2016年3月 9日 (水)

秀吉生誕の地・中村、豊国神社を巡る

 四季雑談の会の「史跡巡り」
 あいにくの雨だった。それでも予定のコースを見て回った。
 緑区の有志でつくる「四季雑談の会」の第11回史跡巡りは、「豊臣秀吉生誕の地を巡る」として、名古屋市中村区中村公園内の「豊国神社」を中心に散策した。
 正午に地下鉄「中村公園駅」に集まったのは、直前に二人がキャンセルして6人。雨足は強くないが、名古屋は今朝から雨模様で、この日開かれていた「九の市(朝市)」も、天気が良ければ、午後2時から3時頃まで開かれているはずのものが、さすがに大半が店仕舞しているか撤収作業中であった。
 野外での弁当を広げるのをあきらめて、喫茶店で昼食を取りながら、用意したガイドペーパーを基に、全行程と、ポイントの説明を一通り行って、午後1時15分に出発した。
  豊国神社入り口の鳥居をくぐり、太鼓橋を渡ってまっすぐ豊国神社社殿へ。次にすぐ脇にある「豊公誕生之地」という場所へ。当時のこのあたり一帯は、田、畑か雑草地に、粗末な農家の家が点在していたであろうから、秀吉の生誕の地を特定することは難しい。事実、「生誕の地」の碑らしきものがあるのは、少なくとも3か所が知られている。
  近くの「日吉丸となかまたち(銅像)」を見て、「加藤清正生誕の地」の碑と銅像が立っている神社隣接の「妙行寺」へ行く。さらにそのお隣の「常泉寺」へ行けば、そこに秀吉の銅像とお手植えと伝わる「柊」、更に「産湯をつかったとされる井戸」などを見て回った。
  その後、小出秀政宅跡の碑、中村公園記念館・桐蔭茶室、清正ゆかりの八幡社に寄って、「秀吉清正記念館」のある中村公園文化プラザで、1時間余を過ごした。ここで関連する遺物、古書・古文書、ビデオなどがみられ、秀吉の生涯の概要が知れたのだった。
 こうして、僅か2時間余りで回りきってしまったが、それは「天下人」となった豊臣秀吉といえども、その生誕から幼少年期は貧しい階層だった故、伝承すべき物的なものはなかったということだ。これが「戦国の三英傑」といわれながら、名家出身の織田信長、徳川(松平)家康との大きな違いといえよう。又、治世の中心地が、この名古屋ではなく、大阪、京都中心だったことも、遺跡の少なさの一因であろう。‘あれだけの財力があったのだから、自ら生誕地にもっと規模の大きい、なにがしかのものを残してもよかったのに・・・’といえる一方、秀吉自身は身分の低い出自をあまり知られたくなかったのかもしれない。それらしき言動が散見されるのである。
 「戦国時代きっての出世頭・豊臣秀吉」は、朝鮮出兵(侵略)や、千利休、豊臣秀次らを死に追いやり、逆に弟の秀長を早く失ったことは不幸だったが、石田三成らを重用し過ぎて、子飼いの加藤清正らとの間に亀裂を生じさせてしまったことなどの失政が目につく。だが一方で生誕の地のこの愛知より、大阪の人に愛され、加藤清正も熊本での人気が群を抜いていると聞くから、そういう背景もあってからか、この豊国神社は、こじんまりとして静かな佇まいである。(隣接の名古屋競輪場が開催されていなければ?)
  このあと、秀吉とは関係ないが、名古屋駅に向かう途中にある「大正ロマン・大門エリア(元料亭『稲本』、松岡健遊館『旧松岡旅館』他)」に寄って、夕刻から地元の居酒屋で懇親会をもって散会した。

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2016年2月 9日 (火)

豊国神社を下見する

 四季雑談の会・次回史跡巡りとして
 某団体の呼びかけのチラシを見て、アポなしで「豊臣秀吉生誕の地・豊国神社散策」の企画に出掛けた。ところが集合時間になっても、指定された場所にも、それらしき人の気配がなかった。だいたいが内容の記憶があいまいで、日時・場所すら、記憶は定かではなかったから、‘思い違い’だったかもしれない。
 こういう場合私は、ほとんど引き返すことはなく「単独決行」もしくは、行く先変更である。(映画にしようかな、と一瞬考えた)今回は単独で決行となった。それなりの理由を見つけて。
 地下鉄・東山線「中村公園」で下車し、まず駅員に周辺の地図はないかと尋ね、中村公園駅周辺案内地図を手に入れ、豊国神社のある中村公園に近い出口を聞いた。
 地上に出れば、まずなんといっても国内では有数と言われる赤い大鳥居(高さ24メートル)が眼前に現れる。(1999年の愛知県知事選挙では、この場所で街頭演説をしたことが思い出された)やや離れて車道から鳥居正面の写真を一枚。鳥居の下は車道になっているから、その下は歩けないので、脇の歩道を公園(神社)に向って歩き始めた。すると小雨模様で平日なのに、なんだか人が多く行き交うではないか、聞けば毎月「九」の日、9日、19日、29日の3回「九の市」という朝市が開かれるのだという。好きだねえ、こういうのを見て回るのは。あるものを見つけたが、荷物になるので、帰りにもう一度立ち寄りことにし、‘何時まで開いているの?’と聞けば、‘まあ、天気次第で2時か3時頃まではやっているよ’とのことだった。(雨脚が強くなったのか、午後1時過ぎには撤収中だった)
 豊国(とよくに)神社の入り口に立つ。脇のガイド板を見る。神社内の散策コースが示されていた。暫くそのコースに沿って歩き、一番奥まった所にある「中村公園案内所」の戸を開けた。一通りの話を聞き、資料を頂戴したが、隣接するお寺について、秀吉と所縁(ゆかり)がある寺なのか聞いてみた。あまり詳しくないお留守番のボランティア(ご高齢の男性)なのか曖昧だったので、まずそちらを訪ねることにした。
 常泉寺と妙行寺があって、いずれも「加藤清正」と所縁があるとわかった。常泉寺には「秀吉生誕地」の看板もみえたが、神社内にも「秀吉生誕地」がある。まあ当時のこのあたりは殆ど田圃、畑で、ポツンと民家が点在している場所からして「秀吉生誕地」は、「この辺り」が正解なのであろう。
 豊国神社の社(やしろ)の規模は小さいし、きらびやかさはない。百姓出身で、その上豊臣氏滅亡以降、徳川から監視され続けた時代背景からしても、家康の「東照宮」と比ぶべくもない。
 他には、あまり史的遺産のようなものはない。銅像なども近代、現代のもの。あとは「秀吉・清正記念館」で、往時を偲ぶことになる。記念館は無料である。
 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の「四季雑談の会・史跡巡り」として企画したいとやってきたのだが、散策で1時間余、記念館でも1時間余で、せいぜい3時間コースだ。近くに「大門(おおもん)エリア」として、大正時代の建物「元料亭 稲本」「松岡健遊館(旧松岡旅館)」「蕎麦 伊とう(登録地域建造物資産)」があり、それを見て回るのもいいかもしれない。次回の下見では、これの調査をするつもりだ。

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2015年5月15日 (金)

熱田神宮から丹下砦まで

 第10回「史跡巡り」」を挙行
  4月4日に予定していた、四季雑談の会主催の「第10回史跡巡り-織田軍進軍の熱田神宮から丹下砦までを歩く」が今日行われた。参加者は女性一人を含む6人。
 天気予報では「曇夜になって雨」だったが、この日は朝から青空が広がった。私は長袖のシャツからTシャツに代えて出かけた。参加者は、結果として結構日焼けし、2万歩に及ぶ行程は、かなりきつかったようで、予定の1か所を省く、笠寺観音での屋外昼食も、冷房の効いた近くのファミレスということになった。
  それなりに元気な70歳前後のグループであってもやはり炎天下の10キロ、2万歩はかなりハードだったようだ。事故が起きなかったことで結果オーライであったが、次回からは1万歩を目安にする予定だ。
  今回のコースは、熱田神宮・信長塀-東海道・宮の渡し-熊野三社・松巨島-百毫寺・年魚市潟勝景-(長楽寺・織田と今川の国境跡←省略)-笠寺観音-東海道・笠寺一里塚-丹下砦跡。そして終わってからの懇親会。
  次回は秋。いくつかのコースを想定しているが、「織田信長」を完結させるには、京都・本能寺他は欠かせない。そこで日帰りにするかどうかも含めて、細部の検討を進める。

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2015年3月17日 (火)

史跡巡「熱田神宮-丹下砦」の下見

 約10キロ、2万歩のコース
 ‘もうすぐ春ですねえ~’と、のんきなことは言っておられない社会状況ではある。安倍の改憲への道、「安保法制」の与党協議も進んでいるようであり、原発の再稼働が日程に上ってきた。沖縄の辺野古は重大な局面にある。
 地域の動きは、統一地方選挙を前に「個別的には動きが出て」きたが、これはまだ‘啓蟄’段階か。「春闘」と言っても大手の組合、正規労働者中心で、私の周辺のユニオン加盟の領域では話題にもなっていないようだ。私が関わるCGSU、APWSLでは、活動誌の編集発行が始まる一方、ピースサイクル2015が起動する。5月の国会ピースに向けた署名、メッセージを集め、6月の「沖縄ピース」の準備もある。新規の「Tシャツ」も届くころだ。
 さて、以上の状況を踏まえつつ私的な仕事もバランスをとって進めている。4月4日予定の「史跡巡り」のガイドペーパーの編集は急務の一つである。今日は、‘晴、気温上昇’の天気予報を聞いて、熱田神宮から丹下砦までの「織田軍の進軍コースを歩く」の下見調査、全コースを歩いてみた。
 この企画は第10回めのものだが、桶狭間の合戦で勝利を収めた織田信長の、清須から桶狭間の合戦地(釜ヶ谷)の地まで、全コースを歩いてみようというそもそもの計画があり、既に(鳴海城)・丹下砦-善照寺砦-中島砦-釜ヶ谷までを歩いた。あとは「清須から熱田神宮」までの主として「美濃路」と、今回の「熱田神宮から丹下砦」までを進軍ルートを探りながら、実際は旧東海道を歩く。
  熱田神宮拝殿前をスタートとして、織田塀 ⇒東海道・宮の渡し ⇒裁断橋と姥堂 ⇒熊野三社・松巨島 ⇒百毫寺・年魚市潟勝景地 ⇒長楽寺 ⇒笠寺観音 ⇒笠寺一里塚 ⇒丹下砦に至り、解散地点は、桜が満開であろう新海池公園である。
 下見では、ゆっくり歩いて時間を計り歩数から距離を割り出した。通常私の歩幅は65センチから70センチくらい。この日は、50センチから55センチくらいの歩幅だった。昼食・休憩・ガイド時間を入れて約6時間、2万歩で約10キロと推測した。
 横断歩道橋3か所を除けば殆ど平坦な道で、距離に較べそれほど辛くはないと思われるが、疲れのピークと思われる最後の「丹下砦」は、丘の上であり、メンバーが60代後半から70代前半であるから、ちょっとつらいかもしれない。冊子作りに3日はかかるかな。

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2015年3月 3日 (火)

第10回史跡巡りの下見(2)

松巨島から丹下砦まで下見する
 過日、南区の呼続近くへ所用で出かけ、思いのほか早く片付いたので2回目の史跡巡りの下見に出かけた。
 今回の「史跡巡り」は、織田軍が、熱田神宮に集結して陣容を整えて、今川軍の前線鳴海(緑区)方面に向かって進軍したその進軍路とはどんなルートだったのか、それが解明されたという記述は見たことがないが、とりあえず、旧東海道を歩く。そして、東海道筋の名所、史跡を訪ねるという企画である。
 その織田軍の進軍路だが、推定するとすれば、当時の地形から類推することが手っ取り早い。簡単に言えば、現在の地形図に当時と現在とではどれほど水面の高さが変化したかを推量して、それを等高線に重ねれば、当時の海岸線が浮かび上がる。できれば、当時の時期と時間帯、信長が熱田神宮を出発した1560年6月の午前8時~12時ころまでの潮の干満が判れば、おおよその見当がつきそうだ。
 さて、家康が関ヶ原で西軍を破り、1603年に「江戸幕府」を開くが、1604年には、東海道が整備されて、一里塚が設置されたとある。桶狭間の合戦からざっと44年が経って、年魚市潟はかなり後退して海岸線に沿って東海道が主要道路となった。逆に言えば、織田軍は東海道のルートを通ったのではなく、かなり北側を、それも山崎川、天白川に橋はなかったと思われるから、潮が引いた時に湿地帯を歩いたのではなかろうか。つまり、熱田-松巨島(笠寺)-野並-丹下砦というルートが考えられる。植田あたりまで迂回すると時間がかかりすぎるのだ。
 元に戻って、この日の当初は、呼続あたりから前回の下見の始発点、国道1号線松田橋交差点までの積りであったが、午後からの所用がこれまた早く終えられたので、元の場所に戻ってこんどは、東方向、丹下砦まで歩くことにしたのだった。即ち旧東海道の「松巨島」の真ん中たり、名鉄電車の「桜駅」近くと言ったほうがいいかな。そこから出発して最初に立ち寄ったのが「長楽寺・年魚市潟勝景地」であった。
 「年魚市潟」とは「あゆちがた」と読むが、伊勢湾の奥まった所、熱田神宮のある台地の海岸線、熱田の宮の渡しあたりから山崎川の流域である新瑞橋、さらに天白川の上流域、植田まで入り込み、東は三河山系の西の縁(ヘリ)、野並から鳴海、大高に至る干潟や湿地帯を指す(推定)。松巨島はその干潟の中にあった島であった。
 年魚市潟勝景地なる場所に行ってみるとそこは、南向きで10メートル余の崖の上であった。今では人家、ビル、工場が立ち並び、そこが海岸線だったとは想像すらできない。
次の「熊野三社・松巨島」では、松巨島の北側にあたり、やはり数メートルの崖になっていた。その崖下を名鉄名古屋本線が走っているのである。
 午後からは、名鉄桜駅から一駅、本笠寺まで歩いて「笠寺観音」に立ち寄った。尾張四観音の一つと言う名刹であるが、節分の時に来るくらいで、これまで中・奥まで散策したことはなかった。しかし今回の下見で、そこは信長とは縁はないだろうと思っていたのだが、桶狭間の合戦より以前に、信長と家康との間で「ある出来事」があったとされるガイドを発見した。これは収穫だった。
 笠寺観音から歩いて5~6分先に、名古屋市内では唯一残っているとされる「東海道一里塚」がある。かつて有松にも一里塚はあったので、ここから「鳴海宿」を通って約4キロ先が有松(鎌研橋あたり)となるわけだ。
 最後の「丹下砦」は、第2回目の史跡巡りで訪ねたのだが、それは、当時は海岸線・干潟のあったと思われる南側から入ったので、北側から砦に至るにはどんなルートになるか、それが調査目的であった。当時は灌木の中に砦までの道らしきものがあったのであろうが、現在は入り組んだ住宅地となっていて、おおよその見当をつけて歩いたものの、行き止まりにあって地元の人に聞くことになった。
 結局野並方面からの進軍を想定すると、おおよそ鎌倉街道に沿い、信長の初陣となった「赤塚の戦い」の場のあたりを抜けて丹下砦入っただろうと推定した。その道筋を定めてこの日の下見を終えた。次回は、全コース通しで歩く。
   

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2015年2月24日 (火)

第10回史跡巡りの下見(1)

 熱田神宮から丹下砦までの部分
 4月に開催予定の、四季雑談の会主催、第10回史跡巡り「信長の進軍路-熱田神宮~丹下砦」の第1回の下見を行った。進軍方向とは逆行するが、いずれ全コース通しの下見をするので問題ない。
 今日は、国道1号線が、空港線と分かれる瑞穂区内浜町の松田橋交差点を出発して熱田神宮に向かった。ほぼ1号線と並行して旧東海道は続くのであるが、JR東海道線の踏切を渡り、新堀川の熱田橋を渡ってすぐの交差点まで、旧東海道を示す痕跡は見当たらなかった。逆に言えば、宮の渡しに向かう地点、熱田神宮の南門の少し手前からこの熱田橋までの熱田区神宮2丁目、伝馬3丁目まで、瑞穂区の境界までは、歩道や電柱に「旧東海道」と言う看板、標識が散見されるが、新堀川を境にぱたっと消えるのである。これは地域住民の意向が反映しているのかもしれない。
 名鉄常滑・河和線のガードを潜ると、周辺地図の看板があり、その先に移設された「裁断橋(さいだんはし)の跡」と橋の袂にあった「姥堂」がある。詳細は省くが、熱田神宮の「信長塀」を見てから出発して立ち寄るところは、信長とは関係ないが旧東海道名跡の一つとして「宮の渡し」そしてこの「裁断橋・姥堂(都々逸発祥之地とも)」だろうと確認した。
 また熱田神宮に至るまでに、旧東海街道は2か所で国道に分断され、迂回して歩道橋を渡ることになる。
 約40分かけて熱田神宮南門に到着し、そのままほぼ直線的に続く参道を拝殿前まで歩いた。一応ここが当日の集合場所になる予定だ。
 まず、「信長塀」を確認する。参道を横切って(というよりも、塀を参道が断ち切って)東西に延びる塀を辿ろうとしたが、東側は、熱田神宮会館のところ切れていた。西側は森の中へと続いているのだが、すぐに立ち入り禁止区域となって確認できなかった。(後で関係者から聞き出し、許可を得て現存する塀全体を確認したが)
 もう一つ、この「信長塀」に関する意外な事実を関係者から聞き出した。例えば、現存する塀は約220メートルだが、元々は神社全域を囲っていたらしいこと(戦災で資料、写真を焼失したとか)。現在の参道とは別に本来の参道は‘こちら’と教えられたこと。その(旧)参道を辿って今日の下見を終えた。

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2015年1月23日 (金)

四季雑談の会2015

 熱田神宮から鳴海まで歩く
 地元有志でつくる「四季雑談の会」が主催する「史跡巡り」の第10回は、織田信長の、桶狭間までの進軍路のうち、熱田神宮から鳴海(丹下砦、善照寺砦)までの6~7キロを歩くという相談を、今日、新年会を兼ねて行った。
 今川義元の来襲の報を受け、心中穏やかならぬ信長ではあったが、明日にでも決戦となる前夜の家臣団の会合でも、何の指図をしなかったといわれる。そして永禄三年五月十九日未明、信長はついに起った。 
 「一五六〇年六月十二日(永禄三年五月十九日)未明、清須城を発った信長は、近習のみを従えて熱田神宮まで馬を飛ばした。ここで戦勝祈願をして陣容を整え、高ぶる気持ちを内に秘めながら、粛々と兵を進めた。熱田の湊辺りまでくれば、あゆち潟のはるか向こうに、家康軍などに攻め立てられ、織田軍は全滅したであろう丸根砦、鷲津砦の焼け落ちる煙が臨めたに違いない。桶狭間の合戦は、少数の織田軍の歴史的勝利となり、それは後世に伝えられこんにちに至る。」(案内から)
 織田軍の進軍路は、清須→熱田神宮→丹下砦→善照寺砦→(中島砦)→桶狭間であるが、これまでの史跡巡りでは、「清須→熱田神宮(美濃街道)」「熱田神宮→丹下砦(東海道筋)」は未踏であり、今回の四季雑談の会の「第十回史跡巡り」は、熱田神宮から鳴海(丹下砦・善照寺砦・鳴海城)まで、旧東海道に沿って歩ことを企画した。距離は六~七キロ、三時間程度を見込む。開催時期は、三月末から四月半ばあたりの日曜日。
 またこの日は、アトラクションというほどではないが、景品付きの「歴史クイズ」も用意された。
第1問 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は、信長49歳、秀吉62歳で亡くなり、家康はもっと長く生きて77歳の喜寿で亡くなった。これは正しいか間違っているか?
第2問 では戦国の三英傑と言われた信長、秀吉、家康は、それぞれどこで死んだか、間違い一つを探せ。①信長は、京都の本能寺で死んだ ②秀吉は、大阪の大坂城で死んだ ③家康は、静岡の駿府城で死んだ
第3問 以下の3つのうち、間違いがあるかないか。あればどれが間違いか、その理由は?
①織田は、信長と兄弟、子供、孫は全て亡くなり、血筋は絶えた。
②豊臣は、秀頼が死んで血筋が絶えた。
③徳川は、幕末・明治維新の時代を乗り切って、今日まで血筋は続いている。
第4問 信長の嫡男信忠の子「三法師」は、その後どんな運命をたどったか
①三法師は9歳で元服して織田三郎秀信と名乗り、12才で秀吉の計らいによって美濃国岐阜13万石を領有した。その後、安土城主になったが、24歳という若さで病没した。
②三法師は9歳で元服して織田三郎秀信と名乗ったが、関ヶ原の合戦で西軍について、討ち死にした。
③三法師は9歳で元服して織田三郎秀信と名乗ったが、関ヶ原の合戦で西軍について敗れ、高野山に追われた。その後26歳で不遇のうちに没した。
第5問 豊臣秀吉は、尾張中村の貧しい百姓の家に生まれ、幼名を日吉丸と言われた。そこで問題、秀吉が生まれた尾張中村は、今の名古屋市中村区であるが、当時「愛知郡」の一部と言われていた。○か×か
 注:1955年(昭和30年)時での愛知郡は、猪高村、天白村、長久手村、日進村、東郷村、豊明村、鳴海町であった。その後はそれぞれ、名古屋市への合併、村→町→市を辿ったケースなど。

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2014年10月27日 (月)

第9回「史跡めぐり」第2日

 竹生島から長浜城、北国街道界隈へ
 今日はまず、彦根から米原経由長浜へ、長浜港10時15分発の遊覧船で竹生島へ渡る。桟橋に降り立って全員がそこでごくりと唾を飲み込んだと思う。見上げるほどの階段が目に入ってきたからだ。それは昨日の、安土城跡、彦根城天守閣への山道の記憶が未だ鮮明に残っていたからだ。それでも誰かが‘昨日のことを思えば平気!’みたいなことを言ったので、全員が気持ちを持ち直して急角度の、表示195段に挑んだ。
 拝観受付からすぐに階段が始まり、杖と手すりを頼り上がり月定院、さらにその上の宝厳寺本堂(弁財天堂)へ、ここで一息、拝礼して最後の上り階段で三重塔・宝物殿前へ。そこから今度は急な階段を下りることになったが、このころから雨がポツリポツリ、こういう時の下りは危険だ。そしてここで竹生島来訪のメインの一つ、「国宝 宝厳寺唐門」前に。この唐破風(からはふ)は桃山時代を象徴する造りなのだが、豊臣秀頼が京都東山の豊国廟の正門であった唐門(元は大坂城の極楽橋)を移築したものだという。
 この唐門を通り抜けると、朝鮮出兵時の「秀吉ご座船日本丸」の廃材を利用して作られた、と伝えられる廊下をわたって、国宝の「都久夫須麻神社の本殿」に出て、龍神拝所に至るのであるが、私たち一行は逆のコースを辿った。そして龍神拝所で有名な「かわら投げ」をした。ここでかわらではなく、素焼きの小さなお皿2枚で、一方に名前、もう一方に願い事を書いて、鳥居めがけて投げるのである。その鳥居を抜ければ願いかなうとされる。私は、家内安全とかぼけ防止とかが多い中、「脱原発・基地撤去」と書いて投げたが、距離は出たが右に外れた。‘安倍の右翼的政権のもとでは、脱原発も(米軍沖縄の)基地撤去も実現しそうにないので、正解かも知れぬ’とひとりごちたのだった。
 12時35分、長浜港に帰港して、昼食をとるため予約済みの麺類のお店に入った。お目当ては、「焼き鯖そうめん」だったが、注文は二人だけだった。
 雨は上がっていたが、風が強く冷たくなっていた。足早に長浜城(歴史博物館)へ行ったが、そこで「日本丸」の復元想像図を見て、竹生島の「秀吉ご座船日本丸」のイメージが重なった。
 この後、長浜城本丸跡、太閤井戸跡を回る予定だったが、寒くなったのとハードスケジュールのせいか、パスすることで全員一致。北国街道筋の「長浜まち歩き」に向かい、最初に秀吉の遺徳を偲んで町衆が建立したという豊国神社(長浜恵比寿宮)を見た。それから長浜城大手門跡、外掘跡にかかる豊橋をわたり、北国街道に出た。その角が、「黒壁ガラス館」そこを北に向けてそぞろ歩き、ウインドウショッピング。「武者隠れ道」の手前で折り返し、黒壁ガラス館を通り抜け、大手門通り出て東へ。一人が興味津々という「海洋堂フィギュアミュージアム黒壁」に入るというので私一人がついて行った。
 最初は、そもそも「フィギュア」のイメージがわかなかった。下見の時もその場所の前に立ったが、アニメのおもちゃ、模型だと思って中へは入らなかった。実際、形を変えた人間の模型と言ってしまえばそれまでだが、かなりバリエーションが広がっていて、多分、ゲームソフトに出てくるものなど多種多様なのであろう。私としては、ガンダムくらいまでかな、といった感じであった。
 所々寄っては、買い物をしている人もいたが、古くからの商家屋敷・安藤家を最後に、まち歩きを切り上げた。寒さ、疲れもかなりたまってのことだろう。
 最後の最後の締めくくりは、JR長浜駅前の「秀吉・三成出逢いの像」。1時間早く切り上げて、長浜を後にした。
そして、みんなで確認した、今回の旅は一言でいえば「階段の旅」だったと。

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2014年10月26日 (日)

第9回「史跡めぐり」第1日

 安土城跡&彦根城・玄宮楽々園
 朝8時に参加者7人が名駅にそろったところで出発。JR安土駅に降り立ったのが10時23分、まず駅南にある「城郭資料館」へいき、予備知識を仕入れた。30分ほどしてから、途中昼食を調達しながら、安土城・大手道入口の受付に正午少し前に到着した。いよいよ一段の高さが25センチほどの石段、表示405段の「登城」が始まった。下見の様子などで事前にこの「難儀」は予告しておいたが、齢70を前後する一行全員は想像以上と思ったに違いない。休み、休みなしではとても上りきれなかった。だがこの「階段」の‘苦行’は、全行程における始まりに過ぎなかった。
 ほぼ予定時間の30分で、本丸跡経由天主跡に到着。眼下に琵琶湖、といっても「西の湖」以外は多くが干拓されて陸地化。湖岸は遥か先だが、それらをひとしきり眺望してから天主跡の一角でお弁当を開いた。ハイキングでは、これも楽しみの一つ。
 さて、「下城」の時間。帰り道は、摠見寺跡・三重塔・二王門を一巡りして下った。上りに較べれば楽には違いないが、膝への負担はあるにはある(個人差)。しかし何とか無事に下山できた。そして来た道を辿って安土駅に戻るのだが、うっかりして道を間違え、3~4分のロスをした。それは‘誤差の範囲内’ではあったが、次の彦根に行く列車に1~2分差で乗り損ねてしまった。ここでの30分のロスが、彦根で想定外の苦難を招いたのであった。
 彦根でいったん宿泊のホテルでチェックインして、荷物を預け、彦根城に向かったのであるが既に午後4時を回っていた。5時閉館とのことで急いだのであるが、受付で彦根城天守閣は5時半まで、玄宮楽々園は5時まで言われ、通常の順路は彦根城天守閣から玄宮楽々園へと向かうのだそうだが、遅れたばかりに逆のコースに行くことにした。それがとんでもないことになるとは知らずに。
 玄宮園(げんきゅうえん)は2度目だが、茶室で抹茶を戴いたことくらいしか記憶になかった。この日はその茶室(鳳翔台)は既に閉館になっていた。日本庭園とそこから眺めた彦根城天守閣は素晴らしかった、そして写真を1枚。楽々園は、「御書院」、「地震の間」、「楽々の間」など江戸時代後期の数奇屋建築であるが、「地震の間」とは耐震構造になっていて、いざというとき殿様などが退避する部屋のようだ。時間にせかされながら、枯山水の庭を見て、黒門橋から天守閣に向かったのであるが、ここで思わぬことが。
 玄宮楽々園から天守に上がるルートは「黒門山道」と言われているが、定かではないがまさかの200段近い階段が待ち受けていた。帰路は表門山道を通ったが、それほどの階段とは思わなかったので、なんでこんな落差があるのか疑問は残ったまま。とにかく、安土城までの往復と登城でかなり疲れていたこともあってこの階段は全員が音を上げるほどであった。つまり、安土で列車一本を乗り遅れた結果がここに現れたわけだ。‘戦’でいえば、敵をして先に有利な地形に陣地を構えられ、遅れたばかりに苦戦強いられた、という感じ。
 5時、天守閣に上ったが、この内部の階段がまたすごかった。階段というよりむしろ「梯子」を上り下りするような急角度の階段なのだ。玄宮楽々園の受付で「天守閣の待ち時間30分」とあって、時間も時間であったから‘そんなに待たないかんのですか?’と聞けば‘若い人ばかりなら、そうではありませんが’と言われ、その意味が、ここにきてわかったのだった。この階段をお年寄りが上り下りするのは大変、‘渋滞する?さもありなん’と納得。
 ライトアップされた彦根城を見ながら、ホテルに帰った。

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2014年10月11日 (土)

安土・長浜史跡めぐり・下見Ⅱ

 話の種を拾いながら
 今月末開催予定の「四季雑談の会」主催、第9回史跡めぐり「安土・長浜」の2回目の下見を行った。
 一泊二日の行程に、宿の関係で「彦根」を入れたので、この回は「安土=織田信長、長浜=羽柴秀吉、「彦根=徳川の時代」の三要素が織り込まれる結果となった。
  元々は、1560年の「桶狭間の合戦」から450年の2010年がスタートで、織田信長を主として企画してきた。信長は生涯3つの城を造ったとされる。小牧城、岐阜城、そして安土城である。それらを辿って今回の「安土城跡めぐり」は、シリーズの最終回ともいえる。
  安土城の築城は1579年とされ、1582年に焼失して、当時の文化・芸術、外国文化も取り入れた絢爛豪華な城はわずか3年余りで消え去った。先の大戦で焼失した城は幾つもあろうが、安土城は残しておきたかった城の筆頭にあげられるのではないだろうか。あえて言えば、2番目は大坂城かな。もっともそれは「権力」の大きさを象徴し、それだけに庶民の暮らしはどうだったのか、という観点はあるにしても。
  下見の第1は、安土城跡向うに当たって昼食の確保、調達だったが、これは観光案内所のアドバイスで解決。そうそう、下見の時「下街道」という旧街道の一部を歩いてみたところ、その途中にふと見逃しそうな石柱を見つけた。そこには、石柱の3面にそれぞれ「常(じょう)の浜・朝鮮人街道・安土城址」と書かれていた。「朝鮮人街道」が気になったので、帰りにもう一度観光案内所によって確かめた。それは、簡単に言えば、江戸期の「朝鮮通信使」が通った道筋ということだった。その頃はもう東海道が整備されていたから、その道筋からすれば、やや遠回りとなる。その疑問の答えは戴けなかったが、検索したら「朝鮮通信使」の一行は、西国から京都を経て北国街道に入り大垣を経て名古屋経由東海道を江戸に向かったようだ。
  その後彦根で降りて、ホテルと打ち合わせ、彦根城・入口への道筋を確認、長浜に移動して、JR長浜駅から乗船場までの所要時間、竹生島への乗船時間を確認した。その結果、彦根発を30分早め、長浜の散策のコース順をを変えることにした。街中のある老舗の店で「堅(かた)ボーロ」というお菓子を見つけた。ボーロといえば「たまごボーロ」しか頭に浮かばなかったが、これは名前通りに堅かった。その名前の由来とか、戦争と関係あるとか、という‘話のネタ’を仕入れた。もっともそのお店は北国街道からやや離れているので、行くかどうかは当日の都合による。
 というような話の種を拾いながらの下見もおもしろい。帰宅したら万歩計は2万歩余となっていた。

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