2009年9月25日 (金)

印刷、配達でチリリーン

 久しぶりに自転車に乗る
 自転車それ自体はちょこちょこ乗るのであるが、1時間続けて乗るのは久しぶり。今年のピースサイクルでも乗る機会がなかったので、3か月くらい、間を置いたことになる。
 「雑談の櫂」第13号が仕上がったので印刷へ。16頁であるがわずか50部だからセット作業を入れても1時間ちょっと。
 旧東海道・鳴海宿の一角、曲(かね)の手近くの生涯学習センターで印刷を終え、そこから街道筋を西に向かう。鳴海城の南(根古屋)を抜け、如意寺前から、「郷蔵(ごうぐら)」に出る道筋の作町、東福院のある三皿、そして花井の入り口にあたるところで1軒配達。
 そこから東方向・矢切に出て1軒。名鉄自動車学校(旧鳴海球場)の南側を抜けて文木で1軒。そこから南に下って、旧東海道・鳴海宿東の入口・常夜灯のある平部に出て、旧道からやや南に入った手越川沿いの「二位殿」の横を抜け、名鉄左京山駅の前の道筋にあるマンションで一軒配達。再び手越側に出て、川沿いに有松方面へ。
 鎌研橋手前から有松天満社方面に入る。名古屋環状2号線(302号線)の工事は、このあたりでは既に完成しているが、その下をくぐりぬけ、天満社横の急坂を登り切ると、天満社の社殿横に出るが、そこは都市計画道路の予定地でもある。10月4日の祭礼のポスターと通行止めの予告看板が、まるで風の通り道で暑さをしのごうとするかのように立っていた。
 ツクツクボウシが鳴いている。かなり距離感があるように思えたが、こちらが動くと鳴きやんでしまう。敏感なんだ。クロアゲハと思われる蝶が飛び、オニヤンマがゆっくり横切って行った。
 このあたりで1軒の配達を済ませたところで午後2時少し前。空腹を覚えて、そこから一気に緑高校下の「讃岐製麺」の看板のうどん屋に飛び込む。この店は、現在全国展開しているチェーン店らしいが、初めての入店。きつねうどんにイカ天をトッピング。う~ん、釜揚げにした方がうまいかも。
 近くのワークマンでシルクの5本指靴下を買って帰宅。かれこれ1時間ほど走ったことになるが、この間の体重増もあってたっぷり汗をかいた。

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2009年3月 7日 (土)

早春の扇川を行く

 久しぶりのチリリン記
 緑生涯学習センターで印刷を済ませたのが、午後1時30分ころ。風がやや強かったが、谷間のような快晴の空が広がっていたので、扇川堤に自転車を走らせてみることにした。
 旧東海道沿いにある瑞泉寺の前にあるのが、扇川にかかる中島橋。その下流50メートルほどのところにあるのが「中島砦跡」だ。上流に向かって左岸の堤防道路を走る。澄んだ水がせせらぎのように流れているが、それは川底の砂利のせいで、やや深みの場所では濁っているから、見た目ほど澄んだ水ではないのであろう。月末になれば、ボラが群れをなして遡上するであろうが、今は魚影一つ見えない。だから川鵜もサギもまだ冬ごもりしているのであろうか。
 堤防下にある六田の鳴海中学校の校庭では、野球部が練習中で大きな声が飛び交い、隣接する公園では、小学生中心の少年野球のクラブチームがまた大きな声を出し合いながら練習していた。この子らには「花粉症」は無縁らしい。マスクが手放せない私とは大違い。あんな時代が私にもあったのだが。
 さらに走って、鳥澄人道橋から上流の風景が、私の推す桜のスポット。大したことはない。満開の桜の時期でも、ある角度から見る僅かな視界だけが取り柄で、従って、誰もそこが見どころなんて気がつかないであろうから、「私だけのスポット」といえるかもしれない。
 その場所からは振り返ってはいけない。上流だけを見るに限る。振り返れば、名古屋環状2号線(国道302号線)の橋桁の工事中で、5月末には、数十メートルの橋桁がそろりそろりと押しだされ、渡されるのだという。つまり、この橋桁によって下流の風景はばっさりとふさがれてしまうからである。
 道路沿いに、近隣の人がときどき手を加えているのであろう、花壇があって、この時期菜の花が見ごろで黄色が鮮やかである。周りがまだ冬枯れの中にあるから、いっそう際立つ。花の名前はほとんど知らないが、この時期、パンジーや三色すみれであろう花が、丁寧に手植えされているのも目についた。
 久しぶりとあって、ギアーが一段重い感じがした。緑消防署前の起伏のある道を自転車を引きながら、春を背にして帰った。

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2007年12月12日 (水)

チリリン記・師走

 時給480円か?
 暫らく乗っていなかった自転車と自分に空気を入れて、配達に出発。いつもの楽々ギヤ比でもやけに重たく感じた。足腰は鍛え続けないと直ぐに弛緩してしまうようだ。
 さて根がせこいから、メール便だと1通80円が3通、160円が3通で、720円の儲けというか節約。時給480円・・・そして、プラスウェートコントロールができるという計算をして走る。
 比較的広い歩道ですれ違った自転車の女子高生が、目配りする程度でも会釈するから、こちらも軽く左手を上げる。狭い歩道にさしかかり、自転車同士がすれ違うにはギリギリといった感じ。前から、片手運転で携帯電話をしながら男性が来るので、ガードレールの切れ目のところで待機する。その若者、目線もくれずに通り過ぎる。次には、30代、50代とおぼしき女性の二人組の自転車。再び待機する。こちらも涼しい顔で通り過ぎていった。
 狭いところでのすれ違いに自信がないから、こちらが待機するのは構わない。会釈されなくても腹が立つわけではない。ただ観察するのみである。
 嫁ヶ茶屋という山手から一気下って扇川に出て、しばらく緑道を走って、名古屋環状2号線近くから再び山手に入り、腰を上げてペダルを踏み込む。尾崎山で2軒、山越えの太子で2軒、この先の1号線を越えれば桶狭間の古戦場は近い。
 帰路の細根で1軒を配り終えたところでぽつぽつと雨が顔にかかってきた、少し急がねば。この頃には汗で下着はかなり湿っぽくなっているので、下り坂は寒さを感じるが、
わが家まではアップダウンを繰り返すので、程よく汗をかくことができる。
 きっかり1時間30分。「緑ネット」が終刊となったので、このような機会は今後もっと少なくなる。温かいときなら、名古屋栄あたりの集会には、自転車で行こうと思いつつ、その段になるとなぜかバスに飛び乗ってしまう。まだ身についていないということか、はたまた歳のなせる業か。

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2007年7月15日 (日)

チリリ~ン・その10

緑区の現風景・天白川(2)
 清流
 緑区の現風景を“川”を辿りながら“チリリ~ン”と紹介してきたが、これをもって最終回である。今回は、藤川合流点から下流の大慶橋までと、扇川・大高川との合流点から河口までがチリリ~ンの範囲である。河口からペダルを踏み込んで遡上する。
 国道247号線の天白川にかかる「千鳥橋」が、緑区と南区、東海市と接する境界あたりになる。右岸の南区側が「元柴田」で、左岸の東海市側は「南柴田町」だが、中流域の私たちからは、その区別はなく、辺り一帯を総称して「柴田」と呼んでいた。
 その天白川河口は、埋め立てに次ぐ埋め立てで、かつて、といっても半世紀前のことであるが、先輩の自転車に乗せてもらって、ハゼ釣り来た海岸線は今はなく、地図上で見る道路の曲線が、その痕跡ではないかと思われる。堤防沿いに幾艘もの小船がつながれていた当時であったが、そのあたりに古い稲荷社が今もあって、そこがかつての賑わいの一角であったことを想起させた。
 “沖合”を思い浮かべて眺めれば、今は埋め立て地の「潮見町」という工場地帯となっていて、天白川は、その先にある“名港トリトン・名港東大橋”の下を通って、名港・伊勢湾に注いでいるのである。
  「(神宮前駅から順に)豊田本町、大江、大同町、柴田、名和、聚楽園、太田川」は、名鉄電車の常滑・河和線の各駅名のアナウンスで、私には何故か、こびりついていて忘れることができない。聚楽園と太田川の間には、埋め立て地に出来た東海製鉄の「東海製鉄前」駅が出来たが、今は「新日鉄前」と名を変えている。
 さて天白川を遡上しよう。まず最初に、名古屋臨海鉄道に差し掛かる。この鉄道はてっきり“廃線”になっていたと思っていたら、線路がピカピカに光っているではないか。どうやら一日に数本、貨物(コンテナ)列車が通るらしい。それにしても、堤防道路の踏み切りには、標識も遮断機もなかった。
 次に名鉄線の通る「新千鳥橋」があるが、ここの堤防道路は行き止まりで、堤防道路から降りてガードをくぐる。その辺りは民家が建て込んでいるが、1959年の伊勢湾台風では、南区側は多数の死者など甚大な被害を受けたが、ここらは浸水しなかったのであろうか。当時の水位を示す目印を探したが、見つからなかった。
 名古屋と知多を結ぶメイン道路が通る千鳥橋から上流の左岸流域は、かつては田んぼであったが、今は中小の工場地帯となっている。その一角には、人形劇団「むすび座」があって、5月末に覗いてみたら、7月の、みどり文芸ネット主催の音楽劇「元禄芭蕉絵巻」の立ち稽古の真最中であった。
 更に上流に進むと天白扇川橋に出る。国道23号線(名四国道)と、その上を名古屋都市高速道路大高線が走る橋である。その橋の上から、天白川と扇川の合流点が見え、さらに、大高川の合流点がちらりと見える。ふと川面に目をやると、ボラが高く跳ね上がり、波紋を作って水中に消えた。
 扇川と並行する大慶橋までは既述しているので飛ばして、県営鳴海住宅のある浦里に出て、そこから堤防道路に上がり、星の宮人道橋から下流方向を眺めると、大高の鷲津砦の緑が遠望された。しばらく上流まで走ってから引き返し、かねてから訪ねたいと思っていた、浦里公園の一角にある「雉本朗造博士像」前に駐輪して思い耽った。
 大正年間の鳴海小作争議のその中心人物-雉本朗造博士。緑区に他の個人的銅像ってあったかな? 銅像は、小作争議の農民の末裔が、1973年に石堀山からこの地に移設した。雉本像は、天白川流域のかつての田園地帯と生まれ故郷、星崎を見やっていた。
 中流域から下流にかけては、おせいじにも綺麗とはいえない天白川だが、いつの日か、その名にふさわしい清流となるのであろうか。 
 
(「緑区の現風景」完)
 
<「緑ネット・第77号」2007年7月7日から>


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2007年5月 7日 (月)

チリリ~ン・その9

 緑区の現風景・天白川(1)
 川らしさが残る天白川
 今回から「天白川」に入る。天白川は緑区内を流れるというより、他の行政区との境にあり、中流域の藤川合流点からの上流は、緑区から離れることになる。下流については次回。
 最初に名古屋市のホームページから、天白川の概要を記しておこう。
 「天白川は、日進市の三ヶ峰(さがみね)付近を源として、日進市内を流下した後、天白区平針二丁目で名古屋市と接し、天白区と瑞穂区・南区、南区と緑区の区境を流れながら、植田川・扇川等を合わせて名古屋港に注ぐ、延長二二、七キロ、流域面積一一八、八平方キロの二級河川です。天白川の名称は、水害から住民を守る星神“天白 ”を祭った土地に由来しています。」
 そこで今回は、まず藤川との合流点から上流に向って、植田川合流点までをチリリ~ンする。この区間の見ものは、“川らしさ ”と桜並木、河川敷にある天白川緑道である。
 まず天白川に藤川が合流する地点にあるのが名古屋市立若宮商業高校である。
 一九六八年開校とあるが、いい名前の学校だなあ、男子生徒のいない女子高みたいな高校、というのが当時の印象だった。実体は知らないが、現在は男子生徒はいるにはいるが、かなり少なめのようである。ホームページを見ても、写真に出てくる男子は稀。天白川の堤防から眺めてみると、テニスコートが6面あるのが目立つ。実力のほどはどうだろうか。
 上流へ進むと野並橋に出る。この橋の下は地下鉄・桜通線が走る。橋桁の間を掘削したのであろうか。その野並橋の近くに自動車学校がある。かつては三菱自動車の100%出資会社であり、当時の大江工場からの出向、労組役員が社長として天下りした所でもあった。
 天白川緑道と桜
 更にその上流にあるのが平子橋で、この辺りから上流の新島田橋間の河川敷が「天白川緑道」で、ウォーキングのための、全長千五百米、百米置きにプレートが埋め込まれた歩道がある。だがそれを目当てに歩いている人の姿は少ない。
 やや進むと、堤防下に県営野並住宅が見えてくる。四〇年くらいは経過しているだろうから、入居者も高齢化しているようだ。その野並住宅の前にあるのが人道橋の野中橋である。
 ここから上流方向の眺めがいい、パノラマに広がっている。人工の“せせらぎ ”を聞きながら遥か右前方を見れば、徐々に高さを上げてきているマンション、商業ビルに隠れつつある相生山緑地が辛うじて見える。正面は三河の山、左方向は東山動植物園のある丘陵地。視線を戻せば、赤い三角帽子をつけた鉄塔が見える。天白区役所にある放送塔のようだ。更に手前を眺めると赤いラインの入った新島田橋、そこから下流の河川敷が大きく広がって、コンクリート製のテーブルセットがあり、若者がなにやら口に運びながら、奇声をあげたりしている。
 しっかり護岸工事が施されているが、水辺の雑草が繁茂し、野鳥も数種類飛び交い、それほど汚れのない川砂を見ることができ、川らしさの残る天白川である。
 天白川の左岸には、桜が植樹されていて、まだ若木なのでそれほどの景観は見せていないが、もう十年もしたら賑わい見せよう。近くの南天白中の生徒もしっかり記憶にとどめるだろう。
 
<「緑ネット・第76号」2007年5月1日から>

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2007年4月24日 (火)

緑ネット第76号を発行

 チリリ~ンと配達も楽し!
  いつもの号より1週間ほど早いが、朝の11時半ころから始まった印刷・発送作業も、手伝いに駆けつけてくれた友人のお陰で、予定より早く封入作業を終えた。午後3時過ぎであった。今号の内容は以下の通りで、追ってその一部はこのブログでも紹介する。
・巻頭詩-異邦人
・コラム「結」<政治の一貫性・継続性>
・寄稿<ゴメンなすって⑤> イカロス
・統一地方選挙
・みどり文化芸術ネット・第53回事務局会報告
・トヨタ関連情報とピースサイクル
・私のチリリン記(10)緑区の現風景・天白川 (1)
・地域の運動から・3~4月
・私の小さな映画史21・「東宝映画・5」
・4コマ漫画・2「卓さんの川柳日記⑤ ⑥」
・インフォメーション・あとがき 
  となって、20ページである。
  今回はメール便を使うため明朝に持ち込む予定で、早速周辺地域の配達にチリリ~ンと愛車をけって出かけた。
  夕闇の中を走る
  自宅近くの信号から南方向の下り坂を一気に下って、ラーメン屋の前を抜けて、老舗の和菓子屋の近くが配達の1軒目。脇道に入って1軒、自動車学校(昔の鳴海球場)の横を通って、証券会社の隣の家のポストへ。
  次に西方向になる緩やかな下り坂で、自動車の往来が激しい道路の歩道を走って、旧東海道筋に出たところで一軒。その旧東海道を100メートルあまり笠寺方面へ、背後の自動車に注意を払いながら走り抜けて、丹下城址近くから成海神社横の、3つの山車小屋が並ぶのを右に見ながら、こんどは北方向の上り坂に入っていく。
  細い勾配のある路地を、自転車を曳いて上りきりそこで一軒。その先の墓地の横はマンションが建設中であるが、ここはつい最近まで東海郵政研修所のあった跡地である。そこから住宅地に入って行き1軒。ここら辺りは薬師山地区といって、かなり昔から大きな家が並ぶ住宅地。小学校3年生までの、私の担任の先生もこのあたりに住んでいた。
  やや戻るようにしてスーパーマーケット“アピタ”の南側を通って東方向に進む。右手方向が“新海池”で、わが家から見れば北方向に位置していて戻ってきた感じであるが、そのまま東進して“鳴子南”を抜ける。またまた住宅地に入ってやや細い道のところで1軒。そこから南下して、先の選挙で再選された県議宅のポストへ。
  ここまでで予定の半分、30分くらいであろうか。起伏もあってかなり汗ばんできていた。
  気を取り直して、そこから再び南下して、緑郵便局の横を抜けて1軒。扇川をわたって名鉄左京山駅近くのマンションで1軒。反転して旧東海道を東へ進み、自転車を降りて急坂を北方向へ進みここで1軒。こんどは下り坂を一気に下って再び扇川べりに出て、マンションのポストへ。
  ここから先は、扇川に沿って東方向に走る気持ちのいいコースなのだが、今日は、既に日が暮れていて灯火なしでは走れない。それに桜は散ってしまっているから、街灯に照らし出された木々も葉桜であった。
  10分あまり走って、ようやく次の家にたどり着いた時は7時近くになっていた。家の明かりが見えたので庭先に回って声をかけたところ、丁度夕食を終えたご夫婦が出迎えてくれて、しばし歓談。女性は中学の同級生で、ダンナとも懇意にしていて、上がって一杯飲んでいってくれというのを丁重にお断りして、掘り出したてで、茹でたての筍をお土産に頂戴して反転。
  最後は帰路の途中の、ここも先の選挙で再選を果たした市議の家のポストに入れて、本日の予定は終了。緑区の東の端の方まで来たので帰りはちょっと距離があるし、上り坂が続くこともあってつらいが、1時間も走っていると体がなれるせいか、もうちょっと走れそうだという気になる。
  帰ったらシャワーで、そのあとにビールでも飲みたいところだが、それではせっかくの“トレーニング”が無になるので、今日はハヤシライスだけにしておこう。

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2007年3月 4日 (日)

チリリーン・その8

    緑区の現風景・瀬木川
   大高南部発展の境界、瀬木川 
 前回では、大高川がJR線に沿って開削された直線となり、やがて水源地の主水ヶ池(かこがいけ)に至るとしたが、その中流域に大高川と瀬木川の合流点があり、「大坪橋」が瀬木川(せきがわ)探索の出発点である。
 川幅四メートルほどのこの瀬木川“流域 ”は、歴史的遺物に乏しいし、紹介するものも、むしろこれからは発展するであろう大高南部地区の“はしり”のようにも感じられる。古き町と開発地の境界に瀬木川はある。
   メキシコ五輪の加藤武司
 まず左岸(上流に向う時は右側になる)に沿って、「名古屋市交通局の自動車工場」があって、市バスの発着点にもなっている。その西隣に大高中学校がある。この大高中は、もともと現在の大高北小学校にあって、人口増に伴いここに移転してきたが、メキシコ五輪・男子体操団体優勝のメンバーの一人、加藤武司(大高中→中京商業→早大→ソニー)を送り出したことは遠い昔の話で、知る人も少なくなった。
 行けども、行けども、両岸コンクリートで川沿いに植樹もない殺風景な川筋であるが、並行して県道23号・東浦名古屋線が走る。この道路と、JR大高南新駅西、大府方面に向う新しい都市計画道路が交差する近くにあるのが「洞之腰橋」である。この道路は将来、大高駅方向へ延びる予定であるが、洞之腰橋の先70メートルでストップしたままである。
 そこから上流の左岸に梅林があるが、休耕農地の低木で観梅するほどでもないが、その隣地にあるのが、社会福祉法人・養護施設「中央有鄰学院」である。背後に雑木林が迫るように控え、細長く増築を重ねたようなたたずまいは、運営の苦労は伺えても、見た目の明るさは伝わってこなかった。それでも狭い運動場からバスケットボールで遊ぶ、はしゃいだ声が聞こえてきた。
 このあたりの川筋では、昨秋来た時には、雌のマガモらしきものが三羽水をかいているのが見えたが、二月末の今回は白いサギが一羽飛び立っていった。こんなところでも小魚がいるのだろうか。
    源流域は畑か?
 やがて国道23号線のガードを潜り抜けしばらく行くと、川筋は2メートルほどに細くなって水量もわずかだが、あたり一帯は、ちょっとした田園地帯になった。懐かしいような稲田があり、小高い所は野菜畑であった。その先の「蛇池」、このあたりも一面畑で、秋ごろ見たときは、人参、里芋、大豆、ナスなどが収穫を待っていた。大高といえば大高菜(おおだかな)が有名で、「古く徳川時代より生産するものであって,茎の長さは2尺有余となり、その芳香は絶対に他の追従を許さぬものである。これを漬菜にすれば、一種特有の香りと、舌頭に残滓を留めないのが大高菜特有の味であって原産地は字紺屋町である。」(緑区のHP)とある。
 さて水源地であるが、県道23号沿いに緑区から大府市に入り、伊勢湾岸道路を暗渠で潜り抜けると2メートルにも満たない排水溝ような“川 ”となり、更にその“上流 ”は、ついにU字溝となって、畑の中に消えた。
 <「緑ネット・第75号」2007年3月1日から>

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2007年2月21日 (水)

今年初のチリリン記

  瀬木川流域を走る
 昨日の自転車転倒事故にも懲りず、天気がよかったので、次号「緑ネット」の“チリリン記”の現地調査に出掛けた。
 既に昨秋に二度ほど出掛けてはいたが、印象が薄れ執筆の素材に不足を感じていたので、確かめに行く必要がったのである。
  地図で再度下調べしたあと、3時過ぎになってようやく出発。家から一直線に南下して、高架になった名鉄線を越え、国道一号線を渡ると、そこから上り坂でその三分の一あたりに緑警察署と緑区役所があり、そこで自転車を降りた。
  そういえば、昨日の転倒で左膝を打ち赤くはなっていたが、それが少々痛む。だからどうしても右足の方に力が入る。約25分で瀬木川と大高川の合流点に着いた。そこから瀬木川の上流に向ってゆっくりと走り出した。
  今日の目的は、社会福祉法人・有隣学院の確認、大府方面への新都市計画道路、源流域の確認であった。
 前回未確認だった源流域は、緑区から大府市に入り、伊勢湾岸道路を暗渠で潜り抜けると2メートルにも満たない排水溝ような“川”となり、更にその“上流”は、ついにU字溝となって、畑の中に消えた。
  もう一度大高川との合流点に戻り、そこにかかる擬木でできた大坪橋の欄干のようなものをスケッチして帰路に着き、5時過ぎに帰着した。
 寒くはないが暑くもないので、1時間半ほど走っても殆んど汗をかかなかった。風が強めで杉花粉が気になったが、くしゃみを2度ほど連発した程度で、まだ大したことはないようだ。

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2006年11月 7日 (火)

チリリーン・その7

   緑区の現風景・大高川

   歴史のある、開発途上の大高町
 緑区大高町の中心市街地を南東から北西に流れるのが大高川で、この川も市街地にあっては例外ではなく、コンクリートで護岸された“排水路 ”化してしまっている。しかしこの町は、古い歴史を持ち、その名残りの場所も幾つかあり、郷土史家も多いようである。
 一方、JR大高駅前に都市計画道路ができ、それは西で名古屋第二環状線・市道五九号と結び、東は、名古屋南ジャンクション辺りまで延びて、JR大高新駅・大型ショッピングセンターの中心道路の一つになる予定である。周辺の住宅地開発も急ピッチで進められている。
    酒蔵があるほどに・・・
 扇川が天白川と合流する近くで、大高川は扇川に合流する。その辺りはいま、工場地帯といっていいが、地名からする「上塩田」で、江戸期あたりまでは干潟か塩田が広がっていたのであろう。
 その五〇〇米上流にかかる「大橋」を通るのが古道「常滑街道」で、北方向は、かつての大高町の繁華街「銀座通り」を抜け、JR大高駅横から鳴海方面に至る。一方南方面は、「大橋」の袂に旧大高町役場があって、今は江明(えみょう)公園となっている。さらに旧家が点在する「古道」を進むと「酒蔵・神ノ井酒造」がある。現在では「九平治・酒望子」などの銘柄が地酒として人気があり、また十月には、社主が亭主となって「観月会」などを主催している。
   桶狭間の合戦の前哨戦、丸根砦の戦い
 歴史的には、「ヤマトタケルとミヤズヒメー氷上姉子神社」という歴史を持つ一方、織田信長と今川義元があいまみえた「桶狭間・田楽狭間の合戦」の前哨戦となった、丸根砦の戦いがあった。詳細は、ここでは触れないので、その位置関係だけを地図に記した。大高川沿いに、兵糧を入れるため大高城に向った徳川家康の軍が、織田方の砦・丸根砦を攻め落としたというものである。
   森の里・瀬木川
 その丸根砦跡のある道路を北へ行けば緑区役所。南方向は新幹線、JR東海道線、大高川を隔てた西側が森の里地区で、市営の森の里荘があるところは、かつての「日紡大高工場」のあった場所。そのあたりで瀬木川が合流する。
 瀬木川については、次回に紹介する予定。
 瀬木川合流点あたりから川は、ほぼ直線となる。多分国鉄時代に高架化工事と共に湾曲していた川筋を平行に開削したものと思われる。
 やや川幅が狭いが、これだけの直線があれば湛水工事を施し、ボート競技の練習場にもなりそう。大高中学に新たな得意種目が・・・。
   主水ヶ池・白雲閣
 さていよいよ水源地「主水ヶ池(かこがいけ)」である。大高緑地の南垂れから蝮池があって、地名を追うと殿山、忠治山、坊主山を経て主水ヶ池に至る。さらに周辺は、大根山、助治根山、平根山が囲み、狭間の風光明媚な池であったから、そこに合掌造りの「白雲閣」という高級割烹があったのである。今は某会社の迎賓館兼厚生施設として使われており、しかも “道路銀座 ”で埋没しているが、大高新駅の開発で甦るかもしれない。

<「緑ネット・第73号」2006年11月1日から>

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2006年10月15日 (日)

チリリ~ン・その6

  緑区の現風景・藤 川(ふじかわ)

  延伸の、地下鉄桜通線に沿って
 緑と天白の区界に沿って、緑区桃山あたりを源流とする“藤川 ”は、河川域に、戸笠池、螺貝(ほらがい)池、鳴子池という三つの池を持つ全長三〇〇〇メートル余りの「準用河川」である。
 藤川は、二〇一〇年の開通をめざす地下鉄・桜通線(六号線)の延伸、野並-徳重間のうち、ほら貝東辺りまでほぼ平行して流れているから、その流域は、ほぼ住宅地の真ん中を貫く。それゆえ、川というにはややそっけない、両岸、河床はコンクリートである。川らしさを見せるのは、天白川との合流地点くらいである。
 では下流から上流に向ってチリリンと走ってみよう。
まず天白川との合流点近く左岸にあるのがサンヴィラ野並という、緑区では高層マンションのはしりともいえる建物が目を引く。その対岸には天白区であるが名古屋市立若宮商業高校がある。
 現地下鉄の終点・野並駅近くに「郷下川」という細い川があるが、この郷下川、藤川、天白川で囲まれた低地地区は、二〇〇〇年九月十一日の東海豪雨で軒近くまで水に浸かるという被害にあった。その「野並水害訴訟」は今年の一月、地裁で原告請求棄却の判決があった。
 藤川橋を超えると住宅地のど真ん中を藤川は流れる、にも拘らず前方に高圧送電線が見えてくる。いずれ、地下鉄延伸工事と共に、「共同溝」に収まるのであろうが、やはりこのあたりは名古屋の東端なのだ。
 名古屋市交通局・野並車庫の南側にあるのが鳴子池だが、全く風情がない。遊水池の役目くらいであろうか。もっとも、北方を見れば、青々とした相生山緑地が広がっているから、その昔は、緑の影を写し、野鳥も群れていたのであろう。その頃は藤川池と呼ばれていたという。
 逆に、その先の螺貝池は、今は藤川と直接繋がってはいないが、池の周辺は桜の名所になりつつあるほど樹木が生い茂り、私がチリリンと訪ねた時には、カメラを構えたバードウオッチャーが三人ほどいたくらいだ。子どもたちや親子連れも多く見かけた。
 この辺りに来てあれっと思った。「川」が直角に折れて北向きとなり、
 さらにダイエー相生山店辺りでまた直角に折れて東に向う。つまり一帯は、宅地開発の折り、蛇行していたこの藤川の流れを、基盤整備のため、都合よく開削して変えたに違いない。すると、鳴子池も螺貝池も原型はもっと広かったが埋め立てられた可能性がありそうだ。
  その昔、藤川は自然豊かな・・・
 藤川の水源地、戸笠池は、戸部村と笠寺村両村の水利からつけられた名前と、郷土誌に書かれている。池は、野球場、テニスコートのある戸笠公園に隣接しているが、本格的ないでたちの釣り人が糸を垂れているくらいだから水深もあり、魚類も多いのであろうか。
 その池の一角に、こじんまりとしているが湿地があって、遊歩道もついている。花の名前がとんとわからないので書きようもないのだが、こんなところがあるなんてちょっとした発見であった。それにしても、いにしえ、藤川流域は豊かな自然の中にあった、名前にふさわしい川だったのだ。
<「緑ネット・第71号」2006年7月1日から>

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2006年9月29日 (金)

チリリ~ン・その5

 緑区の現風景・手越川・2 

 10月1日に「有松・天満社の祭礼」があるので、「手越川・2」を掲載する。

 急速に発展する有松

 有松(ありまつ)―名鉄有松駅周辺は、大型ショッピングセンターを中心に再開発事業が進み、旧東海道筋の町並みと地場産業“絞り ”と共に、観光地として発展しようとしている。駅前ロータリーの中心にモニュメント“藍流(あいる)”が建ち、周辺の都市計画道路には、ケヤキやなんじゃもんじゃの街路樹が枝を広げようとしている。

 有松地区の北の玄関が、この名鉄有松駅であるが、地名は、「緑区鳴海町字有松裏」であって、鎌研橋以東の旧東海道筋は、「緑区有松町有松」である。それ自体大した意味は持たないが、南の地域ともいえる「有松町桶狭間」地区が歴史のある地として、又住宅地としても急速に発展していて、有松にとっては、相互の均衡発展も課題であろう。

 町づくりと水辺―藍染川の創生?

 手越川は、鎌研橋から有松天満社あたりを経て有松駅前にいたる。そこでいったん暗渠に入って、再び民家の間を縫うように顔を出す。いずれにしても二メートルほどの川幅というか、排水路如きである。

 そこで私は、現地を見ながら、ふと想像してみた。この有松駅周辺は、都市計画道路「有松線」「東丘線」がほぼ完成。更に一部完成している「大将ヶ根線」と、国道302号線と結ぶ「敷田大久伝線」が整備中である。いずれも再開発事業に伴う必要道路とのことであろうが、この道路予算を見直して、その中から、「手越川創生事業」というのは構想できなかっただろうか、ということである。つまり、“藍染川 ”の復活というか整備・創生である。この着想が実現していれば・・・。

 まず、鎌研橋のやや下流あたりから、手越川を川幅六メートルに掘削し、両岸に三メートルの歩道をつけ、松か柳か桜の植樹を施す。水量確保のために愛知用水から導水して川のせせらぎと、小魚を棲まわせるために、周辺からの生活排水を浄化か排除。木炭を敷き詰め、砂利を入れた人工河床をつくる。イベントに湛(潭)水(たんすい)が必要なら、鎌研橋下流に水門を設置する、というのはどうであろうか。

 実現性には?がつくが、高速道路を撤去して河川を復活させたソウルの例や、日本橋の景観復活に高速道路の付け替えが話題に挙がっている東京の例もあれば、可能性云々の前に「夢」を描くことがあったならと思うのである。水辺があれば、町の景観は随分潤うであろう。

 尚、“藍染川 ”は、愛称であって、扇川流域でも、そのように呼ばれていた時があった。「鳴海音頭」の歌詞にも出てくる。

 さて、有松駅周辺からの手越川上流は、幅一メートルほどの排水路となってしまうが、「松野根橋」のある旧東海道や、旧家の間を縫ってやがて国道一号線下を通って桶狭間北部地区に入る。しかし、この辺りから先は、ひょっとして源流域ではないかも知れない。住宅地・マンションが建ち並ぶから人工の水路かも。最後は、下水道が整備されているせいか、細々とU字溝に雨水が流れている程度になる。(「緑ネット・第70号」2006年5月18日から)         

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2006年9月28日 (木)

瀬木川から天白川河口へ

 チリリン記余話2
 去る21日の大高川の現地取材で、「瀬木川」という支流があることを発見し、そのとき、一応源流域まで遡上してみたが、さしたる風景にも出会わなかったので、写真一枚も撮らずに帰ってきた。しかし、何となく気になっていて、また出かけてみようと思っていた矢先、ある人から1枚の写真がメールで送られてきたのに触発されて、天気も良かったので、思い切って自転車で出かけることにした。
 午後3時きっかりに出発、およそ2時間、薄暮のうちに帰る予定をした。そこでまず大高川と瀬木川の合流点である「大坪橋」から写真撮影を開始、「大高中学校」、養護施設「中央有鄰学院」を右手に見ながら上流へ進む。雌のマガモらしきものが3羽水をかいているのが見えた。
 やがて国道23号線のガードを潜り抜けしばらく行くと、川筋は2メートルほどに細くなって水量もわずかだが、あたり一帯は、ちょっとした田園地帯になった。懐かしいような稲田があり、小高い所の畑には、野菜が青々としている。実はまだ青いが柿木も数本。
源流域も近いように思われた。とりあえず水源地かなと思った「蛇池」は、行ってみると道が閉ざされていて近づけなかった。しかし、やや窪地にある感じで、瀬木川の上流域より標高が低いようなので、水源地ではないと判断した。
 このあたりの一面も畑で、見たところ人参、里芋、大豆、ナスなどが収穫を待っていた。大高といえば大高菜(おおだかな)が有名で、「古く徳川時代より生産するものであって,茎の長さは2尺有余となり、その芳香は絶対に他の追従を許さぬものである。これを漬菜にすれば、一種特有の香りと、舌頭に残滓を留めないのが大高菜特有の味であって原産地は字紺屋町である。」(緑区のHP)しかし、いまはその時期ではないので、見ることはできない。
 さて、水源地の特定はできなかったものの、緑区と大府市の境界まで来たので、一応の目的は達したと判断。地図上ではそのあたりから天白川河口の千鳥橋までさほどの距離はなさそうだったので、そこまで出ようと地図で下調べをしておいた。しかし、地図と実際の道とは大違いで、結局迷ってしまった。
 道すがら人に尋ねて自転車を走らせたが、全くの方向違いで東海市の冨木島町あたりに出てしまい、名鉄電車の駅で言えば、「太田川」に近い県道55号線にようやく乗ることができた。日が傾き始めており急がねばならず、休憩なしで走り続け「新日鉄前」「聚楽園」「名和」の道路標識を見ながら、途中の1キロ近い長い坂道も上りきり、約1時間10分走り続け、5時をやや過ぎたころ、ようやく千鳥橋の上に立った。橋を渡れば、名古屋市南区柴田本通。
 川面では、30センチ以上はあろうと思われる魚がしきりにとび跳ねる、その夕暮れの天白川の上流、下流を写真に収めたが、かなりの徒労感に襲われた。小さな“発見”もあったが、やはり、地図を持参すべきだった、もっと早い時間に出るべきだったと後悔した。

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2006年9月25日 (月)

チリリ~ン・その4

  緑区の現風景・手越川・1  

 桶狭間と中島砦を結ぶ川?
 手越(てこし)川は、桶狭間あたりを源流としているが、国道1号線・名古屋市緑区の桶狭間字生山、境松、大将ヶ根、豊明市栄町近辺で暗渠となって川筋は見えなくなる。その手越川の全域は、コンクリートで護岸され、往時を偲ぶ流域の風景を見出す事は難しい。
 地図を見ると鎌研(かまとぎ)橋以西では、旧東海道、手越川、名古屋鉄道(名鉄)、国道1号線がほぼ平行していて、有松地区の西端・鎌研橋で、旧東海道と交差し左京山地区を通って中島橋・中島砦のやや下流で扇川と合流する。
 歴史的には、中島砦に集結した織田軍の一隊が、この手越川を横に見ながら桶狭間の今川陣地に殺到したのであろうが、その中島砦は、今は私有地で住宅に囲まれ、6メートル×5メートルほどの敷地に碑が建っているのみである。
 合流点から上流に向って川沿いに自転車を走らせると、まず右岸に平部(ひらぶ)、左岸は柳長(りゅうちょう)であるが、このあたりではかつて絞りを手内職とする民家、それを卸していた家も多くあったが、いまは廃れた。だが「鳴海絞」の染工場や商店の幾つかが存在する。
 柳長には、日本車輌(株)の鳴海製作所があるが、いまはボーリング機械などを製作し、「杭基礎・地盤改良などを施行」する「機電本部」があるという。緑区では数少ない大手企業の事業所である。また、隣接して名鉄の鳴海工場もあったが、岡崎市の「本宿」に移転して今はない。
 緑区の南北主要道路と交差して
 北の鳴子町から緑市民病院、緑農協、緑郵便局、緑区役所、緑警察署などを沿線に持つ市道とは、鳴海宿の東の木戸、平部(ひらぶ)で交差するが、そこで、大高緑地に近い漆山、青山からの名前のないかつての小川、いまは排水路、それと合流する。近くには諏訪神社がある。
 この先から鎌研橋までが、名鉄左京山駅を中心に「左京山地区」であるが、手越川の南側は名鉄の線路、一号線を隔てて大高緑地、左京山中学、県立鳴海高校がある一方、北側は自動車整備工場、建材工場が並んでちょっとした工場地帯。マンションも結構目立つ。
 二位殿社(にいどのしゃ)
 そうした工場やマンションや住宅に囲まれた一角に、「二位殿社」がある。場所は、名鉄・左京山駅から60~70メートル北の手越橋を渡って右岸を下流方向に行った約50メートル先にある小さな社。
 郷土史などをあたると、もともとは「二位殿塚」といわれていたと書かれている。寛政6年の「鳴海村杁橋書上帳写」に、「手越横手堤二位殿際、杁長、三間」とあるが、そもそも「杁」とは何か。「圦」と同じことなのか、そうならば用水の何かという事になるが不明である。
 1959年発行・鳴海町史編纂委員会の「鳴海町案内」という小冊子には「二位殿塚-字手越甲三番地-古来から塚にふれるとオコリを振るうといって恐れられているが二位殿とは誰か不明である。旧平部山の住民と関係があるか?」としか書かれていない。オコリは「瘧(おこり)」のことか。これはマラリアの事であるが。次回は有松地区。 (「緑ネット・第69号」2006年3月31日から)         

 【有松・天満社祭り】2006年10月1日

 祭礼の主役・からくり人形を乗せた3台の山車(だし)が、朝10時に祇園寺を出発、西町、中町、東町を通って、大将ヶ根の交差点(国道1号線)までの旧東海道を往復。正午には、絞会館駐車場で、からくり人形の実演が行われる。山車は、夕刻6時半からも同コースを巡行する。尚、3台の山車についているからくり人形は、布袋(ほてい)、唐子(からこ)、神功皇后(じんぐうこうごう)といい、いずれも名古屋市指定文化財。中でも布袋車は最も古く、1675年(延宝3年)の建造といわれている。(交通:名鉄有松駅下車すぐ)

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2006年9月21日 (木)

白雲閣

 チリリン記余話

 「緑ネットのチリリン記・大高川」の取材で、その水源地である「水主ヶ池(かこがいけ)」に行こうとしたが、国道23号線と合流する名古屋環状2号線・国道302号線の工事のため、池には近寄れなかった。そこで池の対岸にある「白雲閣」の方に出てみようとあれこれ道を探し、ようやくたどり着いた。
 この「白雲閣」というのは、合掌造り風の古くから知られるいわば「料亭」で、その名前のごとく豊かな林の中にあって優雅なたたずまいを「水主ヶ池」に映していた。しかし、高級料亭が廃ってしまう時代の流れであったのか、国道23号線の開通だけでなく近くにボーリング場ができて風景が一変してしまったせいか、そしてより決定的な打撃は、国道23号線、伊勢湾岸道路、名古屋環状2号線・国道302号線が交わる道路銀座、名古屋南インターチェンジの真下となって、廃業に追い込まれたのであろうか。
 それでも廃屋にならず存在しているのは地元の企業CHKKが買い取って、接待用の“別荘”とか、厚生施設として利用しているからであると聞いている。一度だけ入ったことがあるが、内部はまさしく合掌造りそのままの重厚で雅な雰囲気を漂わせた部屋であった。
 大高という町は、徳川家康が今川義元を迎え入れるため兵糧を運び入れたといわれる大高城と、桶狭間・田楽狭間の闘いの前哨戦となった丸根砦、鷲津砦があり、酒蔵「神の井」がある。もっと古くは、「ヤマトタケル(大和武尊)とミヤズヒメ」の舞台となった氷上姉子神社もある。忠臣蔵四十七士の一人、大高源吾もゆかりがあるとされるが史実かどうかは知らない。
 このような町ゆえ、その筋の人しか使わないような「高級料亭」が、かつては人家も道路もないような池のほとりに、屹然と立っていてもおかしくないのであったが、時はいつしか流れた。

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2006年8月23日 (水)

夜のチリリン記

 わが生家辺りはいま

 所用があって夜の7時過ぎ、わが家から自転車で10分ほどのところまで出かけた。その帰路、残暑が幾分か和らいだ、その涼しさに誘われて、夜の扇川堤防上をチリリンと走ってみたくなり、乗り入れてみたが全くの誤算であった。
 そこは家並みから離れ、街灯も所々にしかない。自転車のひ弱なライトが頼みなので、ひたすら前方の暗闇に目を凝らし、散歩人とぶつからないように気を配るばかりで、まわりの風景も、まして川面の表情、水の音の楽しみ、涼風に吹かれる気分など、できるはずもなかった。
 しばらくして、ようやく人と出会う気配がなくなると、幾らか夜の町の風景、“灯りの世界”が見えてきた。昼間は往来の賑わいで、夜はこのような灯りが、人のくらしの営みを実感させてくれる。浅い夜のうちから灯火がない世界、かつて、そんな時代が日本にもあったし、今でも世界の幾つかの地で続いている。灯りの有無やその度合いは、人や社会の幸せを映している面があるのかもしれない。
 そうして川筋に沿って下れば、わが生家近くに行き着くのであり、ふと、さして広くない、かつて住んでいた町内を一回りしてみようと思い立った。軽くペダルを踏み込みながら、ぐるりと回ってみたが、扇川を挟んで両岸に密集していた家並みは、随分“歯抜け状態”になっていた。
 1970年代以降の河川改修の折り、北側(右岸)の川べりの家は全部立ち退きになって、町内の家は減っていたことは知っていたが、それにしても・・・。そういえば、一年ほど前だったか、火災があって4軒が焼け出され、そこも空き地になっていた。
 ついでに、いまは兄が住む実家に立ち寄って、その話を切り出してみたら、かつては80軒ほどあった町内会は、なんと18軒しかないという。しかも老人世帯ばかりなのだそうだ。だから、町内にある浅間神社の祭礼もできなくなったし、年中行事もほとんど行われないという。その上、多くの家では世代が断絶していて、その継承はどうなるかわからないという。
 そのわが生家も、鳴海駅前の再開発事業に巻き込まれ、あと数年で立ち退くことになっている。従って、かつての町内の左岸はそれでもって消滅する・・・。だが待てよ。そうすると、あっそうか、駅前開発事業で建つ高層マンションの住人が、その神社の氏子となって引き継ぐことになるかもしれない。
 10年先か、或いは20年先には、新住民が“町おこし”“昭和のくらしの復元”を試みるかもしれない。そういう時代が来た時、その当時の様子を語り伝えるお年寄りが、一人でも多く残っていることを祈りたい気持ちになってしまった。

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2006年7月23日 (日)

チリリ~ン・その3

  緑区の現風景・扇川・3

 第三回目の今回は、平手(ひらて)から徳重(とくしげ)を経て、水源地の大池までである。人口が増え続けている緑区の「分区」の話は随分前からある。そして、仮に分区するとすれば、どこで境界線を引くかという話もないではない。その一つが「環状2号線」を境に東西に分区するというもので、なるほど、緑区を見事に切り裂いている。
 もう一つ、地下鉄の野並―徳重間延伸工事が二〇〇八年度着工、二〇一三年度開業という計画が進行していて(2006年着工、2010年開業に変更)、同時に、徳重駅の近くに「緑区役所・支所」設置の事業も既に整地の段階である。この支所開設に当たって、地下鉄沿線の学区ごとの住民意識調査が行われ、仮に利用するとすれば、現在の緑区役所か新しい支所かという問いに、例えば、鳴子学区では支所派が多数であった。(と、諸説はあっても、周辺市町村の合併なら市税の増収もあろうが、分区は行政コストを高めるだけで、市にとってメリットは少ないであろうから、赤字財政の名古屋市では、当面分区はないだろうというのが私の見解)
 さて、今回の“チリリン記 ”は、いわば、「分区」の東の中心地を流れる扇川の、平手から徳重、その先の水源地までのスケッチである。

 冬枯れの扇川の遊歩道は人もまばらである。
 平手橋から上流域の扇川は、護岸がしっかり施され、両岸には桜並木の続く遊歩道も整備されている。辺りは公園や学校があるほかは、新しい住宅地として今なお、開発途上にある。幾つもある橋もその竣工年月を見ると、例えば、熊亀橋は、一九九四年三月竣工とある。
 その橋の名前を並べてみよう。下流から上流に向って、横吹橋、乗鞍橋、通曲橋、扇橋、末広橋、新徳重橋、鶴ヶ沢橋、高砂橋、亀ヶ洞橋、鶴亀橋、熊の前橋、熊亀橋、兵庫人道橋、兵庫橋、藤塚橋、大池橋。わずか三キロあまりで十六の橋の数は凄い!
 橋名の多くが地名から来ているが、「鶴、亀、扇、末広、高砂」こう並べてみると、めでたいというべきか、もう少し洒落っ気があってもいいかなとか。たかが橋、されど(人と共にある)橋なのだと思う。
 鶴ヶ沢橋の上流右岸の鉄柵にパイプを叩いて音色を出す“鉄琴 ”これをなんと呼ぶのかは知らないが、それが設置されていて、どうやら順番に叩いていくと童謡の「ほたるこい」になるらしい。その「楽器」の前の歩道には、蛍と両手で水を救う感じの絵柄パネルがはめ込まれている。このあたりでは蛍が舞うのか、それともその願望なのか。
 鶴亀橋の欄干は擬木風にできている。もう少し上流の兵庫人道橋も同じであるが、ここから上流の、堤防上の鉄柵はカラーで塗られ所々に絵模様が入っている。
 熊の前橋の近くの扇川公園の一角は、大雨の際の、雨水の一時貯留用地になっている。水源地の大池もその機能があるように見えたがどうであろうか。いずれも、田んぼやため池がなくなったからであろう。
 その扇川公園の東隣は、神の倉小、徳重小分離新設の造成工事が始まっていて、二〇〇七年四月に開校と思われた。人口急増中なのだ。

 扇川の源まで来たが、かつて雑木林、山そしてまた山の土地であったろうが、その面影はどこにもない。あるとすれば、熊野社周辺の鎮守の森であろうか。そこへ行ってみた。 百段近くの石段を上り詰めると真新しい社殿がある。由緒書きを見ていると、「・・・祭礼に船にて川を奉詣の折り 童児神楽を舞い その折り扇を川に落とし候 由緒を以って 扇川の名の基成り」(鳴海旧記)へえ~そうだったの?                       (私のチリリン記「緑ネット第68号」2006年2月15日から)

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2006年7月16日 (日)

チリリ~ンその2

緑区の現風景・扇川・2

  今回は旧東海道にかかる中島橋からの上流、平手橋までをチリリ~ン。
 その昔、中島橋の上流七〇~八〇メートルほどの所に、田んぼに水を引き入れる堰があって、夏は程よいプールのようになっていた。下流から川魚を獲り続け、ここに至って水に飛び込む。そこを“かんべ ”といったが今はない。この日、浅瀬にハヤでもいるのか、川の中に踏み入って糸を垂れる釣り人を見かけた。深みには鯉が数匹いた。
 下焼田橋の袂に六条ポンプ場がある。そう、今は六田というが、かつてこの辺りは六条といって、一帯は稲穂の揺れる田んぼだったのである。下焼田橋から北へ行けば鳴子に抜け、南へ行けば緑区役所から大高に至る、いまや緑区の南北のメイン道路の一つ。やや上流の焼田橋から更に上流に行くと旭出川と合流するが、そこに大形山から移転した鳴海中学校がある。
 放課後ともなれば、グランド一杯に球技にいそしむ生徒の姿、声に出会うことができる。四階建て鉄筋コンクリートの校舎。その北側の正門前の道路沿いには、暗渠を交互に入れた水の流れをつくる“小川 ”もあってなかなかのものである。教育環境は整っているが、さて教師や生徒はどんな学校をつくっているのかな・・・。
 鳴海中学校の東隣が六田公園。小学生まで使用可能な野球グランドもあって、休日などはクラブチームが練習をしたり、試合をしたり、若い母親が目を細め、声を上げて応援する姿が見られる公園だ。
 よくよく見ると扇川を挟んで北に鳴海中学、サラのその北に緑高校があり、地図をたどれば、その北に旭出小学校、更に鳴子小学校、鳴子台中学がある。逆に扇川の南側は、相原小学校が川沿いにあり、更に南をたどれば、平子小学校、県立鳴海高校があり、南端は緑区有松町・桶狭間の南陵小学校。

 ここらあたりから、堤防上の遊歩道を連れ立って歩く散歩人が行き交う。春は桜、秋は桜葉が赤く染まる。人の手になる風景ではあるが、天与の樹木、川の水、野鳥それ自体は、造形の中にあっても息づく。
 やがて「石神堂公園」に至る。この公園には、日展評議員・彫刻家の高橋剛作「豊饒の里」の銅像がある。農具の三本備中、金鍬を持つ農夫と、子ども抱いた農婦の像で一九八六年の作とある。建立に至る経過は銘板にこうある。
 「完工記念― この界隈は往古室町時代の後半干潟となり、人々が点在し居住し始め鳴海発祥の兆しとなった。二村山から砂田、相原郷、古鳴海を経て野並に至る鎌倉街道が開通されて以来、街道筋の鳴海の町は繁栄の一途をたどり、我が国の歴史上からも由緒ある地である。当組合の事業区域は、往古黒末川今は扇川沿いの一七字を含めた七六ヘクタールの面積で、砂田の源義経・兜掛けの松、相原郷の狐、蛸畑の貝塚等話題が豊富な穀倉地帯であった。昭和四九年二月土地区画整理事業に着手して以来、地権者有志のもと、この偉業を成功裡に成就することができたのである。名古屋市緑ヶ丘土地区画整理組合」

 さて更に上流に向って走らせると、まだ工事は始まっていないが、「名古屋環状二号線」とぶつかる。ここらあたりでは、白いサギ、コサギだろうか。或いはゴイサギなのかシギの一種なのか、やや大形の野鳥も見られる。ハシボソカラスやドバト、鴨、アヒルもいる。地図を見れば、「鳥澄」とあり、なるほど・・・。「鳥澄人道橋」から上流を眺める位置が、私のお勧めスポット。桜の満開の時に足を向けられたらいかが。
 新鴻仏目橋は、鹿山、滝の水中学北方面から扇川を渡り、鎌倉台中学、敷田から、中京競馬場の西側を通って、将来国道1号線に抜ける都市計画道路の一つをつなぐ橋である。
 平手橋の手前に「水広下川」の、小さな合流点があるが、水広下池にはつながっていないようだ。その平手橋は、笠寺・鳴海山下から豊明市・沓掛方面を結ぶ“戦略上 ”重要な橋である。続く。    <「緑ネット第66号」2005年12月1日>

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2006年7月 9日 (日)

チリリ~ン・その1

緑区の現風景・扇川・1

 名古屋市緑区の中心地を流れる扇川(おうぎがわ)の下流は、緑区大高町下塩田にある大星橋(たいせいはし)下流三〇〇メートルで、中堤防が切れて天白川と合流し、名古屋港・伊勢湾に注ぐ。
 歩行者専用の大星橋から下流を望めば、国道23号線と、その上を走る名古屋都市高速道路が見え、上流に目を移せば、JR東海道本線と東海道新幹線の鉄橋が見え、その遥か先に緑地が見えるが、あれは熱田神宮とゆかりの深い成海神社の森であろうか。鉄橋の右岸、即ち名古屋市南区側に、鎮守「牛毛神社」がある。
 それにしても両岸はがっちりとコンクリートで固められ、川というより大きな排水溝といってよい。ひところに較べれば、きれいになったといわれる川の水は、薄い油が浮き、濃緑色をしている。それでも時折り、二〇センチほどの魚が跳ねて、銀色の腹を見せる。ボラであろうか。
 JRの鉄橋の近くの河川敷、といっても、コンクリートの段差の上。満ち潮になれば、川面から1メートルほどしかないであろう所に、テントの“住居 ”が二棟ある。隣地に一坪ほどの畑が2面あり、自転車も置いてある。小屋の前に釣竿が6~7本立てかけてあって、燃え残りの灰も新しい炭火のコンロが見え、くらしの営みが伺えた。
 これでは、ちょっとした雨でも押し流されてしまうであろうから、ここの住人は、雨足を見て素早く避難するのであろうか。

 国道1号線の通る橋は、天白川にかかる橋が「大慶橋」といい、扇川にかかる橋が「汐見橋」というが、このあたりで両川は北と西に別れ、扇川の方は、上流に行くに従って「鳴海」の歴史がちらほらと顔を出す。江戸期にあった「郷蔵(ごうくら・ごんぐら)」「土場(どば)」は、歩行者専用の上汐田橋あたりと思われる。これについては「緑区の原風景・東海道」でも触れた。
 またこの辺りには「被差別部落」があったとされ、その名残りのように近くには、名古屋市上汐田教育集会所があって、入り口には「人権が尊重され 差別偏見のない 人間性豊かなまち 名古屋の実現を」の張り紙がしてある。
 付け足しに書けば、「私の小さな映画史」で紹介した「鳴海東映劇場」という映画館のあった所は、今は住宅が建っていて痕跡すらない。また、私が一年通った珠算塾は、その近くの街灯に「南星速算学会」という看板が残ってはいたが、開塾している様子はなかった。いまどき、そろばんをはじく子どもも、通わせる親もいないのであろう。
 「土手」に戻ってみる。車の往来の激しい汐田橋の近くに「正一位秋葉神社」という小さな神社が今もあるが、その“ほこら” を見ていて半世紀前を思い出した。
 わが家から扇川の土手伝いに下流に向っていくと、浅間神社・浅間橋を越え、根古屋から鳴海橋に出る。そこから先が通称「西町」といわれていた集落で、その土手、多分「土場」あたりだと思われるが、そこにこの“ほこらが”があって、そばに大きな木が一本立っていたような気がする。よくよくみれば、「秋葉神社」と刻まれた石柱の裏には、昭和48年(1973年)とあるから、扇川堤防の大改修工事の際に移設されたのかもしれない。

 さて今回の「扇川・1」は、更に上流の、手越川の合流地点、中島橋までであるが、このあたりについては既に触れているので、今回はここまで。次回は、中島橋から上流、水源地近くまでを書いてみようと思っている。

      〔連載・第1回:緑ネット第65号/2005・10・20〕

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