2016年8月 7日 (日)

浅田次郎「獅子吼」を読む

短編小説を書くのは「真夏の夢」
 浅田次郎の短編集は「月のしずく」「姫椿」「月島慕情」「沙高樓奇譚」などがあり、いずれも読んだが「草原からの使者」は、タイトルに見覚えがあるが、書棚にないから読んでいないのかもしれない。それで今回、月刊誌の別冊文芸春秋やオール読物掲載の短編種をまとめた「獅子吼」が出されさっそく読み切った。
 冒頭の「獅子吼」を読んだ後、百獣の王・ライオンがテーマだったから、そのまま動物の目線から人間世界、愚かな戦争などを擬人風に語っていくかと思えば、それはそれで完結したものだった。おさめられた短編は、「帰り道」「九泉閣へようこそ」「うきよご」「流離人(さすりびと)」「ブルー・ブルー・スカイ」は、それぞれが置かれた厳しい状況の中で、何とか切り開いていくような、突き放すようでどっこい「人の情」「男っ気」で締めくくられる、浅田文学が収められていた。
 浅田文学の特徴を私は「投網方式」と名付けているが、いくつかの切り口を並べながら、最後は投網を投げ、絞り込んで引き上げるように結末に導き、網の中の魚がなんであったか読者の想像に任せる、という風な趣なのである。
 浅田の小説を読んだ後、長編小説は、なんでこんな小説が書けるのだろうと遠い存在になるが、短編小説なら、ひょっとして私にも書けるかもしれない、と思わせるところが凄い。
 もし私に、ある結末にどんでん返しのような、あるいは“そういうことだったのか”といったオチが見つかったなら、短編小説に挑戦してみようとは思うのだが、生涯、そういう機会はないだろうけれど「真夏の夢」はいつまでも見させてほしいものだとは思う。

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2015年9月 6日 (日)

「火花」を読む

 ある思いが重なる・・・
 芥川賞受賞作の又吉直樹著「火花」を読んだ。
 あらすじは読んで下さいだが、小さな覗き穴から「芸人」の世界を見せられた感じのものだ。背景は売れ筋の「漫才師」をめざす若手芸人の喜怒哀楽の世界であるが、それは芸能の世界だけではなく、文化・芸術、スポーツでも共通する世界ともいえよう。頂点に上り詰めるのはほんの一部、その裾野には‘有象無象’と言ってはいけないが、夢見る人間が無数に広がる世界なのだ。だからこの小説を読む側がどの世界にいようとも「共感・同感」をもって迎えられたのではなかろうか。
 主人公の「僕」は、お笑いコンビ・スパークスの徳永で、ある時、4つ歳上の先輩芸人・神谷(あほんだらというお笑いコンビを組んでいる)に魅せられて弟子入りする。この神谷なる人物は、ある意味では天才的な芸人資質を持っているのだが、世間常識とは相いれない破天荒の生き方の持ち主である。
 神谷は徳永に「俺の伝記を書いて欲しい」と頼み、その日から徳永は神谷との日々をノートに書き綴ることになるが、それ自体がこの小説のシナリオとなっている。そして神谷は借金にまみれて破産し、一方徳永は、漫才師として順調に売れていくのであるが、ある時、相方が結婚することになって辞めると言い出したので、この相方なくして漫才はできないと、僕こと徳永もこの機に芸人の世界から引退する。
 この小説を読んでいく過程で、私は夜間高校の同級生を思い浮かべていた。彼は「オレは詩人になる」と言って、職業を転々としていたし、そうだから高校も転校を続けていたようだった。1年ほど在籍して東京へ行くといって名古屋を去って行った。暫くの間は、手紙のやり取りもあったが、その後の行方、様子は全く途絶えてしまった。
 彼の詩の創作力は、やっぱり目を瞠った、というか私が‘詩というものは、こんな風なものなんだ’と気づかされ圧倒されたのだった。その後の彼の詩を読んでいないが、いつまでたっても私は彼を超えられない、という引け目を持ち続け、それでもなお、詩作を続けているのである。ひょっとしたら「詩作を続けている」ことだけでも、彼を超えているかもしれないと思いつつ。

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2015年7月20日 (月)

BLACK or WHITE

 浅田次郎の新刊を読む
 昨今の安保法制(戦争法案)、特定秘密保護法など、言論の自由が脅かされる状況が差し迫っていることもあって、日本ペンクラブの会長として、マスコミに登場する機会が少なくない浅田次郎である。
 彼が「週刊新潮」2013年10月3日号から2014年7月24日号まで連載し、2015年2月に単行本として著したのが「BLACK or WHITE」である。
 書籍についている帯は、本についてのキャッチコピーなどが刷られた帯状の紙のことであるが、それによれば「あのバブルの夜、君はどんな夢を見ていた?」「経済の最前線で夢現の境を見失った商社マンの告解がいま始まる。近代日本の実像に迫る渾身の現代小説」「・・・三代続く商社マンだった彼の輝かしい人生を暗転させた美しい悪夢、白い夢と黒い夢、そしてその果てに見たこの国の本性を――」「‘夢を見なければ人生の三分の一は空白だ。それは罪だと思わないか。’」
 元満鉄理事の祖父を持ち、商社マンの父から莫大な遺産を引き継いだ三代目商社マン・都築君が、その営業活動の旅先で見た「白い夢と黒い夢」を「私」に聞かせるのである。何故か出張先のホテルではいつも白と黒の枕が用意されていて、結局どちらの枕も使うことになって、疲れた体をベッドに沈め、「黒い夢、白い夢」をみるのである・・・、それが「夢か現(うつつ)か」わからないままに。
 夢を見る場所は、スイス・レマン湖、南洋のパラオ、インド・ジャイプール、中国・北京そして京都。
 私が感じた圧巻は、北京での夢・現。中国が改革・開放経済で急成長していく初期段階で、商社マンとして成果をあげられない、同僚に出し抜かれるなどして窓際に追いやられた都築君。だがある時、当時としては未開の地・中国へ、‘見聞’程度で追いやられる。ほどなくして、国家的に展開される経済成長策に乗って、中国市場が第一級の経済活動拠点となっていく。起死回生の思いで商談をまとめいく都築君であるが、その陰には、現地で雇った優秀な若いスタッフの存在があった。その中国人スタッフにすっかりほれ込み、商社として、商社マンとしてのノウハウを伝授していくのであった。
 そしていよいよ、中国市場の拠点として大きく飛躍しようとするその日、その中国人は忽然と姿を消してしまった。彼こそ中国人民軍の現役の陸軍大尉であった・・・、つまり国家的・産業スパイだったのだ。都築君の立場は・・・。
 それからラストの京都では、白い夢だったか?
 浅田は、舞台をバブル経済においていて、その実像を都築君の夢として語らせてはいる。それはそれとして、浅田が語るもう一つの舞台は、「‘夢を見なければ人生の三分の一は空白だ。それは罪だと思わないか。’」と言う所にある気がする。小説家としての浅田次郎の人生は、小説の世界と私生活、この社会の在りようが混然一体となっており、時にそれが「夢か現か」線引きできない空間に立ち入ってしまうこともあるといっているのではないか。
 ひょっとして私たち多くの民衆は、そんな世界に浮遊していて、悪政「アベ政治」も「夢か現か」わからないままでいる・・・。それでなくても「夢であってほしい悪夢と、現実となって見せてほしい美しい夢」は、人間の「見果てぬ夢」ではなかろうか。

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2014年10月23日 (木)

詩とファンタジー・第28号

 特集・加藤登紀子
 季刊誌「詩とファンタジー」の第28号・秋耕号は10月19日の発行であった。今号は、「歌手生活50周年記念・加藤登紀子の歌と詩の世界」と題して、登紀子が歌った数多い中から「一人寝の子守唄」「百万本のバラ」など5曲の歌詞、次女・Yae(ヤエ、シンガーソングライター)との「母娘対談」、寄稿は、医師・鎌田 實、歌手・MISIA、漫画家・松本零士、画家・田村能里子。中でも「母娘対談」は読ませた。
 余談だが、知人に携帯電話のメールアドレスに「hyakumanbonnobara」を使っている人がいる。以前から気になっていたのだが、ひょっとしてこの加藤登紀子の歌から拾ったものかっも知れないと思った。今度会ったら聞いてみよう。
 今号のもう一つは、「詩とファンタジー賞2013-2014」を選ぶ大賞・優秀賞の候補作品10作品が掲載された。審査員は、イラストレーターの宇野亜紀良氏と山口はるみ氏に加えて読者からの投票が加味される。
 投票する気はないが、どんなものか一通り読んでみた。これまでは何となく若い人たち、それも女性の作品が多いとばかり思っていたが、候補作品は、年齢はわからないが、なんとなく老若男女が入り混じっている感じがした。どうも予断があったようだ。しかし、私が書く詩、惹かれる詩とは別世界という感じはやはり残った。そこでさらに思った。詩であれ、小説であれ、イラストであれ芸術の世界すべては、その人の感性と掘り下げで成り立っているのではないか。掘れば掘るほど闇は深まり、東も西も、自分の立ち位置すらわからなくなる。その不安と失望感で多くの人は、掘るのを止めて後退りして、‘陽だまり’に安息を求めがちだ。
 この種のことは、文化芸術の世界ばかりとは言えないだろうが、たとえ浅くても、硬い岩盤にあたろうとも、少しでも掘り下げることができたなら、少なくとも「鉄の暴風」に耐えられる壕にはなるのではないだろうか。

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2014年8月21日 (木)

一冊の本の行方


 浅田次郎の‘新選組’の一つ
 読みかけ中の一冊の本の行方が判らず、探しているうちに1か月が過ぎた。見当たらないことに気が付いた当初は、厚みのある本ゆえ、何かに紛れることはなく、バックの一つに入ったままであろうと‘本気’で探さなかった。あっ、「本気」というのは「本の気持ち」ということなのか、とふと思ったりして・・・。
 それで部屋の隅々、書類、バッグの中まで探したが見当たらず、家人に聞いても知らないという。1か月の行動を振り返って外出した日の行く先について考えてみた。有力なのは病院で、待ち時間が多いので必ず本を持っていく。そこで病院に問い合わせたが、該当するものはないとのことだった。残るは、通院途中のバスの中?ひょんなところから出てきたり・・・。
 その本は、浅田次郎著「一刀斎夢録・下」で、新選組三番隊長斉藤一の‘血風録’である。元自衛隊員の浅田次郎にとって新選組は、何か重なり合うところがあるのか、新選組は彼のテリトリーの一つである。「新選組読本」まで著している。
 私は、もともと「鞍馬天狗派(勤皇派)」としてマインドコントロールされてきたので、近年の新選組ブームにあっても、近藤であれ、土方であれ、沖田であれ、好きになれなかった。斉藤一然りである。だが、浅田次郎の「壬生義士伝」を読んでから少し変わった。南部・盛岡藩脱藩・新選組の吉村貫一郎の物語である。元々藩道場の代稽古を務めた腕の持ち主。新選組に入隊してもすぐにその腕を見込まれるのであるが、入隊の動機が‘金目当て’であるから、周囲から‘守銭奴’と陰口をたたかれる始末。新選組らしからぬ人物なのである。
 ではなぜ彼は脱藩-新選組-金亡者なのか。そこには下級武士の貧困の実態があって、吉村は藩の俸禄だけでは一家は食べていけないと、脱藩して京にのぼり、金策してそれのほとんどを郷里に送り届けていたのであった。すべて、南部に残してきた妻子のため、武士の面目、まわりの侮りなど構っていられなかったのだ。だからと言って、新選組隊員として役割は怠らず、鳥羽・伏見の戦いにも参加、傷ついて大坂までたどり着き、盛岡藩の屋敷で腹を切って果てる。妻子への送金を託して。
 で、斉藤一であるが、坂本竜馬を切ったのは俺だ、みたいなところから、隊内の粛清に至るまで、どれだけ人を斬ったかの話ばかりであるが、その後半、仕上げを浅田流にどうまとめるか、それを知りたいために下巻の行方が気になるのである。1か月たって出て来なければ、買い求めることにする。ちなみに、「壬生義士伝」では、明治になって、吉村貫一郎の娘夫婦と、老いた斉藤一が出会う場面がある。お互いの関係は知らないまま、名乗らないまま。
 とここまで来て、偶然にも「壬生義士伝」を思い返したことと、明日からのピースサイクル「六ヶ所行動」と、そのあとの、東北被災地の見聞とが地理的に重なることに気がついて、偶然にして、特段関係なしと思いつつ、ちょっと、なんだかうれしい気分になった。

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2014年7月20日 (日)

詩とファンタジー・夏響号

 やなせたかしのあと
 バックナンバーの表紙を見て見ると、2013年秋栞号(10月19日発売)までは、その表紙絵をやなせたかしが描いてきたが、やなせ氏死去で2014年冬思号(1月19日発売)から、宇野亜喜良が担当になったようだ。
 この宇野亜喜良のイラストが続くとなれば、これからが楽しみである。また投稿詩の選考には、やなせに代わって編集部と三木卓(みきたく)があたるようだ。三木卓という名前は知っていたが、どんな詩人だったのかまるで知らない。書棚を探ってみたら、思潮社発行の「現代詩体系②」の中に、鮎川信夫、関根弘、谷川雁、那珂太郎とともに列せられ、1967年にH氏賞を受賞した詩集『東京午前三時』が集録されていた。ざっと読んでみたが、詩というよりなんだか小説を斜め読みしている感じであった。もう御年79歳であり、それだから「詩とファンタジー」の詩の世界と同居できるのか、そもそも‘感性’に年齢は関係ないといえるのか。どちらにしても選考にあたっては、やなせたかしと の違いが、号を重ねるごとに出てくるような気がするが、そこまで読み切れるか。
 最終頁の「編集室だより」では、編集子の一人が「特定秘密保護法、集団的自衛権・・・なんとなくきな臭い時代に、詩とファンタジーとはいかにも頼りなげな気もするが、想像力を鍛え・・・ペンは剣よりも、である」と書いている。大手の新聞や雑誌類の多くが、すでに凌駕されている今日、果たしてペンは、というよりパソコンやスマホの「指先」は、大量情報の意図的垂れ流しと情緒的で朝令暮改のような詭弁を弄する時の政府に対して強いといえるか、と言ってみても始まらないが。
 「・・・想像力を鍛え」はその通りで「感性を磨き」そして「足腰を鍛え」、老若男女「体を鍛えて」この時代を生き抜き、切り開くほかないだろう。

 

 

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2014年7月12日 (土)

浅田次郎著「一路 上・下」を読む

‘武士’の本文、一所懸命について
 ‘束の間の梅雨の晴れ間なれば、読書にて、心を洗おうてみようかの’てな気持ちになって読み始めたのは、浅田次郎著「一路(いちろ) 上・下」であった。
 小野寺一路、西美濃田名部郡・7500石の旗本、蒔坂左京大夫のお供頭、といってもまだ19歳。実は藩内の‘謀略’で父親が謀殺され、故なく家督を継いだのだが、お供頭の心得一切なしで、参勤交代の江戸行きの一切を任される。
 お殿様以下、総勢80人ほどの行列は、その西美濃から真冬ともいえる12月の中山道を通って、日本橋・蒔坂江戸屋敷までの道中の事件、難事を切り抜けて、江戸まで辿りつくのであるが、浅田小説は常に、その人物にとっての本分、あるいは立場の‘一分(いちぶん)’をしっかり押さえている。
 一言で言えば「武士道」であるが、幕末(徳川14代の頃)のこの時期、武士階級・大名は時勢に流され、借金にまみれ、その矜持は失われつつあり、参勤交代の道中も形ばかり、いや名ばかり以下に簡略されていた。そんな中一路は、父祖伝来の「御供頭心得」なるものを手にして、何も知らぬが故の「教科書」として、その心得を全うしようとする。それは、参勤交代とは実は「行軍」であるとして、「御供頭心得」とは「行軍録」であったのだ。関ヶ原の合戦以降家康の幕政に則った、いまだ戦国の余燼残るころの「行軍録」であるから、その行列は、戦場(くさば)に向かう武装隊列であると同時に、幕末のころには「錦絵」にしか知られることにない、きらびやかな行列でもあった。毛槍、頬髭の揃いの奴、幟、家紋入りの長持ちのほか、お殿様のお駕篭は付くが、御手馬2頭が付き従う、といった具合。
 もう一つは、お勤めに一所懸命の一路には、次々と人が集まってくる。お家乗っ取りを企む家臣団の一部を除けば上から下まで「忠義」に生きる臣下たちであった。それぞれに「矜持」を持ち、艱難辛苦に耐え、不平、不満を言わず落ちこぼれなく全うしようとするのである。
 それだけでは筋は短調であるからして浅田は、お殿様、蒔坂左京大夫を稀代の‘うつけ者’を装わせる。実はこの殿様、時勢を読んで幕閣に入ることの危うさを知っていたのである。その聡明さは、ごく一部のものしか知られていなかった。将軍家茂公もその真偽を知るために、ひそかに御庭番を潜りこませていた。
 ‘うつけ者’を信じて疑わない家老の一人(実は叔父)が、道中の失態を持って、蒔坂左京大夫を隠居せしめ、それでなければ、暗殺をも企てるのであるが、ついに露見、しないまま葬られる・・・。
 まあ、上下巻だからもっともっと盛りだくさんなのだが、時代が幕末にさかのぼっても、作家には、現代と全く無縁のストーリーなど書かないと思う。‘武士’の本文、一所懸命について、を考えるとき、私(たち)の本分とは何か、一所懸命の「一所」とはどこか。「一生懸命」なら、自らのことのみに落として考えられないこともないが、「一所」が大事ではなかろうか。

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2014年5月 2日 (金)

「きけ わだつみのこえ」を、今一度

 私の思いを重ね合わせれば・・・
 私の購読紙は毎日新聞、たまたま息子の購読紙中日新聞4月29日付朝刊が、階段横に置いてあって、それを手にしたのが昨日のこと。そこには「学徒兵もう一通の遺書」、「わだつみのこえ」獄中で真情、というトップの見出しがあって、私は思わず手にしたのだった。
 「・・・中でも特に感動的な内容で知られる木村久夫(1918~46年)の遺書が、もう一通存在することが本紙の調べで分かった。」(東京新聞も同じ)
 改めて書棚から「きけ わだつみのこえ」(岩波ではなく、光文社刊昭和35年12月10日 12版発行)を取り出して読み返した。その遺稿は、他者を圧倒する約17ページにわたっていた。
 新聞は、さらに「もう一通の遺書」は手製の原稿用紙十一枚に書かれており、遺族が保管していた。父親宛てで、末尾に「処刑半時間前擱筆(かくひつ)す(筆を置く)」とあった。
 また注釈に、<「きけ わだつみのこえ」> 東京大協同組合出版部が1947(昭和22)年に出版した「はるかなる山河に-東大戦没学生の手記」を全国の学徒に広げ、49年に刊行された。82年に岩波文庫に入り、改訂を加えた95年の新版は現在もロングセラーを続けている。74人の遺書・遺稿を収録。木村久夫の遺書は、特別に重要なものだとして「本文のあと」に掲載されている。とあった。
 24歳半ばで、学業から引き離され入営、28歳でB級戦犯として処刑され、命を絶たれた。
 「大阪府吹田市出身の木村は京都帝大に入学後、召集され、陸軍上等兵としてインド洋・カーニコバル島に駐屯。民政部に配属され通訳などをしていたが、スパイ容疑で住民を取り調べた際、拷問して死なせたとして、B級戦犯に問われた。取り調べは軍の参謀らの命令に従ったもので、木村は無実を訴えたが、シンガポールの戦犯裁判で死刑とされ、四六年五月、執行された。」
 命令を下した将官たちが罪を逃れ、命令に従った兵隊が罪を問われた。木村は手を下していないことを、英文で連合国側に訴えたが、判決後であり、上級審もないことから聞き入れられなかった。そのいきさつは本書に詳しい。
 学徒兵に限らず、多くの有為な人材を無謀な戦争で喪ったことは、それ自体が「戦争犯罪」であろう。
 木村は、自らの死後に思いを馳せる一方、それを目にすることのできないことも悟るのであるが、時を選ばず誰もが一度は思い至ることであろう。そして、こうも書き残すのである。
 「しかし、この日本降伏が全日本国民のために必須なる以上、私一個の犠牲のごときは忍ばねばならない。苦情を言うなら、敗戦とわかっていながらこの戦を起こした軍部に持っていくより仕方がない」と、軍部を批判するが、この軍部批判は他所でも書かれていて、この遺稿が瞠目される所以でもある。その一方で「しかしまた、さらに考えをいたせば、満州事変以来の軍部の行動を許してきた全日本国民に、その遠い責任があることを知らねばならない。」と書く。この諦観は、死を前にして初めて出てくるものであろうか、いやそうではない。
 この戦没学生の手記を読めば、いや読まずとも、そうした歴史に目を向けていれば、戦争の犯罪・悪行、愚かさを忘れなければ、おのずと知れることである。そしてそれは現在に通ずることでもある。
 私がこの書を手にしたのは、1961年2月11日というメモが残っている。16歳であった。私の歩んだその後の半世紀余の道は、大きくは踏み外していない一方、凡庸な域を出ていないだろう。それでも、それでも私は「古希を迎えて」この「きけ わだつみのこえ」の声を聞く耳を持っていると自覚している。

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2014年3月 5日 (水)

浅田次郎著「終わらざる夏 上・下」

 久しぶりに“読書”に浸る
 つい先日、断片的に読み継いでいた足立力也著「緑の思想」(幻冬舎)を地下鉄車内で読み終えた。行きつ戻りつの読書効果は拾いものだったが、新書を半年がかりで読んだことになる。それが契機になったかどうか定かではないが、一度は読みかけた浅田次郎著「終わらざる夏」を2年ぶりかに紐解いた。
 前にも触れたが、2011年3月11日以後、私の中に得体しれぬ変化が起きて、その一つが「読書」から離れたことだった。様々な運動に関する資料は読み込むことはあっても、それは原稿書きの必要性に迫られたものだった。新聞の連載小説も手放した。端的にいえば集中力が希薄になったということだが、その反動として、“心そこにあらず”のまま、何かに没頭したりした。「ミニ詩集」や「史跡めぐり」のハイキングとそのガイドブックづくりがいい例かもしれない。
 「終わらざる夏」は、千島列島最北端、カムチャッカ半島と向き合う日本領・占守島(しゅむしゅとう)での、対ソ連戦をめぐる浅田次郎の長編小説。まだ全体の3割くらいしか読んでいない。主たる登場人物たちの出生から“奇妙な招集”までの経過と彼らの出会い、そして、軍の意図不明な派遣先占守島に向かうところまでが今朝の頁。
 当時の招集年齢は40歳までだったが、「本土総力決戦」に備えた師団編成では、もうそのような若者は枯渇していた。そこで招集年齢が45歳まで引き上げられ、その一人が45歳まであと1か月という出版社の英語専門編集者。そして日中戦争で3度応召し金鵄勲章を受けたが、銃の引き金を引く右手には2本しか指が残っていないトラック運転手で、歴戦のつわものの軍曹。医高専出身だが優秀さを買われて東大医学部に派遣されていた間に召集された医師の、この奇妙な組み合わせの3人を中心に話は進んでいくようだ。
 例によって浅田の筆致は、巨体で剛腕、傍若無人、しかし所作は単純であっても心根に優しさをもつ“鬼軍曹”中心に展開していく。
 書棚には、まだまだ私の手が伸びてくるのを待っている本が20冊ほど積まれたままである。今の時点で“読書三昧”を望んでいるわけではないが、テレビを見ているくらいなら、映画と読書に浸りたいものだ。

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2013年12月18日 (水)

小説「桶狭間 天空の砦」を読む

 お百姓から見たもう一つの合戦
 1か月余り、時々開いて読み続けてきた阿郷 舜著「桶狭間 天空の砦」を読み終えた。
 間を置いて読んだこともあって、どんな内容なのかを書き留めることができないが、かつて「桶狭間古戦場巡り」のガイドペーパーをつくる折り、“ここは、どうしてそうなったのかな”という疑問符をつけておいた個所がいくつかあった。この小説を読んで、それが史実かどうかは別にして“なるほど、そういうことか”というくだりが数か所あって、それが面白かったのであった。
 1560年5月の「桶狭間の合戦」で、大大名・今川義元が、尾張のうつけ者・織田信長に討たれたというのは史実である。だがあの「大番狂わせ」がどのように起きたのかを記した著作は多々あるが、多くは義元の油断・驕りとか、豪雨が味方したとか、信長の乾坤一擲の大勝負が功を奏した、などである。だが、一人の修験者・覚應と間米衆(まごめしゅう:現豊明市と緑区の境界辺りの貧農か)の“工作”があってなしたという視点は初めてのものではないだろうか。
 私が何故?と思っていたことは、①今川軍は、沓掛城から自軍の大高城、鳴海城へ向かうのに、なぜ鎌倉往還(道)を通らず、東海道の大高道・桶狭間道を選んだのか。②大軍の今川軍が、狭い山あいの道を細く長く進軍すれば、敵軍に横からの攻め込まれる危険性はわかっていたはず。③信長が払暁、清須、熱田を発って丹下砦入り、さらに軍を進めて中島砦入ったとき、織田方の丸根砦、鷲津砦は既に松平家康によって落とされており、大高の軍勢が鳴海勢700~1000名に加担してなぜ鳴海城から出兵しなかったのか。織田軍を背後から攻めれば、桶狭間山周辺に展開していた数千の今川軍と挟み撃ちに出来て、織田軍はせん滅されていた。④中島砦を出た織田軍は、なぜ探知されずに、今川本陣近くまで接近出来て、今川本陣を急襲できたのか。
 本書による筋書きは、①覚應と間米衆は工作して、鎌倉往還(道)を封鎖、今川軍を東海道、大高道・桶狭間道へ誘導した。今川本陣のある桶狭間山の狭間に、ため池の水を流し込んで土石流(蛇抜け)と化し孤立させ、その今川本陣へ織田軍がなだれ込んだ。②義元は、“わが首一つに狙い定め、織田軍が突撃してくる”ことを予測して、本隊の周辺に自軍を配置して、いわば、自らをオトリにして織田軍を誘い込み、包囲せん滅する作戦を描いていた。③今川軍、5千の兵をもって一軍とし、それぞれ展開していた。大高城、鳴海城は織田軍の攻撃を予測して城の守りを固めていた。それぞれが自立していて連絡を取り合うことに乏しかった。大高城と鳴海城の間には扇川(黒末川)があって、しかも河口近くは干潟が広がり、簡単には往来できなかった。④まさに天が味方したのであろう、梅雨時の豪雨が時を窺うようにしてその一帯に降り注いで織田軍を隠した。それでも、織田の動きを今川方は察知していたが、“作戦通り”という読みの中にあった。
 他所(よそ)から流れ着いて、村立てが出来ていない流浪の民-極貧の間米衆は、周辺の山村が今川方に組する中、ぎりぎりまで情勢を読み、村の行く末を考えた時、覚應の提案を受け入れて、織田方に組することを衆議一決する。そうした間米衆の置かれた状況、暮らしぶりを細かく描くことによって、この小説は「百姓たちの、もう一つの桶狭間合戦」とも言えるかもしれない。

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