この1年を顧みて・2
例会は12月3日の午後であるが、当日提出するメモを先行してここに記す。
はじめに
この1年といわず、これまでの例会を振り返ることはあまりなかったので、改めて「老兵たちのフォーラム」の位置付け、得たもの、保留のままのものなどを考えてみたい。
それにしても、参加のみなさんが豊富な経験と実績を積まれ、それらをまた冷徹に自己分析されてお持ちになっていること、さらに過去だけでなく、「これから」を憂い、望み、かかわろうとしておられる姿勢に、私には学ぶところが本当にたくさんありました。お礼申し上げます。
さて、私がこのフォーラムに参加した時に掲げたテーマは、「第3の社会論はあるか」というもので、歴史的にみて、社会主義(社会主義国家)は、資本主義(資本主義国家)に凌駕されてしまったのであろうか、だとすれば、そこに至る比較検討はどこまで研究されているのだろうか。そして、現実的課題に向き合ったとき、双方向から課題にアプローチしたなら、どんな答が導き出されるのであろうか。それは一方を断罪し、一方を肯定できるものなのか、双方の正反両面を切り取って合わせ、何かを加え、何かを差し引けば「第3の社会」とも言える、形が見えてくるものなのだろうか。はたまた、「資本主義」の行き詰まり、破たん、混乱が形を変えてであれ、「社会主義」が復権するであろうか。(例えば、南米の左翼政権の登場、広がり)これが私の当座の命題であり、「総論」部分でもあった。
では各論についてどこまで論考が進んでいるのか、と自問してみたけれども、そのヒント、論らしきものに幾らか出会った気がしているが、文章化の作業には着手していない。できるだろうか?
ただ私には、2003年の愛知県知事選挙の総括を終えてから「これからの社会、地域、愛知を考える」という、未熟ながら論考を試みている。(C&Lリンクス愛知・Ⅰ第25,26,27号-2003年7月4日)それを引き継ぐ形で第27号から「21世紀の日本はどうあるべきか その進路について考えました」の連載を始めた。それは、2004年の参院選挙の直前までの8回シリーズであったが、「参院選特集」を組んだところ中断し、現在に至っている。
1、私(たち)を取り巻く状況
「老兵たちのフォーラム」の聴講では、幾つものヒントを与えてもらっているが、短い時間の中に広範囲で奥深い内容が織り込まれているようで、すぐさま理解し、私なりの道筋が見えたとはいえない。「ヒントは戴いた。あとは自分で考えろ」ということだと思っている。
もう一つは、世界の政治、経済がこれまでにない動きをしているのではないかと思われ、歴史から学ぶことは多々あるにしろ、現代のグローバルで、新興国の登場という動きを過去の「公式」にあてはめることは、もともと無理があると思うし、研究者、評論家の皆さんでも容易ではないだろう。とすれば、到底私の及ぶところではないから、そうした論考が出てくるのを待つばかりである。とはいえ、情報の網を張ること、即ち本、雑誌、講演、インターネットなど、広範囲にシフトしているわけではないので、及ばざるは必然。さらに、眼前の運動に軸足があることもやむを得ざる仕儀ではある、と思っている。
2、老兵たちのフォーラムが提供しているもの
会合の場で私は、テーマに沿った意見、見解をメモとして出し、終えてからの感想などをブログに掲載しているが、これは私自身が、運動の第一線からやや引いているものの、まだ「現役」という意識を持っているからだと思っている。この「現役」というのは、運動の「企画会議に出ている」こと。運動の「現場に立ち会う」こと。「見聞、行動を記録する」こと、だと私なりに定義している。
「老兵たちのフォーラム」は、運動体ではないが、私にとっては一つ一つのテーマを取り込むことによって、現行の運動の視野を広げることになっていると思っている。この「運動」についても、市民運動、住民運動、労働運動、社会運動いずれの場合も、その運動に文化、哲学、歴史などを織り込むことで、一枚の織物が出来上がると思うが、フォーラムが、その縦糸を提供してくれているのだと思っている。
3、老兵たちのフォーラムの多様性を喜ぶ
私の「立場」は、大雑把にいえば、労働運動からの史観で、無党派市民、第三極に立つ、といえるだろう。
この「労働運動史観」は、一つは人間にとって、「労働」そのものに価値があるという考えに立つ。そこから、労働の価値、例えば、共同体(社会)に寄与する「生産活動」、生活のための「賃金」、健康のための「労働の質」(働き方、働かされ方)および「居住」をとらえ返す。もう一つは、労働者の「階級意識」から、労働者の結束、交流、連帯のための「組織作り」と「労働組合」としての社会的、政治的行動を同じ次元のものとして解する、といえるだろう。(経済的要求と政治的要求は一体なもの)
もっとも、それでは資本家(経営者)、支配者権力の側の人間にも「労働」があるが、それはどうなのか。むしろ、その労働の密度の高さにおいて、現実社会の基盤を形成しているのではないか、との反論も聞こえてきそうだ。(その考えがあることは承知したうえで、ここではこれ以上の深入りはしない)
私は今でも、労働者が結束(団結)することは、階級社会の存在を認識するが故に必要な条件であると思っているが、「中流化意識とくらし」「小市民意識」に押し流されて、労働者史観が薄まり、非正規雇用、ワーキングプアといわれる層との二重、三重構造に至っている現実は、残念というほかない。だからいっそう、「労働運動史観」に依拠しようと思っている。
一方、社会変革の牽引者たる「政党」の存在と役割について私は十分に理解し得ていない気がする。(例えば政党政治の功罪)
それは必要性の願望より、政党への現実的失望感が上回っているからではないかと思っている。そうはいっても、現実的には、政党を抜きに政治は語れないから、私の中の「第三の社会論」では、あるべき政党の姿(端的にいえばリーダーシップ、機関車的役割)はテーマの一つになっている。(共産党はなぜ多数派になれないか、はいい議論、素材となった)
もう一つ、無党派市民・第3極について触れると、前述のような私の立場からすれば、現段階で政党を軸とする政治潮流を考えるとき、「無党派市民」と位置付けざるを得ないが、これは頭に「行動する」をつけての話である。従ってまた、「二大政党論」に組みしない「第三極」を言うのであるが、率直にいえば、必ずしもその「核心部分」が形成されているわけではない。
私は自身を「待機主義者」とは思っていないが、「戦乱・戦国の世にあって知恵あるものが歴史に登場する。横臥する大名、大大名の朽ち果てるのを待つ、戦機をうかがう、力を蓄える」と言いたい。だが「現実の無党派市民」は、混沌としたまま共同の行動のベクトルを見い出せないでいる。
というわけで、この現実を自覚するとき、立場や経験や思想性の違うみなさんのご意見を聞くことで、その弱性を痛感させられているし、方向性のヒントを戴いている。それは私にとって、「第三極論の総体と、現実面を見据える均衡(バランス)」を考える上で貴重なものになっている。多様な意見、お考えに接して嬉しいかぎりである。
4、これまでとこの先
かつての「C&Lリンクス愛知」の誌上での論考の試みがあって、「第三の社会論」へのアプローチ、待望がある。しかし、世界の急激な状況の変化や、環境問題、人口問題、宗教問題など改めて問われる視点、論点が提起されて、過去の論考がどんどん陳腐化しているように感じられる。
どこかで、これまでの視点、論点、異論、反論、保留点を中間的にまとめてみたい。そうすれば、欠落しているもの、さらに論考を深める必要があるもの、その時点と現時点ですでに修正が必要なものなどを見いだせるかもしれない、と思うものの、何となく「後追いの虚しさ」も禁じ得ない。そればかりではないが、この「虚しさ」を埋めるものの一つは、「現役」であり続けることではないかという気もしている。それは現場と向き合うことで得られること、感じ取ること、教えられることが多いと思うからである。
もう一つは、これまでのテーマは、社会的テーマが主流であり、しかもそれらは必ずしも、地域や、生活(くらし)部分に至るケースは、Sさんのお話くらいではなかったろうか。「地域自治・共同体」「医療・介護・年金」「世代・性差」「慣習・祭・文化」というのは、このフォーラムになじまないとして、別の機会、場所に委ねる、ということであろうか。
いずれにしても体力勝負であり、年齢(時間)との並走であり、論考を途切れさせない持続性にかかっていると思われる。
私個人としては、当面の現場は「トヨタ(国内)」と「アジア(世界)」であり、論考を「老兵たちのフォーラム」と「C&Lリンクス愛知」「ブログ:名古屋発-私の日録“郷蔵21”」においていくつもりだ。また地域では「四季雑談の会」、内なるものとして「地域運動の断片の記録」の試みと、「短詩形文学」をライフワークとして行きたいと思っている。2009年は、海外へ出てみたい。 了
※12月3日、一部に手を加えたので、ここには加筆修正したものを再録した。
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