2017年5月11日 (木)

3台目のパソコンDELLを廃却

 郵便職場を垣間見る
 ウインドウズ7で、大いに働いてもらったデスクトップ型のパソコンDELLをリサイクル法に則って梱包して郵便局から送り出した。これで3台処理したことになる。2009年から2014年で平均寿命5年である。現役のNEC・LaVieは3年目。1年後には次の代替機の準備を考えねばならないかもしれない。
 それで発送するにあたっては、かなりの重量だったので、郵便局から取りに来てもらおうと何度でも電話をした。最初は話し中の状態だったが二度目はつながったものの、誰も出ない状態が続いた。翌日も試みたがやはり誰も出ることはなかった。“人手不足でみな忙しくしているのだろう”と思い、歩いて10分ほどの特定局まで、キャリーに載せて運び込んだ。ひと汗かいてしまった。ここの局長とはいくらか懇意にしていて、冗談ぽく“緑(局)に電話したけど全然出ないの、人がいないのだろうと思ってここまで持って来た”局長“どこも人手不足、あなたにも手伝ってほしいくらい”と返された。
 先日、NHKの“探検バクモン”を見て、ほんとに久しぶりに郵便局の内部を見せてもらった。だが、そこは想像外の“別世界”であった。場所は東京郵便局、日本一の巨大郵便局とあって、郵便物の取扱数が1日2100万通。全国の郵便物の約3割が集まり、1日3000便のトラックが出入りするという。手紙に仕掛けられた謎の暗号、仕分けの超高速マシーン、まさに郵便の心臓部が紹介された。驚かされたのは郵便物の量もそうだが、そこで働く労働者の姿だった。小荷物を扱う職場では、まるで人間型ロボットが動くように、モニターのある中央指令室から、絶えず指令が出て、労働者は荷の多いラインへ移動・応援させられる。
 1970年代に、かつての全逓労組の郵政反合理化闘争を応援していたころ、自動仕分け機の導入反対というのがあった。なぜ機械化に反対だったのかあまり記憶にないが、機械化されればその分人が減らされ、機械の処理から外れた仕分けの職場も、配達労働でも扱い量が増え、それでも“余剰人員”として、慣れない保険業務に回される等々の労働条件悪化につながるからだったと思う。郵便番号が導入されたのは、この自動仕分け機導入のためだった。だからいまだに全逓の闘士の中には、郵便番号を書かない人をたまに見かける。初志貫徹だが、現実的にはそうした機械を通らない(はじかれた)郵便物は結局人の手で仕分けされる。この是非はどう判断すべきか。
 物流の業界・職場での問題が多発している。時代の反映ではあるが、そうした状況、傾向に労働運動は対応できていない現実がある、と思い知らされた一時であった。

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2013年12月24日 (火)

ホワイトクリスマスとブラック企業

 ただただ、思いを致すだけである
 今年最後の通院の帰り、1時間に1本しかないバスの時間に合わせるため、隣接のショッピングモールに立ち寄った。冬休みと“クリスマスイブ”ということもあってか、子ども連れが多く見られた。家電量販店の玩具売り場でも、多くの子どもがたむろしていた。
 この地の今夜は“ホワイトクリスマス”にはならないかもしれないが、それなりの“聖夜(静夜)”を迎える家も多かろう。それはそれで結構なことだ。相変わらず“企業戦士”はゴマンといても、“戦場の戦闘員(自衛隊員)”は一応PKOの範囲内だから。(南スーダンは、ちょっとヤバイ状態だが)
 12月17日の共同通信の配信によると、「厚生労働省は17日、過酷な働かせ方で若者らを使い捨てる『ブラック企業』対策として、情報を基に選んだ全国5111の企業や事業所に対して9月に実施した監督結果を発表した。全体の82%に当たる4189企業・事業所で長時間労働や残業代不払いなどの法令違反があり、是正勧告した。ブラック企業が社会問題化する中、違法な過重労働を強いる事業所がまん延している実態が浮き彫りになった。」とある。さらに「是正勧告を受けた事業所のうち、労使で決めた残業時間の上限を超えて働かせるなど違法な時間外労働があったのは、43・8%の2241。残業代不払いは23・9%の1221だった。」「厚労省が過労死の認定基準としている時間外労働月100時間を超えて働いた人がいるのは730に上った。」ともあった。
 過酷な働かせ方で若者らを使い捨てる「ブラック企業」の実態とは、200円、300円で提供するファーストフード店のことであろうか。懇親会と称して利用することもある居酒屋チェーンのことであろうか。時々大事故を起こしてニュースになる長距離トラック運転手を雇う運送会社のことだろうか。
 共同通信の記事は「業種別では、監督を実施した事業所のうち違反割合が最も高かったのは、飲食などの接客娯楽業で87・9%。次いで運輸交通業が85・5%、病院などの保健衛生業が83・6%で続いた。」とあって、「病院などの保健衛生業が83・6%で続いた」に衝撃を受ける。ひょっとして「介護事業」の介護士、夜勤もある病院の「看護師」などがその対象なのであろうか。
 種々ある「老人ホーム」はピンからキリまであって、火災で多くのお年寄りがなくなるケースは、この「ブラック企業」の範疇だったからか。とすれば、きちんと処遇されていれば焼死せずにすんだであろうお年寄り、過酷な労働を強いられていた若い介護士が同居していたことになる・・・。
 ひるがえって、“クリスマスイブ”というものに、さしたる思い出も、ましてプレゼントに無縁だったこともあって私は、孫たちにプレゼントをしたことはなく、今年も素通りだ。いや、「物」だけがプレゼントではないから、他の方法もあるだろう、と思わないでもないが、今夜はそういう雰囲気にない・・・。
 ただただ、「ホワイトクリスマスとブラック企業」の対比に思いを致すだけである。

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2013年5月 1日 (水)

メーデーそしてメーデー歌

 「赤旗の歌」の出自を知る
 よく晴れたメーデーの日の私は、前夜の“トラブル”で遅い目覚めだったことと、「雑談の櫂」の発送準備などで午前を過ごしたが、県下では愛労連系の第84回愛知県中央メーデーが名古屋・白川公園で、他に、一宮、江南、瀬戸、春日井、安城、豊橋の6か所で地区メーデーが取り組まれたと聞く。
 2008年5月1日の本欄でメーデーについて書いている。その時に書き記したことときょう、この時点で思うことに差異はないと感じた。そして「・・・戦前と戦後しばらくの間、労働者の権利が軍国主義のもと圧政下に置かれ、その後、労働者の組織化と権利闘争の前進が、華やかなメーデーに象徴的に表現されたように、メーデーの歴史にふさわしい『新メーデー』の萌芽は、今年のメーデーに見られたであろうか・・・」どうかはわからないが、スローガンとして「・・・『憲法改悪反対』の共同をひろげ、『増税・TPP 参加反対』『原発ゼロ』を求める市民運動、社会運動と連帯し、労働者の切実な諸要求実現をめざすメーデーとして」取り組まれたようだ。
 さて、長く労働運動に関わり、メーデーも幾たびか参加し、取り組んできた私ではあるが、会場などでよく歌われた労働歌「赤旗の歌」〈民衆の旗赤旗は・・・〉の、元々の旋律がドイツ民謡の「もみの木」であったとは、「NHK名曲アルバム」の解説書を読むまで、全く知らなかった。
 検索してみれば「ドイツ北部に古来から伝わる民謡にヨハン・アウグスト・ツァルナック(1777年 - 1827年)とエルンスト・アンシュッツ(1780年 - 1861年)が共同で歌詞を付けたものである。また、原曲の旋律は労働歌『赤旗の歌』やアメリカ合衆国・コーネル大学の校歌、メリーランド州及びアイオワ州の州歌としても使用されている。」とあった。また「・・・厳しい冬も葉を落とさず、黙って寒さを耐え忍ぶかのようなもみの木は、ドイツでは生命力と堅実さの象徴として古くから親しまれてきた。どっしり揺るがぬもみの木の姿をたたえたこの民謡は、『おおクリスマスツリー』の題名で英訳されて以来、聖夜の歌として世界中で愛唱されている。」ともあった。
 こうして何気なく、深く考え思いを致すことなく口ずさんだり、文字にしたりすることがなんと多いことか、と思わずにはいられない。それでも、そのほんの一部でこうして改めて知り得たりすると、なんだか過去がいとおしくなったりして、妙な気分になったこの日であった。

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2012年11月 1日 (木)

熊沢 誠さんの一文に触れて

 労働運動への思いは霞んでも
 労働情報(RJ)850号のコラム「時評自評」に、熊沢 誠さん(研究会「職場の人権」代表)が、「されどなお労働組合に期待して」を短く書いておられる。労働運動という一般論ではなく、労働組合の今日的な実像というべきその課題というか、問題点を指摘している。慨嘆と共に実にすっきりした感じが残る名文であると思った。
 熊沢さんとは直接お会いしたことはない?とは思うが、1970年代、職場活動で企業の「QC(品質管理)活動」を問題視していたころ、彼の著書を読んだ覚えがある。そこで書棚を探ってみたら、「労働のなかの復権-企業社会と労働組合」(三一書房)が見つかった。
 1972年7月が初版であるから40年前ということになるが、ほんの少し読み返しただけでも、様々に仕掛けられた「企業社会」の中で、職場の仲間と共に私なりに、何かから“解き放たれたい”気持と、何かを“打ち破りたい”衝動を抱えて過ごした日々が甦るようだ。いまさらに“企業意識からの脱却”を求めながら、大半は企業意識にとらわれていたのではないか、という気がしないでもない。
 私が企業内の職場活動から地域労働運動へと足場を広げ、全国の運動とつながろうとしたのも、そんな意識背景があったのだと思う。
 とはいえ、私はどれほどの仕事ができたであろうかと自問すること多である。会社から解雇やひどい差別を受けて相談に来る、地域で組織されていない労働者(未組織労働者)の力になって会社交渉などに明け暮れた時期もあったが、「労働そのもの」を問い、労働組合のあるべき姿、なすべき活動とは何か等は、中途半端のまま第一線を退き、今日に至った。
 2006年に、少数ではあるが自立した全トヨタ労働組合(ATU)が結成されたと聞き、すぐ「サポート」する市民組織の立ち上げに動いたのは、労働運動への不完全燃焼という意識の残滓があったからだろう。
 今となっては、労働運動の何かのために、ということにはならないが、熊沢さんの話が聞きたくなった。

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2012年3月29日 (木)

[団結]の、群れる意味と強さ弱さ

 私は「連帯」が好きだ
 労働情報836号(4月1日号)の見開きに「時評 自評」というコラムがあって、今号では佐高 信氏が書いていた。その末尾に「・・・ルポライター竹中 労は、人間の弱さを見据えつつ、こう喝破した。『人は無力だから群れるのではない。あべこべに、群れるから無力なのだ』
 団結とやらを叫ぶ場合も、竹中のこの指摘を根底に置くことが必要だろう。」とあった。
 これに対しては、労組活動、労働運動にかかわる者にとっては、複雑な思いにかられるのではないだろうか。佐高の指摘は間違ってはいないが、「団結」に込められる思いは、決して軽いものではないと。労働者全てが「活動家」といえるほど強固な意志と行動力を備えているわけではないし、家庭環境、地域事情も一様ではなく、「群れ」から離れて自主自立していける人間はむしろ極少数。「団結」も「連帯」も、そうした資本の攻撃から、あるいは過酷な労働から、自らの身を守りきれない人々を包む込み、共に歩んでいく「絆」の一つの形なのだと。
 そして、労組・労働運動のリーダーが、「集団の中で安住してしまう」陥穽を知っていればこそ、グループなり、“小組”として励まし合い、鍛え合い、心を通わせることに腐心してきたことは、私の知るところである。
 これは必ずしも佐高氏への反論ではない。当を得ている部分もあるからだ。
 つい先日私は、偶然ではあるが、ある人に以下のようなメールを送った。
 「・・・私が、これまで様々な党・派に加わらなかったのは、その人たちが、私よりはるかに高い能力を持っていたにもかかわらず、いうこと、やることが、組織の方針に包摂されたものしか出てこない現実を見たからです。
 現実問題を突きつけられた時、所属組織の路線を踏襲すれば、それなりの理屈は通りますが、『何をなすべきか』の創造性は削がれてしまいます。組織のチラシをまき、機関誌を売りさばき、集会に出ていれば、何かしている気分になります。それは『運動』かもしれませんが、『活動』とは言いきれません。“生気”があるかどうかなのだと思いました・・・。」
 しかし、今となっては、手がけた多くのことが成就、実現できなかったことを考えると、「団結」も「連帯」も、「3本の矢」以上に強固になるはずであったが、佐高氏の言うように「群れるから無力なのだ」と指摘されても胸を張って返す言葉が見つからない。しかし・・・私は「団結」という言葉の意味や、“トップダウン”のイメージからしてむしろ「連帯」という言葉を選ぶ。ここには、自立した個々のつながりと“横議横結”がイメージできるからだ。

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2009年10月 9日 (金)

老兵たちのフォーラム10月例会・3

 先輩-老兵たち歩いてきた道
 それぞれがテーマに沿って15分程度の「自分の歩んできた道」を語ってくれた。
 しかし、話を聞いている途中から、最初はメモをとっていたが、話に身が入らなくなっている自分に気がついた。ほとんど聞き流してしまった。文章にしてくれた人は、今になっても幾らか思い出すことができるが、私の設定した「自問自答」に沿って、話された方の内容はほとんど記憶されていなかった。
 やはり私生活部分に触れるには、こうしたオープンの場が果たしてふさわしいのか、というのが第1で、それも、自分の場合はいいとしても、人の話は“聞きづらい”のであった。この場にいる人殆んどが、自ら選んだ道・人生を肯定し、確信しているようなので、我が身を突き放して、もう一つの人生がなかったかどうか、という視点が弱いから、話が偏りがちになると感じたのだ。
 そうすると、私自身がどうだったかという問いが繰り返されて、「このテーマは、失敗だったかな」そんな風に思えてきて、みなさんの話に集中できなかったようなのだ。
 さて、教員であった人は、著書の中の一部から「私の詩教育」というのを引き出して、それは多分、自らの、ものの見方、感じ方を披露するためだったようだ。視点を変えて話されたのは、私的部分を避けられたのかもしれない。
 もう一人の方は、これまで、様々なところで書き綴られたものを集められて、冊子としてお配りになった。系統的で、網羅的で、着眼の良さを感じさせた。そこでの「75歳の人生語録」を読むと、これは内に秘めておいた方がいいような気がした。まあ“露出の是非”だからいい悪いということではない。公衆浴場で、前にタオルをかざすかかざさないかの違いか。(私の「3頭立ての馬車」がこれに類するかな・・・)
 その業界で成功されたという先輩は、文書にして語ってくれた。経営者的価値観、国家論などでは、どう見ても私の対極におられるので、話の途中でしばしば、聞き耳を塞ぎたくなる経験がこれまで幾度もあった。多分“お互い様”ではあろうが。メモには、設問に沿って書かれていた。そして最後に、自作の「追悼の辞」を披露されたが、この方の人生が凝縮されていたのはいうまでもない。ということで、企業人多々おられども、きっと特異な存在なのだと改めて知った。
 総評・中立労連・連合の労働組合を歩いてこられ、かなりの役職に就かれた方は二人おられる。労使という関係でいえば前者の方と対極にあると考えられるが、私から見たこの方たちの領域は「労使協調路線」という世界で、批判すべき対象である。しかし、このような場におられること自体が、私の規定する認識が当てはまらないのは言うまでもない。
 お二人は、当然ながら、同じような道を歩きながらその価値観、生き方、この先のことなどに関する認識は違っておられた。慎重に聞いたつもりであった。それは、私が労働組合の指導的な道を歩むことがあったなら、どんなになっていただろうという空想をかき立てるからでもあった。
 そして、片や現実の政治、社会の問題にかかわり続けようとする姿勢が伺われ、片やそのような領域を超えたお歳となられ、既に30冊になる著作に引き続く、構想豊な執筆に意欲を燃やす姿勢双方に魅力を感じた。
 このフォーラムが、研究や評論、思いつきの感想だけの世界でなく、一度は現場に足を置いた、そして今なお、政治、社会、歴史、文化、労働などに関心を払いつつ、持論を組み立てる姿勢が貫かれるなら、そして、相互に刺激し合え、より広い世界を求め合うなら、それぞれ健康の許す限り続いていくのではないだろうか。 了。

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2009年10月 7日 (水)

老兵たちのフォーラム10月例会・2

 私の歩いてきた道-過去・現在・未来
 逡巡しながら書き始めたが、自分ながら歯切れが悪いといわざるを得ない。
1)私は、これまでを幸せな人生といえるだろうか-やり残したことはないか。
 私の、聞かれて「幸せだったと思わないこともない」という言い回しは、「幸福感」に厚みなり、印象度が薄いせいかもしれない。またそれが「苦労」「辛酸」の裏表、対極にあるとしたら、私の人生そのものが「それほどのものでもない」から、やはり「幸せな人生」と断言するに至らない。しかし、この歳まで生きたことと、「自分史」を書くことができたことは、「何かを語り得る人生」とも言え、それはそれで、幸せなことと心得ている。
 また、やり残したこと、やり損ねたことはある。しかし、それは、家庭の事情もさることながら、「やりたいこと」の曖昧さによるところが大きいことも確かだ。目標の見定めが不十分だったと思っている。
2)「運命」をどんな時に感じたか-「運命」を変えるチャンスはあったか
 「運命」の定義そのものが難しい。職場で労組活動を始めた時、最初は「職制派」に誘われた。一方、共産党・民青には警戒心があった。その後の青婦協活動(青年婦人部)では「労組執行部=御用組合」を実感して、結果的に反執行部派に合流していった。この選択は「運命」であったであろうか。「職制派」に組みすれば、青婦協役員⇒労組執行部⇒組合専従役員という道があったかもしれないが、いずれにしろ“批判精神というか正義感もどき”が台頭して、“悪(体制従順派)”に染まり切れなかったに違いないと思う。
 それはそれとしてどうも私には、「人の上には立てないという“運命(技量の限界)”」があるように思っている。
3)主たる私の仕事は、適性であったか-夢破れるも、その精神に価値あり
 生活・職業面からいえば、私の主たる仕事は、自動車会社の現場作業で、「技能五輪」参加の予備軍にもなったが、その「運命」に従えば、そのまま現場の監督職というコースにのって、最後は、末端の管理職で定年の60歳を迎えたかもしれない。しかし、そこに人生の展望、希望を見出せず、「夜間高校」へ進んだ。
 卒業後の組合活動では、「反執行部派」の道を選ぶことで「専従の道」はなくなり、これで社内(職場)での道は、極めて限定されたものになったといえた。私は企業内の活動から地域へ、そして全国へ「活動の拠点、目線」が移していった。
 労働運動を片方の車輪にして、もう一つの車輪で、もの書きになりたいという青年期の気持ちは、結局持続しなかった。また、才気も能力も(才能)凡庸であれば、そして「努力」それ自体が能力であるなら、凡庸の領域を意識化すべきだったかもしれない。しかし、一方で、「夢」という捨て難い魔力に抗し難いのは、凡庸との格闘でもあるから、“夢破れるも負けにあらず”といえなくもない。そのチャレンジを評価してくれる人が「伴侶」であり、「友人」と言えるのではないか。現実はどうであれ。
4)座右の銘を探る
 わが家には、家訓と言えるようなものにはなかった。親父や兄から、それらしき言葉を聞いた記憶はない。両親の遺品もほとんど残っていないし、何かの書付(かきつけ)すら手元になく、どんな文字を書いていたのかも想像すらできない。だから、ひょっとして親父は、寡黙のまま「子孫に美田を残さず(西郷南州)」を、言いたかったのかもしれない。
また夜間高校の卒業アルバムの寄せ書きには、なんと「A poor poet」と書いていた。当時の心境を凝縮していたに違いないが、脆弱この上ない。
 1960年代後半、「兄弟牆に鬩げども外その務りを禦ぐ(けいていかきにせめげどもそとそのあなどりをふせぐ)」という言葉を知って、実感していたことがあった。
 1970前後、運動に本格的にかかわり始めると、「連帯を求めて孤立を恐れず(東大全共闘?)」は、一つの合言葉・連帯感にもなっていた。「砦の上にわれらが世界(ワルシャワ労働歌)」は、私たち労働者の心情を捉えていたように思った。また、総評労働運動を批判的に捉え返す言葉として「横議横結(おうぎおうけつ)」というのもあった。これは毛沢東の言葉かもしれないが、正確な出処は知らない。
 さて現時点で私は、「緩急自在、広く浅く井戸一つ掘る」をそれとしているが、その前は「生涯一活動家」を正面に据えていた。気持ち的には、両者は現在も私の中に宿っているが、「活動家」の定義の解釈が変化しているのは否めない。
 現役活動家である以上「緩急自在」は必須心得と思っている。また、労働運動が限りなく市民社会、生活領域に重なり始めている現在、仕事、活動、家事、地域、趣味など、守備範囲を広く持つ必要性を感じてきた。それは、「人生の複線化」から「複々線化」さらには「無軌道化」へと向きつつある。だが、やはりライフワークの一つも持ちたいもので、それは「井戸を掘る」がごとく、地球の核に垂直に向かうような、実直且つ「一意専心」なものでありたいと思っている。
5)過去・現在・未来
 ここらあたりまで来ると、自分の過去そのものの自己評価をして、現実的立ち位置、力量を推し量り、ある程度未来を想定できるような気がする。それは何がしたいかという「選抜法」と、これ以上力を注ぐに及ばずという「消去法」が混在するが、「井戸一つ掘る」の観点からは、何かを選抜して、時間的な集中的投資をすべき最後のチャンスであろうと思っています。
 一方「広く浅く」向き合ってきた姿勢から「消去」には勇気がいる。市民運動は、課題を限定的にして末席へ。労働運動も「トヨタと向き合う」以外は、限定的でしかも部分参加。政治・社会に関しては、もっぱら執筆と聴講の領域で。全国、海外情報はインターネットで。紙の情報は可能なものから辞退しようと思っている。
 愛知万博関連の資料がかなりあるが捨てたい。写真も「一事三枚」を基準に捨てたい。入社から退職までの「賃金明細」の処分には逡巡していて、蔵書は、個人譲渡、図書館寄贈に努力し、売却、廃棄は少し先にしておきたい。
 まだまだ早いと思いながら、ワープロで遺書の下書きは数年前に書いたが、今となっては、内容的にもほぼ無効のようなものだから書き直したい。今度は自筆でなきゃいかんだろうな。それより延命治療不要といったような「意思表示書(同意書)」を先に書き上げたい。これは期限を切って向き合わないと完成しないであろう。
6)最後に
 とまあ、あげればテーマに切りがないが、一通り網羅してみた。でも、巡り巡ってやはり、家族のこともあるが、わが道の仕上げが「拙文の終章」を残しては、それこそ「遺憾(のこり惜しい)」に思うので、当面は、「自分史」の加筆か「第二詩集」を手掛けたい。地域の運動関連の執筆は、バックボーンが定まらず、途中で進退きわまることになる可能性が高いので、手が出ない。
 家族のことは二の次で、こんな風に“最後まで自分流のわがままばかり”といわれ、苦笑しようとも、まっとうしたい、これが現在の心境。 
(続く)

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2009年10月 6日 (火)

老兵たちのフォーラム10月例会

 各人の歩いてきた道と遺言<人生総まくり>
 明日の例会に向けてレポートの仕上げにかかったが、どこまで書き込むか逡巡することが多く、仕上げは明日の午前中までずれ込みそうだ。
 私が、このテーマを思いついて提案した背景には二つあったが、その一つが、この「老兵たちのフォーラム」に参加されている諸先輩の姿を拝見してきたことにあった。60歳代後半から80歳代前半、後半に位置されるみなさんを拝見しながら、“その歳になった時の私”を想像することは、「今、その気になれば、やりたいことの一つ二つは、まだできるかもしれない」という、なにがしかのヒントを与えてくれたような気がした。これが第一の動機であった。
 次に私の場合、部分的ではあるが「自分史」を書くことによって、それまでの人生の一部を書き記した経緯があった。同時にそれは、これからの数年先を自分ながらに改めて展望したいという欲求が少なからずあった。特に、最近の体力の状態を考えた時、それを強く意識するようになっていた。これが第二の動機であった。
 人生は人それぞれで、何にしても、同じように語られることはないし、話の端緒、切り口も一様ではないと思う。だから、例えば戦争体験のある人は、それが基点となり、その周辺に重きが置かれ、なおかつそれを引きずるようにしてそれ以後が、語られることが多いのではないか。
 私にもそれなりの節目があったようには思うが、戦争や震災、火事、事故、家族との離散などの遭遇はなかった。そんな中での家族・家庭、職業・仕事、社会・運動(3頭立ての馬車)が縦軸でもあり、横軸でもあるような気がした。そして、それらが織りなす生活に、情、義、絆、共感と共に、喜怒哀楽が交錯してきたようにも思う。また。社会的価値観・歴史観、文化・労働の経験が、私自身の思想形成の基軸を作ってきたような気もする。
 そうした諸々のことが絡み合った糸くずの玉から、一本の糸を取り出して、あれこれ自問自答することによって、私の歩いてきた道が、部分的であれ、浮上してくるであろうと思った。
 ただ、それがどうした?という冷ややかな目を感じないわけではない。あるいは、いまさら、人の人生の歩みを聞いたからと言って、どうなるものでもない年齢域にいる人にとって、遠慮したいというお方もおられるかもしれない。参加者のコメントに期待と不安を感じている。
 とりあえず、糸数本を引っ張り出してみた。
1)私は、これまでを幸せな人生といえるだろうか-やり残したことはないか。
2)「運命」をどんな時に感じたか-「運命」を変えるチャンスはあったか
3)主たる私の仕事は、適性であったか-夢破れるも、その精神に価値あり
4)座右の銘を探る
5)過去・現在・未来
6)最後に
 という項目を立てて、ざっとスケッチしてみたが、どうも落ち着かない。 
(続く)

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2009年10月 1日 (木)

笑いと運動と健康づくり

 女性の参加がゼロでした
 昨日の午後、私にはまったく縁がない団体、「連合愛知シルバー倶楽部」主催の、高齢者福祉に関する学習会ということで、塙(はなわ)敏氏(中京女子大教授・東京在住)の「笑いと運動と健康づくり」と題する1時間30分の講演と一部実演があった。
 この機会を得たのは、民主党の前県議、「老兵たちのフォーラム」の会員でもあるKさんの紹介によるもので、最初は、テーマからして行くかどうか随分迷っていたが、夜の集会が入っていたので、出かけついでというところがあったのである。
 会場は、連合愛知が入居する「れあろ」という建物。金山駅から5分といったところか。満席の80~100人の参加者であったが、主催者側も入れて女性の参加がゼロというのも、珍しい集会であった。
 話の内容を簡略していえば、「健康づくりの概念を変え、笑うことにより免疫力がつく」ということで、従来の「強化トレーニング」のように筋力をつけること即ち体力増強、という既成概念、健康法は危険があっても効果は薄い、というもので、まだ科学的に証明されているとは言えないが、笑うことによる免疫力の向上は実証的に明らかになっているという。
 それにもう一つ付け加えられたのが、「笑い」とは直接関係ないと思われる「腸内環境の改善」で、乳酸菌、ビヒィズス菌で免疫力の向上を図るというもの。つまるところ「免疫力」こそが健康の源というわけである。
 「笑う門には福来る」という古諺もあるから、それが単なる人間関係だけでなく「免疫力を高める」ところが目新しいといえば目新しいのであるが、漫才か落語、お笑いバラエティーを「ヤクルト」を飲みながらテレビを見ていればいいというものでもない。
 実演コーナーの「最初はグー、ジャンケンポン」も効果がありそうだが、やはり屋外に出ての「スロージョギング」や、寄席や劇場での鑑賞であれば、なお良し、というところもあるのではないだろうか。また、野菜などバランスのとれた食事の中に乳酸菌飲料をとるということでもあろう。
 実践してみてわかることだが「健康法」の持続は難しい。そう考えると、怠惰な私などは、「健康法」を取り入れた場合と取り入れない場合の寿命の長さの違いはどれほどか。「健康法」を実践すれば、少なくとも80歳まで生きられるが、怠れば70歳まで、といわれたら、私は後者をとる、と口では言えるが、70歳に近づいた時、右往左往するのは目に見えている。
 ではどうするか。「まあ、時々採り入れては気分転換をするが、それを日常的にやる気はしない」といったところか。サプリメントとして野菜ジュース、黒酢、青汁は忌避しないが、続けて購入するところで、途切れることの可能性が大である。

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2009年9月26日 (土)

伊勢湾台風から50年

超巨大台風の備えはなし
 伊勢湾台風から、今日が50年目になるという。あれから半世紀が過ぎたわけだ。中学生であった私は、当時のことを「自分史」に以下のように書き記しているが、直接被害を受けなかったこともあり、あっさりしたものである。
 「1959年9月26日の夜半、台風15号(伊勢湾台風)が猛威をふるった。その被害は歴史に残るほど甚大であったが、当時の鳴海町の被害はどれほどであったろうか。
 わが家は名鉄鳴海駅に近かったが、私は風が強まるにつれ、架線が触れ合って火花を飛ばしているのを、美しいものに見惚れるようにいつまでも見ていた。幸い、わが家は浸水も、瓦一枚も飛ばされることなく被害はゼロだった。
 鳴海中学校は、高台にあったこともありかなりの被害を受けた。中でも、この年の夏前に完成し、わがバスケットボール部が優勝した体育館は、銅版の屋根が吹き飛び、明かり取りのガラス窓が敗れて雨が吹き込み、水を吸い込んだコートの一部が競りあがったりして、散々であった。
 一年生のときに同級だったTの家が倒壊したと聞いて、Nと一緒に神の倉まで手伝いに出かけたこともあった。暫くして、南区の被害地域から、仮の転入生が来たりした・・・」
 その後の50年間も、私的には豪雨による浸水被害を受けることもなく、無事で来られたのは幸いであった。仮にも経済的負担を蒙るような被害に遭っていたなら、その後の活動に少なからず影響を受けたかもしれない。
 とはいえ、この先のことはわからない。火事にはよほど用心して失火だけは出したくないが、隣家からの延焼ではどうなるかわからない。また洪水、高波、がけ崩れの心配はないと思っているが、地震、落雷、台風の風被害、突風(竜巻)などにはほとんど無防備で、何とか備えをしたいと思いつつ日が過ぎていく。
 災害の備えは、我が家だけではない。何らかの活動で家をあけて、会議、集会などでビルの中にいるとか、旅行先である場合も確率としては低くない。上京中に大地震にあったら、それも、ビルの中とか地下鉄に乗っている時とか、そんなことを考えるとぞっとするが、「交通事故や犯罪に巻き込まれる可能性の方が高いよ」といわれてみれば、そうかなとは思う。
 どっちにしても、アメリカのハリケーンのような超巨大台風にでもこられたならお手上げである。「天災は、忘れ去らないうちにやってきそうだ」というのが、地球温暖化、気候変動の昨今の事情ではないだろうか。

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