 今年もまた愛知から「平和の折り鶴」と「平和の色紙」をお届けします。どうか、これをもって、この愛知から、広島の地に思いを馳せ、共に恒久平和を願っている気持ちをおくみ取り下さい。
 最後に、貴職のますますのご活躍と、平和への取り組みを期待しております。
                                                            敬具

                    2006年8月1日

 注:ピースサイクルの全国運動の「東海道・山陽道コース」「四国コース」は昨日8月5日に広島入りした。今日の平和式典他、諸行動に参加する。又、8月9日の「長崎平和式典」などに向けたピースサイクルの一行は、7月28日広島を発って、現在九州・水俣あたりに到達しているはずである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年8月 5日 (土)

六ヶ所村長へ申し入れ

六カ所村長 古川 健治 様
                 ピースサイクル愛知ネット

  緊急の申し入れ

 原子力関連施設の多くを受け入れ、その万全なる安全性を求め、監視、点検などの対処及び村民並びに周辺市町村への配慮など、日夜ご奮闘の事と拝察申し上げます。
 私たちは「ピースサイクル愛知ネットワーク」といいます。ピースサイクル運動につきましては、これまでも、私たちの仲間が当地訪問を重ねてきた事もあり、きっとご記憶にとどめておられているものと拝察し、運動の紹介は省かせていただきます。
 ところで、聞くところによれば、「六ヶ所再処理工場のアクティブ試験で、日本原燃が5月、6月に放射能を海洋に放出した月日が明らかになりました。5月と6月に、それぞれ6回も海に放射能を垂れ流していたのです」という事のようですが、事実でしょうか。
 事実とすれば、あの下北半島沖から三陸沖に至る豊饒の海の汚染がとても心配です。いやそればかりではなく、海流によって、日本列島沿岸、太平洋そのものの汚染源になりかねません。
 果たして、日本原燃(株)は三陸の漁業者や岩手県民に対し、海洋放出の実態を説明したのでしょうか。あるいは、原燃は8月の第2週から、アクティブ試験の第2ステップに進むものとお聞きしています。しかし、人の命、環境へのダメージに強く影響及ぼすこのような重要な事は、少なくとも関係住民、自治体など広く説明し納得を得られるまでは、第2ステップに進むべきではないと思います。
 アクティブ試験開始前から、岩手県内には多くの不安と怒りの声があったとお聞きしてきました。私たちも遥か遠い地ではありましたが、関心を寄せて参りました。あの第1ステップ終了と同時に、海洋放出の実態などについて当然説明すべきで、いまからでも遅くありません。きちんと説明をしてほしいものです。
 三陸沿岸でも本格的な夏の訪れと共に、海水浴でにぎわっていることでしょう。家族連れや、子供達もたくさん海に出かけ、海辺ではおいしいウニなど海の幸を頬ばっているに違いありません。そんな、ささやかな休日、ささやかな幸せを、放射能汚染で奪ってしまっていいのでしょうか。このままでは、三陸の海がとても心配です。地球汚染が心配です。
 
 一自治体の長として、なしうる事には自ずと限界もありましょう、まして「国策」として原子力政策にどんな有効な手立てがあるのか、その事に思いを致さないわけではありませんが、ここは、たとえ下北の一村の立場であろうとも、毅然として日本原燃(株)に対して、納得のいく説明と徹底した情報公開を求めて下さい。
 私たちは、東海地震の直撃を受けるのではないか、度々事故で運転停止を繰り返す、その中部電力・浜岡原子力発電所に対しても、背筋が寒くなるほど不安を駆り立てられていますが、狭いこの日本列島では、どこで原発事故があっても、壊滅的な被害は免れません。
 地球上から全ての核をなくすことを願いつつ、「六ヶ所再処理工場のアクティブ試験」「放射能の海洋放出」に懸念を表明し、貴職のいっそうのご努力を期待するものです。

                   2006年8月2日

注:ピースサイクルの一行は、今日5日、八戸を発って三沢経由六ヶ所村入りする予定で す。それに先立ち、8月2日付けで上記申し入れ書を、一行にあつらえた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年7月24日 (月)

「虹の彼方に」平和を見る

 2006ピースサイクルの現在
 千葉県我孫子市を7月13日に出発した“ピースサイクル”の「東海道・山陽道コース」は、22日に静岡県入りし、今日24日には静岡市に入った。この後、浜松を経由して26日正午、豊橋市で愛知県にリレーされる。
 バトンを受けた「愛知ネット」では、豊橋市から陸自豊川駐屯地、豊田市、三好町、日進市、名古屋市、愛知県庁を経て28日の午前11時過ぎに、空自小牧基地で岐阜の仲間と合流、共同の申し入れを行った後、岐阜ピースサイクルにリレーをする。そして、空自岐阜基地、各務原市まで愛知ネットの仲間も同行し、そこで愛知の実走を終える予定である。
 そのようにして、風雨、時には灼熱の太陽を背に受けながら、「反戦平和・反核」を胸に一路広島をめざす自転車隊が、西へ西へと突き進むのであるが、立ち寄る先の自治体や自衛隊基地、原発などで申し入れを行い、同時にその地区の仲間たちとの交流があって、お互いの運動をさらに高めあう。
 この時期になれば学校は夏休みとなって、児童、生徒の参加も見られ、定年退職した人の参加も少なくないが、多くは仕事を持った労働者であり、家事が手放せない女性たちが担う。一年に一度か数日の「非日常」的なこの運動は、この時期の一過性のものから脱して、年間を通して運動の主旨を形に表す持続的な運動が求められてきたが、21年目の今年に至るまで、その目標は達成されていない。
 それでもここまで継続して来た背景には、僅かながらでも、この運動に果たす役割と期待があるからであろう。例えば、イラク戦争や中東での戦禍が、たとえ不十分な報道であっても私たちに届き、大国が寄ってたかって小国を武力で叩き潰そうとする姿に、苦りきっているのである。それゆえ、「日常」という束縛は断ち難いが、こうした機会への参加の意思が働くものと私は思っている。
 旅客席満席のジャンボ機が空を飛び交い、疾走する新幹線が満員の盛況であっても、そして、磨かれたSUVがハイウエーを走ろうとも、私たちはペダルを踏んで広島をめざす、長崎に思いを馳せる。
 僅かな光明、一条の光を求めるように感じられるこれらのささやかな運動であっても、そこに参加する人にはきっと、小説の題名ではないが、梅雨のあけたころ、「虹の彼方に」平和の世界を見ることができるだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年7月 9日 (日)

7・7シンポジウム

 07参院選・平和候補擁立7・7シンポ

 7日、8日の2日間、東京で「07参院選・平和の共同候補を求めて7・7シンポジウム」と「7・8全国交流会」が開かれ参加した。
 7日のパネルディスカッションは、パネラーに、上原公子(国立市長)、川田悦子(元衆院議員)、斉藤貴男(ジャーナリスト)、佐高信(作家・評論家)、湯川れい子(作詞家・翻訳家)、司会・きくちゆみのみなさんを迎えて1時間ほど行われた。
 パネラーのみなさんはそれぞれの切り口を持っていて、その思いを、自らの言葉として語るところに深い意味を感じ取ることができた。よく見られる政党や労働組合などの紋切り型、朗読調、殆んど同じ切り口、そういうのとは違うから聞いていても感情移入ができるのだと思った。そして、それが良かったと思うほどに、他のプログラムを削ってでも、もう少し時間を割いても良かったのではないかとも思った。
 もっとも主催者が、七夕にちなんだ舞台の飾り付け、神田香織の講談を入れるなど、並々ならぬ工夫をした努力は評価したい。それゆえ、あえて割愛しても良かったものと言えば、全国(各界?)からの発言だった。多分にバランスをとっての登壇ではなかったかと思われたが、もしそうであったなら、あの場所では不要であったといってよい。8日に発言の機会があったということもあるし、参加者から見れば、紹介だけでよかったのではないか、むしろ、コメントの要約がプリントされて配られた方が、地元に帰るときの「手土産」になったに違いない。

 翌8日に全水道会館で開催された「交流会」は、「交流」なんていう代物ではない。もし主催者が「交流」レベルで済ませようと考えていたり、その程度の準備だったら、はなはだ礼を失していたといわねばならない。北海道や九州から参加している者にとってみれば、そう、やすやすと上京できるものではなく、短時間に目一杯の成果と討議材料を地元に持ち帰らねばならず、お互いの顔合わせ、顔ぶれを知るだけでおめおめと帰れようか。
 だから発言には、自重されながらも、いま置かれている自分たちは、どんな情勢下にあるのか、どんな護憲・平和をめざす「選挙体制」が出来上がるのか、そんな成果を期待しての発言だったと思う。
 それに対応する事務局の立ち遅れは、少々きつい言い方だが、目を覆いたくなる感じであった。多分、仕事を持ちながらの日夜にわたる奮闘をされた上でのこの状況であろうが、それが推測できるだけにため息が出てしまった。
 こういう場合、事務局という「要」は自然発生的にできると思うほうがおかしいのであって、誰かが、どこかが「人と金」を出さねば動くはずもない、と見るのが一般的であろう。
 過去の例を引けば、そのようなスポンサーは、「派や党」であったり、そうしたものの関係者の実業家であったり、身銭を切った篤志家の集まりであったり、であったと思う。
 これから先、そういう人たちや団体が出てくるものと思うが、1年前のこの時点での、この状態を「そんなものでしょう」と思う人と、「かなりピンチ」と思う人に分かれるであろう。
 しかしいずれにしても、次の全国会議があるとしてそれは9月末、その次は?もし、この運動が上昇気流に乗るとすれば、それは各地での運動が盛り上がってこそであるから、全国事務局への関心と苛立ちは高まっても、人と金は回りにくくなるに違いない。それは、余裕がなくなるし、地区・地域優先になるからだ。
 ふと思った。今回の上京をやめて旅費、宿泊費をカンパにした方がよかったかな、と。しかし、愛知には、この全国の状況を伝えてくれそうな人がいないようであったので、それはそれとして上京したのである。
 愛知での「呼びかけ人会議」或いは「相談会」など、とにかく一度顔合わせをする機会をつくる事から始めねばならない。が、この地域でどんな展開をしていったらいいのか、いうほど私には、準備も展望もないのが実態である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)