2015年5月23日 (土)

ミニ詩集・随筆第7号

 タイトルは「がん」
 5月の初頭に発行を予定していた「ミニ詩集第7号-がん」が今日になって完成し、印刷に漕ぎつけた。‘泉が湧き出るように’とはいかず、なかなか詩作が進まなかったが、同級生からの水彩画を戴いて一気にまとまった。
 今号は、詩9編、随筆1篇で全16頁(A5サイズ)となった。随筆は、5月4日付のブログ「どーもの休日―末期がん闘病記」を読む、とした。元NHK記者、近藤彰著・風媒社刊を、同年代の人に紹介したかったからだ。 
 〈 詩画三題 〉「白山氷柱の背」「神戸港そしてもやい綱」「鳩吹山にて」。新作「胎動の火山列島」と投稿詩「チョン チョン パッ」「短い電話」、再録の「だからなんですよ」「その朝」
 日ごろ、あまり関心を呼ぶこともない、地域で活動している仲間にも送るが、むしろ、同級生や何らかの創作活動をしている人に送ることが多い。私的には、趣味の領域である一方、社会的な活動との「文武均衡」と思ってはいるが、「活力分散」の傾向がないとは言えない。「胎動の火山列島」はこんなものである。


  胎動の火山列島

いつだって 
誰にだって物を言うからか
噴煙絶えない桜島

火砕流を吐き出し 
人をのみこみ
その名に恥じることはなかったか普賢岳

あんなにも崇められ 
人を惹きつけていながら
なぜ怒ったのか御嶽山

誰もが
羨むほど富士の山に連れ添い
何が不満か 
何がいいたいのか箱根山

忘れてはいないか
日本列島は火山列島
侮ってはいないか九条の民を

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年6月 6日 (月)

四十八人目の忠臣

 泉岳寺に行く
 毎日新聞夕刊の連載小説「四十八人目の忠臣」は、諸田玲子の作。連載は5月31日に終わったが、ずっと購読していたので、先月東京に行った折り、ゆかりの泉岳寺を訪ねた。
 「四十八人目の忠臣」のその人とは、赤穂浪士四十七士の一人、磯貝十郎左衛門の恋人・きよ(のちの月光院)である。双方とも実在人物ではあるが、どうして二人が結び付いたかのところと、出仕したきよの努力(工作)で、浅野家が再興され、義士たちの遺児たちが赦免される過程が、この小説の創作の見せどころであり、「武士・忠義・仇討」といった従来の男の視点ではなく、女性の視点から掘り起こしたところに新鮮味があった。
 きよ(喜世)は、元加賀藩士の娘で、最初は「京極氏、次に戸沢氏に出仕し、後に四代将軍徳川家綱の乳母の矢島局の養子であった矢島治太夫の養女に迎えられた。」とあり、「宝永元年(1704年)には徳川綱豊(後に家宣)の桜田御殿に出仕するようになった。」という。さらに「喜世は男児(家宣の四男)を出産。鍋松と名付けられた。後の家継である。」将軍の生母となったのである。(家宣が死去し、喜世は落飾して「月光院」となった。)
 泉岳寺へは、東海道新幹線・品川駅で乗り換えてJRの「田町」へ、そこから都営地下鉄の浅草線で「泉岳寺」へ。地下鉄から地上に上がればすぐ近く。
 山門には白字で大きく「泉岳寺」の掲額があって目に入ってくる。寺自体はこじんまりしているが、往時は背後には深い森を有していたことだろう。
 正面に本堂、左手に、藩主浅野長矩と赤穂浪士のお墓がある。浅野長矩公の墓は別格で設置されている。浪士たちの墓も、場所は一緒だが、大石内蔵助良雄と嫡男の主税良金の墓石は別格で、形状は同じでもやや大きく、他の浪士は全部同じ規格の墓石であった。
 中年女性の団体が来ていて、それぞれ手にしたお線香を、贔屓(ひいき)というか、よく知られた浪士の墓石の前でたむけていた。私は、討ち入り後、姿を消した寺坂吉右衛門の墓石を探したが、見つけられなかった。多分ないのだろうと思う。大石の密命を受けて、事の次第を後世に伝え残す役割との説があるが、その業績が明らかになったという伝聞はなさそうだ。足軽で唯一の義士となったが、文才のなさと腹を切る作法も知らなかったから、逃げ出してしまったか、身分が低かったからこそ、大石が情で抜けさせたか、いずれにしても寺坂が抜けると四十六士となるのだが。
 きよ(月光院)の墓所は、最後にたどりついた増上寺にあるが、5時の時鐘の時間であって、入場時間を過ぎていた。墓所の特別公開が4月15日から11月30日とあり、機会を逸したが、秋の上京の時に時間がとれるかも。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年7月 1日 (木)

桶狭間の戦い450年

  フレーム切手に見る歴史の一コマ
 雑談の櫂・第17号は、郵便とメール便で発送し、一部は配達しているが、今日は配達途中に緑郵便局に寄って、「桶狭間の戦い450年」のフレーム切手がないかと聞いてみたが、やはり、既に売り切れていた。
 織田信長の天下統一の大きな足掛かりとなった、今川義元との合戦、桶狭間の戦いから、今年は450年目に当たり、地元を中心に、様々な行事が行われている。
 その一環として、「桶狭間の戦い450年」のフレーム切手が売り出されていたのだった。たまたま寄った別の郵便局で1部は購入できたが、知人に贈呈したいと思って寄ってみたのだが残念だった。
 シートには80円切手が10枚セットされているが、銅像から撮った織田信長と今川義元の顔写真、昭和初期のおけはざま山、釜ヶ谷、田楽坪のレトロ写真、他に、古戦場公園、長福寺、万灯会、桶狭間神明社、今川義元の墓、そして、戦勝の松の初代と3代目のそれぞれの写真が切手のデザインとなっている。
 織田信長の、清州城⇒熱田神宮⇒善照寺砦から桶狭間(或いは田楽廻間、田楽坪)に至る進軍したコースも2説あって、有力説はあるが定まっていないようだ。また、今川義元が討ち取られた場所にも諸説があって、未だ確定されていないようだ。それだからまた、郷土史家の探究心をそそることになり、それに関連した本や文献も結構出されていると聞く。7月3日には、著者のその講演会も予定されているが、別件の予定もあって行ってみようかどうしようか迷っている。

|

2009年11月13日 (金)

いま、この時は何の時?

映画音楽を聴きながら
 夕方、気晴らしに近くの公園に散歩に出た。桜葉が茜色に染まり、赤トンボを見かけることもなかった。冬の季節へ、自然の衣替え。
 朝の病院は済ませたし、しばし休養を申し出ているので、さしあたっての執筆作業はない。メールを点検し、推敲の時間というより、手がけては休みの、間を多くとってのブログをアップし、新聞はいつもの半分程度の読みこなし。思いついては、不要な書類の整理、家事少々。あとは、CDかテープで音楽を聴いて過ごす。
 音楽は、クラシックものが多いが、飽き易いので映画音楽をたしなむ。もともと映画好きではあるが、収録されているものの大半の映画は見ていない。クロード・チアリのギターに乗せてかかる曲は、「夜霧のしのび逢い」「太陽がいっぱい」「ミッシェル」「禁じられた遊び」「雨にぬれても」「シェルブールの雨傘」などなど。どれも映画挿入曲だと思うが、どれ一つ見ていない。
  安売りで買ったCDでは、6枚101曲中、劇場で観た映画は、「タラのテーマ/風と共に去りぬ」「エーデルワイス/サウンド・オブ・ミュージック」「トゥナイト/ウエストサイド物語」「スペインの雨/マイ・フェア・レディー」だけであった。「アラビアのロレンス」「荒野の七人」「ロシアより愛をこめて/007」「クワイ河マーチ/戦場にかける橋」「大脱走」など、他に5曲くらいは、全てテレビシアターであった。
  このCDにはなかった「ベンハー・序曲」が好きであるが、それにしても、映画は観ているようでやっぱり観ていないんだなあ、と改めて感じた。だが、こうして音楽だけを聞いていても、クラシックに較べ遥かに映画音楽の方が豊かに情景を浮かべることができるから好きなのだと思う。
  まあ、いずれにしても、この数日間、時が止まったように、なんだか足踏みしているように感じられてならない。あとで考えたら、この時期はいったい何であっただろう、そう考える時が来るかもしれない。

|

2009年11月 6日 (金)

プロ野球雑感

松井やるねえ、日本シリーズは?
 アメリカ大リーグ・ワールドシリーズでNYヤンキースの松井秀喜が、MVPに輝いたと聞き、“松井も結構やるもんだ、ワンチャンスを生かす、幸運な星の下に生まれたのかな”と思った。努力の人イチローに較べ、華があるのと感じるのは何故だろう。どっちにしても拍手を送る。
 さて巨人と日本ハムの日本シリーズの第5戦、あれは劇的には違いないが、“巨人の底力”を見せつけたという感じであった。特に、打順が亀井、阿部に回ったところが日本ハムの不幸であった。この二人、CSから絶好調ではなかったか。
 それはともかく、7回まで好投していた、日本ハムの藤井投手を何故、梨田監督は代えたのか。恐らく逃げ切りの「勝利の方程式」に従ったのであろうが、このパターン化した投手リレーは、投手の分業化が進むなかで、どこのチームも採用しているようである。
  シ-ズン中、中日の落合監督が、先発、中継ぎの好投にかかわらず、8回浅尾、9回岩瀬というパターンを繰り返して、終盤負けが込んだように思う。浅尾に疲れと投球術を読みとられていた結果ではないかと私は思ったが、違っただろうか。速球だけでは、クルーンだって打たれるのである昨今は。
 それはそれとして私は、日本ハムのどの選手もほとんど知らないが、アンチ巨人の立場から、日本ハムに勝ってほしいとは思っている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月29日 (火)

ナゴヤドームで中日×巨人戦

巨人の応援席横で
  毎度のことながら、息子は巨人ファンで私は中日ファン、ナゴヤドームで中日×巨人戦を観戦するときは、巨人側の観覧席。今回は外野席で巨人の応援団席のすぐ横で、この席と遊撃(ショートストップ)、ホームベースを結ぶ位置になる。
 ここで初めて知ったのであるが、両チームの「応援席」は特定されていて、一般入場者には開放されていないことだった。また、その応援席からは、チーム独自の歌のような、あるいは選手個人名を入れた応援歌のような「合唱」が歌われることだった。これがよく聞こえた。サッカー専属かと思っていた「お~お~お~」というのもあった。
  ドラムやトランペットに較べれば、どちらのチームであれ、この種の応援はさして気にはならないが、相手チームの席では、中日選手のプレーに歓声は上げづらい。それでも、このレフトスタンドには中日ファンがいて、2回、3回に得点が入った時など、かなりのファンが立ち上がって手を打っていた。
  このカードは、ペナントレースの結果が出ていなければ、空席などあり得ないであろうが、1割方空席があったのではないだろうか。また、試合は「消化試合」ではなく「CSの調整試合」のようで、中日では、ベテランの岩瀬、谷繁はベンチに入っていなかったのではないだろうか。巨人では、小笠原が後半はベンチに引っ込み、阿部はマスクをかぶらず、ファーストに回ったりした。
  それにしても、巨人が早々にリーグ制覇を果たしたのは、中日戦で圧倒的に勝ち越したからである。この2試合で中日は連勝しているが、それまでは何と巨人の15勝6敗であった。恐らく巨人の首脳は、福留、川上という中日の投打の要が抜けたとはいえ、中日をたたくことでペナントの行方が見えてくるという戦略を立てたに違いない。逆に中日とすれば、福留、川上の抜けた穴は大きく、一時は巨人に1、5だったか2ゲーム差まで詰め寄るなどよくここまで頑張ったとも言える。投手陣だけなら巨人以上であろうし、打撃陣もブランコは想定外の活躍で、森野の成長が大きい。結局、荒木の不調、6番打者と下位打線が力不足で、ここ一番の決定打不足に悩んだのではなかろうか。それと8月までしか持続できなかった「体力」のスタミナ切れ。
  これから、CS、日本シリーズもあるが、私のプロ野球はここらあたりまでという感じである。立浪の引退も記しておこう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月 8日 (金)

週刊少年マンガ雑誌50年

 そういう道を通ってはきたが・・・
 郵便局では、「週刊少年漫画50周年」の記念(特殊)切手が売られている。そのⅠは3月17日の発売で、その一つが「週刊少年サンデー」で、表紙を飾ったのだろう「おそ松くん」「まことちゃん」「カムイ外伝」「パーマン」「うる星やつら」「サイボーグ009」「タッチ」などが切手化されている。
 もう一つが「週刊少年マガジン」で、「8マン」「タイガーマスク」「巨人の星」「ゲゲゲの鬼太郎」「愛と誠」「天才バカボン」「釣りキチ三平」「あしたのジョー」などが切手化された。
 このあたりの一部なら、漫画家の名前も一人二人はあげられるが、5月22日発売予定の、そのⅡでは「週刊少年サンデー」「週刊少年マガジン」どちらの漫画の代表作も知らないものばかりに違いない。テレビで見る「名探偵コナン」くらいか。
 なぜ今年かといえば、1959年4月17日が、「サンデー」と「マガジン」の創刊の年で50周年。
 ところで、両誌の創刊当初に繰り広げられた熱い闘いを描いたドラマ「ザ・ライバル『少年サンデー・少年マガジン物語』」が5月5日の午後10時から、NHKで放映されたのをたまたま見た。当時の新入社員役で、両誌のライバルとなる伊藤淳史、成宮寛貴がやがて編集長になっていく過程でもある。
 漫画がその時代の文化として受け入れられていく変遷でもあり、アニメ化されたものが世界的に評価される今日ではあるが、私の感覚では、漫画やインベーダーゲーム(古い!)のようなものが単独で読まれ、遊ばれるだけでは、それは遊びでしかないのではないか。
 1970年代、少年マガジンと朝日ジャーナルをもって歩くのがちょっとしたファッションだった時もあったようだが、私は、この組み合わせにエッセンスがあったと信ずる世代ではある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月25日 (水)

WBCと原監督

 名監督への道
 第2回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で、原辰徳監督率いる日本代表チームが優勝して2連覇を達成した。
 生中継は見なかったので、結果はインターネットで知ることとなったが、9時台、10時台のニュース番組もトップの扱いであったから、スポーツニュースでゆっくりと経過を見ることができた。こんな状況であるから、甲子園の全国選抜高校野球も、大相撲春場所で朝青竜が破れたことも影が薄かった。さらに、民主党小沢代表の続投記者会見も扱いは短めだった。
 さて私は、中日ドラゴンズのファンである以上に“アンチ巨人”であるから、長嶋にも王にも熱狂したことはない。ただ地元出身の槇原や山倉、木村、後藤には注目していた。西武⇒巨人の工藤についてはその昔、逃したスカウトを恨んでいたこともあった。
 それで原辰徳監督のことだが、輝かしい球歴で、長嶋、王に比肩する実力とファンを持っていたらしいが、あの“偉大な”二人に比べ“華”がないなあ、スマートすぎるんじゃないの?なんて他人事にしか思っていなかった。
 WBC優勝で大きな勲章を手に入れた原監督だが、第1次予選が終わった段階で、アメリカの監督が原をいたく褒めていた記事を見たような気がする。それは、第1回WBCの星野監督と違って、チームに溶け込み、選手の個性、特長を見つけて、それ引き出す能力と選手の起用、チームの方向性が明確であることだったように思う。
 原監督自身の現役時代は、どちらかといえばパワーヒッターで、セーフティーバンドなどやらなかったと思うが、その原監督のチーム作りは、打撃が主流で「大砲主義」のキューバ、アメリカ、韓国の強力打線と競り合う力は日本にはなく、アメリカ野球の対極にある、「投げる、打つ、走る」の野球の原点に立ったチーム作りに専念し、充実した投手力、確実性と走力のある野手、チームワークを重んずる選手を集めることで活路を見出したことが大きい。
 また、そうしたチーム作りにあたって、セ・パ、大リーグから選手を選び出すのも能力の高さを示すものといえよう。起用が阪神、中日の選手に偏りがちの「星野ジャパン」との違いがここにあった。
 これで5年間くらいは巨人軍監督を続けられようから、その間に2~3回日本一になれば、「名監督」との称号を与えられるだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月17日 (火)

熊野古道・伊勢路を歩く(1)

 まだ入り口で実感なく
 一昨日の日曜日、「三交トライパル(株)」主催の、世界遺産を旅する「熊野古道・伊勢路」ウォーキングに参加した。全コースは17のコースに分割されていて、参加者はコースを選択して、指定のバス停で乗降する方式であった。
 昨秋からグループをつくって始めたのを聞いて、同級生のよしみで加えてもらったのであった。グループのこの日の参加は10人、下は60歳、上は72歳とか、夫婦連れ主体であり、シングルは二人。初めての参加は私だけ。大型の観光バスに20人余りだからゆったり過ぎるくらい。2月という時期だからだろう。
 名古屋駅8時発のバスに揺られ、おしゃべりしているうちに、私たちのスタート地点の「三交馬瀬バス停」に着いたのだが、そこがどうやら、紀北町だとわかったのは、少しあとだった。この紀北町は、三重県北牟婁郡にあって、2005年10月11日に紀伊長島町と海山町が合併し、紀北町が誕生したとあり、紀北町のイメージがわかなかったのは無理もない。紀伊長島町なら、その手前の錦漁港へは、原発建設予定地だった芦浜海岸への入り口として何度も行ったことがあったので、多少は思い出していたかもしれなかった。
 ガイドブックには、私たちのグループのコース「始神峠(はじがみとうげ)」は、約6キロ、3時間、難易度星2つ、峠の標高は147メートルとあり、初心者コース。空は晴れて風もなく、暖かさを越して暑いくらいで、着衣が2枚になるまでに時間はかからなかった。
 「道の駅」で購入した弁当を、始神峠で広げると、昨日の“バレンタインデー”のお流れであちこちから、チョコレートが回ってきた。私は冷茶と保温の水筒を用意したのであったが、汗をかいたとはいえ、やはり、温かいお茶がうまかった。野鳥の声は聞こえなかったが、眼下には熊野灘の一部が樹間から見える。百倍ズームの双眼鏡を取り出して眺めてみたが、“こいついけねえ、目標物が定まらねえ”という感じで、生で見るが一番と分かった。
 帰路のバスの発車時間まで二時間余りあって、予め計画されていたコース外の「高塚公園」へ足を伸ばしたのであるが、展望台への急坂が本コースの数倍のきつさであった。
 さてここで、リーダー(同級生)のKが、自慢のキャンプ用の簡易コンロを取り出して、山から汲んできた自然の水でお湯を沸かし、全員に熱いコーヒーを振舞う予定であった。これは恒例らしく、みんなも期待している風であったが、それが、それが、肝心のコーヒーを忘れてきてしまって、次回のお楽しみと話題のネタを残したのだった。
 3月の予定は15日で「ツヅラト峠」とか。「15キロ、5時間、海抜357M、星5つ」だが、今度は、スギ花粉対策の「マスク」が必要のようだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月22日 (木)

オバマ演説集の一部

  英会話サロンの学習テキストに
  月1回程度の英会話サロンなので、その程度では英会話が身につくはずもないから、“英会話に親しむ”といったところである。
 今日は、講師が、都合が悪く来られないというので、生徒だけで自習となった。そこで一人が持ってきた「オバマ演説集」のCDを聞きながら、5つくらいの段落に過ぎなかったが、和訳とあるフレーズの使い方、アクセントなどを学習した。
 例えば、The world is watching what we do here. The world is paying attention to how we conduct ourselves, what we say, how we treat one another. What will they see? What will we tell them? What will we  show them? 
  対訳が付いているから、その意味はわかるとして、表現方法や、繰り返す形で訴える弁舌の妙などに、民衆を引き付けるものがあるのだという。
 最初の段落「世界中が(アメリカでの)我々の動向に注目している」このwhatは、we do hereのこと、をいうのだとか。
 次のpaying attention toのところでは、payは払う、でよく使う単語だ。back payは、組合用語で一般的だが、和製英語かもしれない。空港のアナウンスで「attention please」が使われるが、ここでは「注意を払う」というより、「注目している」ということになるらしい。
  What will they see?のところでtheyは、文脈から「世界」を言っているのであり、「世界は何を見るでしょう」と訳されている。最初にWhatが来ているから疑問文で語尾が上がるかと思えば、ここは下がるのだという。Whatだから、この時点で何かを聞こうとしているとわかるから、あえて語尾を上げなくていいという解説だった。ついでにseeは、「シー」と発音すると「she」となってしまうから「スゥイ」と言ってたかな、CDでは早くて、聴き慣れないこともあって聞き分けることができなかったが。
  以下、whatで始まるフレーズが繰り返されるが、波状的な繰り返しは、否応なく聴衆をひきつけていくのだろう、そして、最後のyes, we can!  という高揚したキャッチフレーズに結ばれるために。
  演説調の表現は、日本語でも英語でも、頭韻や脚韻を踏んだり、・・・だ!を繰り返したり、独特の表現をするから、英会話の学習には高度過ぎる気がするし、日常会話になじまないだろう。だが、listeningには、intonaion  があって何となく聞き惚れる効果がある。繰り返して聞いて暗唱すれば、それはそれで身に付くものかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)