コラム「結」2007年11月
“有終 ”ということは?
終りを全うする
〈有終の美〉とは、最後までやり通し立派な成果をあげること、と広辞苑に書いてある。だが「最後」とはどこか、「立派な成果」とはどんなことなのか、と理屈をこねてみたい気もするが、評価は他者に任せるとして “幕引き ”を曖昧にしないことではないだろうか。
「終りを全うする」に越したことはないが、どれほどのものか、と思うけれども、卑屈な気持ちはよくないだろう。
その “終り方 ”にしても、ものごと「一事完結型」と「局面転換型」「継承的終結型」があると思われ、例えば、人間個人の一生は「一事完結型」であろうが、政治などは「局面転換型」で、世事の多くは「継承的終結型」であろうと思われる。
課題は継承され、運動は終結する
愛知万博に反対する運動の一端を担った「緑ネット」をはじめ多くの運動体は、愛知万博が終了することによって、目標対象物がなくなったわけだから「一事完結型」ともいえる。
元々市民運動、住民運動は、一つの課題のために組織され、形がどうであれ課題としていたことが終れば、その運動体も解散して運動に終止符を打つべきであろうと私は考える。
しかし、内実としての課題、例えば愛知万博の場合、「自然保護、環境問題」「財政問題、税金の使い方」「住民自治、県民の意思決定権」は、万博特有のものとばかりはいえないもので、他の行政課題と重なり、継承される内容でもある。
結局、愛知万博反対運動の場合、「内実は継承され、運動体は終結する」ということにならないだろうか。
「緑ネット」を拠点として、反万博運動への積極的な参加と、問題提起、それらについての情報発信を続けて九年余、私の認識では、2回の条例制定直接請求の署名活動と一九九九年の愛知県知事選挙で、実質的な運動の峠は越えたと感じていた。それ以降は、大まかに言えば「課題の継承」と「終りを全うする」運動の成果を検証する領域ではなかったかと思っている。
「緑ネット」の更新
もう少し「緑ネット」にこだわると、2005年7月20日付で発行した第55号から、発行と編集方針を変えた。つまり、この時点で万博終了後を見越して年8号の定期発行、増ページで購読費は2千円に。愛知万博の検証を継続しつつ、社会的課題、労働運動に誌面を割き、加えて「緑区の地域記事」を盛り込んだ。表紙の巻頭詩もこの号から始まった。愛知万博を課題とする「市民運動誌」から、緑区に軸足を置きつつ、「ミニコミ誌」へ脱皮を図ったというわけだ。
このように “サイドステップ ”を踏んだのは、「内実の継承」と、運動の一過性を避けたい、どんな運動にも政治・社会性つながっているという「意識の継承」面からでもあったといえる。
表紙・タイトル横に小さく、それまでの〈お知らせレター〉から〈自然・社会・生活(くらし)〉と置き換えたことは、編集の基軸が換わったことの意思表示だった。これらの評価はともかく、私は「ミニコミ誌」として発信し続けることに自負を持って臨んだ。
ともあれ “有終の美 ”が飾れたかどうかは定かでないが、今号をもって終刊となる「緑ネット」の、読者のみなさんに感謝しつつ、筆を置く。(10月19日記)
〈「緑ネット・第79号」2007年11月1日から〉
嬉しい贈り物
昨夜、3人の方の連名で豪華な薔薇の花束が届いた。
日ごろ、あまりこういった経験のない私であるが、この花束を送ってくれた方々の気持ちを察するに、緑ネット終刊にあたって「ご苦労さま」という意味が込められたものと感じ取った。
終刊号へ寄稿して戴いたみなさんといい、このようなお花を頂戴するなど、嬉しい限り。「十年(とおとせ)の実りネットから小さな芽」(四コマ漫画)が、現実に飛び出してきた感じでした。
この人たちは、誰にも負けないほど「海上の森」を大事に思ってきた人たちだ。終刊号の巻頭詩「想秋の昴」の第一連は、この人たちをイメージしていたことを記しておきたい。
パリのBIE総会参加への旅費のカンパ、意見広告のときの応募、知事選挙のカンパなど、折々に多額のカンパを送って戴いたりして、こちらこそが随分支援を戴いていたから、恐縮するばかりである。ありがとう。
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
最近のコメント