2009年4月 8日 (水)

 兄弟・姉妹の写真

 少ないのに驚く
 「詩とファンタジー」の第6号に、投稿詩「誕生日」というのが掲載されていて、誕生日プレゼントを妹が兄にせがむ情景がその書き出し。
・・・兄を困らせ 思案させ/二人で行った 写真館  家族写真は 多いけど/ご兄弟とは 珍しい/受付嬢に 驚かれ/兄は頷き 苦笑した ・・・
 イラストは宇野亜喜良で、瞳の大きい少女が描かれているから、一見して10代の中高生の作品かなと思わせるが、「受付嬢」の一言で年配者と分かってしまう。作者の中村聖子氏は、50代前半の詩歴の長い人のようである。
 それはともかく、兄弟、姉妹で写真館など行きもしないが、思いもしないことであった。旅行や花見、祭り見物にすら行くことはまれで、結婚式か葬儀のときの集合写真、新年会の時などに、稀に撮ることくらいしかない。
 思い返して見ても、私には兄3人がいたが、二人並んで撮った写真があったかどうか思い出せない。多分ないだろう。親と兄弟が一つ屋根で暮らしているころは、我が家にはカメラがなかった時代であるし、私が自分のカメラを手にしたのだって18か19の時だった。そのころは既に、兄弟は別の生活を営んでいたから、連れ立って出かけることなどなかったわけだ。
 息子夫婦に子供が二人いて、どちらかの誕生日には写真館に連れて行って、姉弟揃いで写真を撮ってくるが、中学生になる頃には、それもなくなるかもしれない。どうしてだか、それはよくわからないが、生活も行動も意識も、内(家)から外に向けての割合を多くしていくからでもあろう。
 詩に書かれたような光景は、作者の遠い昔の、ひそかな願いだったかもしれない。とすれば、慕っていた兄は既に、先に逝ってしまったのかもしれないと、勝手に想像してしまった。

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2008年9月18日 (木)

芥川賞「時が滲む朝」を読む

 天安門事件を舞台に
 暫らく積んであった、第139回芥川賞受賞作、楊 逸(ヤン イー)の「時が滲む朝」を読んだ。
 1回だけの中断をはさんで読みきったのだから、“おもしろかった”ということができよう。
 舞台は天安門事件の前あたり、男子高校生の二人、梁浩遠と謝志強の大学受験の話から始まる。貧しいながらこの二人、一生懸命勉強して大学へ入学を果たすが、間もなく天安門事件に巻き込まれていく。
 読み終えたとき、浅田次郎の「蒼穹の昴」を思い出したが、スケールではとても及ばないものの、大学=科挙を目指す若者のひたむきさ、純粋さ、時流との格闘など類似した点があった。
  また、おはじきのように、最初に散りばめた登場人物を、一つ一つ手繰り寄せて、終盤で結び合う手法も“浅田的”だなと感じたが、浅田ほどの長編ではないため、その結び合う後半の展開が弱いということがいえる。
  小説は、登場人物が魅力的であることが大切であろうし、読者が自分と重ね合わせて読み進む展開が必要だろう。また、時流に対する作者の目線をどう感じるか、読者にどう感じさせるかも、重みを増す要素に違いない。
  そうしてみるとこの「時が滲む朝」は、私にとっては比較的、受け入れやすい小説だったかもしれない。だから、一気に読ませたに違いない。

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2008年9月16日 (火)

詩とファンタジー

 詩とメルヘンの後継誌?
 サンリオ発行、やなせたかし編集の「詩とメルヘン」が終刊となったのが2003年。最終号のあと特別号「惜別永久保存版」が8月に出て、そこに「いつかまた、きっと、どこかで」が記されていた。
 昨年10月に、かまくら春秋社から「詩とファンタジー」という季刊雑誌が発行されたことを知ったのは、数週間前だった。同じ、やなせたかしの手になる編集ゆえ、殆んど変わらない編集内容であった。違いといえば、やなせ自身が高齢になり、やや試みに新鮮さが薄いということと、月刊誌には耐えられなくなっている点であろうか。だが、表紙絵や挿入文にはまだ「若々しさ」を感じる。
 採用された投稿詩に絵がつけられるが、画家は著名、新進いずれも力のある人たちのようだ。そのうち内田新哉は私の好きな画家の一人である。レギュラーらしい宇野亜喜良もいいなあ。仮にこの二人に絵をつけてもらおうと詩を書くなら、内田新哉は、南欧の夏の風景をイメージした題材を選び、宇野亜喜良は、個性的な女性像をイメージすると採用されるかもしれない。いや、これでは発想が逆転だ。“媚びる詩”に、ろくなものがあろうはずがない。
 ともあれ、バックナンバーを取り寄せるかどうか、目下思案中。 
(追い書き)

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2008年4月29日 (火)

岡部伊都子さん死去

 いつか読みきりたい随筆集
 もう10年以上前だと思うが、毎日新聞連載で彼女の随筆が目にとまり、暫らく読み続け、その後「岡部伊都子集・全5巻」「加茂川のほとりで・全4巻」「沖縄の骨」を続けて購入した。
 しかしいずれも、最初の部分を少しばかり読んだだけで、そのまま本棚におさまったままだった。もっとも“読んでみたい”という思いはあって、その本はいつも目につくところに置いてあった。
 読みきっていないので、しかとは言えないが、当時は“現役のバリバリ”で飛び回っていたから、運動関係本や月刊誌、チラシの類いばかりに目がいって、彼女の著書を“癒し系”と思いこんでいたフシがあり、つい、手を出さなかったのではないかと思う。そのようにしてあれから10数年たってしまった。
  1980年代に「米軍の核巡航ミサイル・トマホークの極東配備」反対運動が起きて、それにいち早く加わった私は、その全国会議が、しばしば京都で開催されたので、京都へ行く機会があった。そして、その「反トマ京都会議」を主催していた代表が吉田(佐方)満智子さんで、岡部さんはずっと京都にいたと思うが、それもあってこの二人をよく重ねていたことを思い出した。
  吉田さんは数年前に亡くなられ、お顔を拝見しないまま岡部さんは逝ってしまわれた。

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2008年4月12日 (土)

小説を読む

 新聞の連載小説の難しさ、おもしろさ
 新聞のコーナーか広告の中の一文かは忘れたが、「小説は10冊同時に読め」というようなことが書いてあったように思う。プロの小説家になりたければ、ということなのだろうが、思いの外“まあ、そうだろうな”と合点していた自分がいた。
 そして、「10冊はまるでジャンルの違うものがいいだろうな、純文学、時代小説、歴史小説、経済小説、推理小説、ミステリー、SF、エンターテイメント、ハードボイルド、児童文学・・・」と付け加えてみたが、私には該当しないものが多い。あえて言えば純文学?現代小説?エンターテイメント?とは思うものの、自分で読んだ本がどのジャンルに分類されるのかよく分からないという体たらくである。
 小説という限定を取り去れば、エッセイや同人誌の類い、社会運動関係の資料・論文・報告書など他の文章に接することは結構多いが、これでは意味が違うか。
 浅田次郎の連載小説が単行本として出れば、見逃さずに買い求めて読むようにしているが、あとは何となく・・・と言う感じである。新聞の連載小説は、ここ数年欠かさず読んでいる。朝刊、夕刊、日曜版の3本である。わが家は毎日新聞だから、現在朝刊は、辻原 登の「許されざる者」(今日で270回)、夕刊は、吉田修一の「横道世之介」(〃11回)、そして日曜版は、石田依良の「チッチと子」(〃6回)である。
 ところが、3月、4月に始まった新連載「チッチと子」と「横道世之介」がおもしろくなくて、1回目を読んだきりで止まってしまっていた。しかし、このまま1年近く、連載小説を読まずに置くのがどうにも癪で、今晩その二つを1回目から読み始めて、結構スムーズに読み終えた。
 そこでふと思った。日曜版は週1回であるが約10枚のボリュームがあり、1回で1つのエピソードを織り込むことも出来ないわけではない。阿刀田高の連載は、1~数回の読みきりの短編小説であった。だから、1回の中で何かを惹き付けさせ、次回につなげる楽しみがないと1回きりで止まってしまう可能性がある。
 一方朝夕刊は2枚半程度あるから、2~3回抑揚のない文章、連載が続くとこれまた止まってしまう。そしてどちらも連載であるから、次回まで、できるだけ筋書き、イメージが残っていないと(読むほうからすれば、残しておかないと)継続することが難しくなる。連載小説というのは、そういう性格なのだなと思ったのである。(当たり前か)
 だからいえるのだと思うのだが、新聞の連載小説で、“自分の好み”が、案外分かるのではないか、あるいは新しい世界、領域、作家を知る機会にもなるものだなと。

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2008年2月25日 (月)

連載小説「斜陽に立つ」が完結

 乃木希典の生涯を描く
 以前にも触れたが、毎日新聞の日曜版の連載小説、古川薫の「斜陽に立つ」が、昨日の24日で完結した。70回を数えたから1年4か月の連載であった。
 この古川という作家を私は全く知らない。初めて接した作家であるが、1925年、下関生まれ、1991年に「漂泊者のアリア」で直木賞受賞、代表作に「高杉晋作」「花も嵐も」とある。
 2006年10月1日の第1回の書き出しが、「六本木ヒルズという東京の街は、未来都市の模型を突然ここに持ってきて据えつけたような集落である。」次に「この地は、吉良邸討ち入りに加わった元赤穂藩士四十七人のうち、十人が預けられた長門長府藩毛利家麻布日ヶ窪上屋敷の一部である。・・・」と続くのだが、要は「乃木希典は長府藩の馬廻り士・乃木十郎希次の第三子として・・・この麻布藩邸で生まれた。・・・・」とあって、この小説の主人公、乃木希典生誕の地を紹介しているのである。
 最終回では、明治天皇が1912年(明治45年)7月30日に「崩御」して、1912年(大正元年)9月13日、東京・青山の帝國陸軍練兵場(現在の神宮外苑)において「大喪の礼」が執り行われたその日に、妻静と共に自害して果てた(後に殉死といわれた)ところで終るのであるが、その結びの文は、「憂い顔のままに乃木希典は、斜陽に立つ孤高像を今の世に遺した。自敬に徹したこの最後のサムライにとって、世上の毀誉褒貶は無縁のざわめきでしかなかった。(了)」
 この連載小説を読んでいて、タイトルの「斜陽に立つ」の「斜陽」の意味を考えてきたが、何となくわかるようで、しかし、やっぱりうまく自分にも説明できない。それでもあえて私見を記すなら、恐らく日露戦争の「旅順口攻略」で、多大な犠牲を出したことをもって、「勝戦の将」乃木の奮闘、奮戦に対する後光ではなく斜陽は、「無能な将軍」と非難、揶揄してきた当時の世論そのものではないだろうか。あるいは脱亜入欧の考えが広まるに連れ、「武士道=サムライ」が没落していく、その時代背景であろうか。
 乃木希典という人物にそれほどの興味を持ったわけではないが、児島襄の「日露戦争」と同時進行で読む機会もあったので、少なくともそこの部分だけは、おもしろく読めたし、児玉源太郎との関係もおもしろく、更にわが内なる史実の修正と付加にも一役買ってくれたのは収穫であった。5月に単行本として、毎日新聞社から刊行の予定とか。

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2008年2月 4日 (月)

「日露戦争」を読む・5

 奉天大会戦で、日本は勝利したのか
 日露戦争・第4巻は、1905年(明治38年)2月から6月までの戦史である。それは陸軍の「奉天大会戦」と海軍の「日本海海戦」それである。
 ロシア陸軍・極東軍(満州軍)の本体30数万余が、奉天(現在の中国遼寧省瀋陽)を中心に防御陣地を構築して、25万の日本軍を待ち構えていた。時は2月、零下30度にもなるという極寒の地での野戦である。
 戦場の東側は山岳地帯で、日本軍の陽動部隊(鴨緑江軍)が峻険な山岳地帯の雪中行軍と戦闘で苦闘し、50キロ離れた西側(日本軍左翼)では、旅順口攻略で損害著しくしかも疲弊した第三軍(乃木軍)が、ロシア軍の背後に回りこむべく迂回作戦に参加していた。正面は東から第1軍、第4軍、第2軍が布陣した。
 この57万とも60万とも言われる日露両軍がぶつかった「奉天大会戦」が、それまでの戦争になかったほどの世界史的大会戦といわれ、日本軍が「勝利した」とするその実際はどうであったか。少なくとも、この小島襄著「日露戦争」と学研「歴史群像シリーズ 日露戦争」を読む限り、戦傷者(戦死者)捕虜数では、ロシアが上回り、ロシア軍が奉天から撤退した(日本軍が占領した)点において日本軍の勝利といえるかもしれない。
 しかし、ロシア軍の撤退が戦略的撤退で、しかも撤退作戦そのものは成功し、日本軍に追撃(初期目的のロシア軍殲滅)を許さないほど損耗させた点と、ロシア領は一坪たりとも占拠されていないという点で、ロシアの敗戦が確定していないまま、膠着状態に入ったのである。
 事後の論評では、日露両軍の地上戦は、日本軍が旅順口を陥落させ、奉天戦でロシア軍を満州からほぼ追い出した点では大きなポイントを稼いだが、一方ロシア軍には「勝利」といえる有効なポイントはなかった。しかし、「判定時」に、疲弊しきった日本軍の姿、ポイントは取れなかったが余力がありそうなロシア軍の姿を見たとき、世界の目には、日本の「優勢勝ち」ではあるけれども、あと半年か一年継戦していたら逆転もあったかもしれないと見たであろう。
 結局、講和に持ちこみ、日露戦争で日本が「勝利した」というには、いまだ健在のロシアの「バルチク艦隊」の撃滅を待たねばならない。
 それにつけても、零下30度になるという極寒の地で、小銃を構えての戦争とはいったいどんなものなのか。このころの戦死者の半分は機銃弾、小銃弾によるといわれる。歩兵は、かなりの重量の防寒着に軍装備だけでも体力は消耗するであろうから、どのくらいのペースで歩くことができるのだろう。凍えた手、指先で銃が扱えるのだろうか。こんな条件下で双方が撃ち合ったのであろうが、私には全く想像もできない。
 戦闘時だけでなく、負傷兵の介助は?資材の運搬は、工兵、補給部隊だけだったの?食事は?水分補給は?髭剃りは?着替えは?排便は?内地に手紙を書くことができたの?
 “撃たねば、やられる。勝たねば生きて帰れない。早く終わってほしい、温かい味噌汁が飲みたい、風呂に入りたい”そんなことを弾込めのわずかな時間に思い浮かべては、引き金を引いていたのであろうか。 
(続く)
 <風邪かな?体調いまだ回復せず>

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2008年1月19日 (土)

「日露戦争」を読む・4

 203高地陥落と多大な犠牲
 作家の関川夏央が、伊藤桂一著「螢の河」を紹介しながら、最後にこんなことを書き記している。「戦史研究を怠り、軍事知識を持たぬ平和学はむなしい。そして、死者たちのことを忘れた平和も」と。(毎日新聞1月18日夕刊)
 たったこれだけのコメントでは、氏の言わんとするところを理解できるはずもないが、つまみ食いして得たヒントで、勝手解釈してみたい。
 関川のような視点を持って読み始めたわけではないが、児島 襄著「日露戦争(1~5巻)」は、まさしく「戦史」であり、陸上にあっては、日露両軍60万~100万の将兵が、中国の旧満州の極寒極暑の地で繰り広げた死闘の実像を書いている。もっともこの著でも、両軍の作戦行動の時間的推移を追うという形で、戦場の鳥瞰図を書いているようなところがあって、必ずしも、前線の一兵卒から見た戦場、例えば恐怖と異臭、死臭の中の塹壕、撃ち斃される戦友、飛び散る肉片、敵味方の戦死者を弾除けに積み上げる敵前での攻防、白兵戦といわれる格闘。傷ついたまま凍死する負傷兵・・・に詳しいわけではない。
 これらむごたらしい戦争の実像を直視し、わが身に引き寄せ恐怖し、反吐を吐き、怒り、悲しみ、この不条理に身も心も燃え立たせてこそ、反戦思想、平和運動も“本物になりうる”そういうことであろうか。
 日露戦争の陸上戦は、戦争映画にも取り上げられることも多い、「203高地の攻防戦」が、「ハイライト」となっているが、すでに見てきたように、日本軍が、遼東半島、朝鮮半島に上陸した時点から、「苦戦、総力戦・肉弾戦」という将兵の“消耗戦”が始まっていたのであり、「金州城・南山(なんざん)」攻防戦、沙河会戦、黒溝台・沈旦堡の戦闘でも、予想だにしない犠牲者数に、本国の参謀本部は驚愕し心胆寒からしめられるのである。
 一方別働隊の乃木希典を大将とする第三軍は、旅順口陥落の一点に絞って攻め立てるのであるが、旅順口の戦略的重要性は、ロシア軍がより深く自覚していたのであり、それゆえ“難攻不落”の堅固な要塞となっていたのである。第三軍の乃木も児玉満州軍総参謀長も、当初は東北部からの正面攻撃を主眼として総攻撃をかけた。これは本国参謀本部の203高地攻略作戦と著しく異なっていた。この違いは、守るに有利、攻めるに不利な鉄壁なるロシア側の要塞、地形を前にする前線と、図上からだけとはいえ、陸海含む全軍を指揮し作戦をたて、結果だけを求める後方との違いであろう。
 ともかく、「総攻撃」という名の、味方の屍幾重をも乗り越え、撃ち斃されていくのがこの「203高地」の闘いであった。結局、28センチ榴弾砲など重砲を集中的に浴びせる作戦が功を奏して、203高地を占領し、そこを計測点として眼下のロシア艦隊を砲撃し、全滅させることに成功するのであるが、ある数字によれば、旅順口攻略に後方も含む総兵力は13万余、そのうち戦死者1万5400人、戦傷者4万4000人といわれる。他に戦病死もいたであろうから、当時としては想像だにしなかった犠牲者数であった。
 だがこの数字と同程度のロシア側犠牲者がおり、この先の戦闘を含めて、日露戦争全体での日本側は、6万3千余の戦死、戦病死2万1千余の犠牲者を数えるのである。 
(続く)

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2008年1月 7日 (月)

「日露戦争」を読む・3

 メモ・ロシア人の日本人観
 第3巻の感想がそのままになっているが、とりあえず第4巻に進むことにした。この巻は、「日露戦争勝利」とされる「奉天大会戦」と、ロシアのバルチック艦隊を撃破した「日本 海海戦」が主舞台である。
  それは後日として、巻の冒頭部分は、日露両軍の、奉天近郊で戦線構築のための前哨戦なのだが、その中で、ロシアの満州軍総司令官・クロパトキン大将の日本(軍)人観を述べるくだりがある。クロパトキンは軍人ではあるが、当時のロシア人の見方に興味を惹かれた。
 それを引用すると、
1)日本人は短気である。ゆえに眼前の現象は理解しやすいが、背後または長期の計画は立案も想像も不得手である。
2)日本人は勇敢である。したがって勇敢に突進する以外の行動を嫌い、相手の行動も無視する。
3)日本人は規律が好きである。ということは、何事も上からの指示で動くことになれているので、情報分析、情勢判断を上級者に任せ、上級者はさらに上級者に任せるので、判断はつねに手遅れになる。
4)日本人は利口である。しかし、その賢明さは個人的利益の追求にむけられ、全体のために発揮されることが少ない。
5)日本人は思索することを好む。ただし、思索のための思索であり、現実に活用することを嫌う傾向がある。
6)日本人は体力に劣る。だから長期戦より短期戦を願う。
7)日本人は外国人との交際に不慣れである。外国語習得の熱意もうすいので、清国人を情報活動に活用できない。
 などと述べたとされる。
 あえて論評しないが、現在にも通じる指摘が散見されて、苦笑せざるを得ない。

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2007年12月 5日 (水)

「日露戦争」を読む・2

 寒々しい戦場描写にひるむ
 第二巻の前半部で、遼東半島・大連の北東、金州(きんしゅう)における「金州城・南山(なんざん)」攻防戦で、日本軍は早くも苦戦を強いられ、総力戦・肉弾戦を展開して多くの戦傷者を出した、と前回書いたが、このあたりから読書のスピードが極端に鈍った。
 それは「苦戦、総力戦・肉弾戦」の生々しい描写に、耐えられなくて読むことにひるんだ結果であった。海戦でも砲弾を受けた甲板上の惨状もあるにはあるが、陸上の、堅固なロシア要塞に対する「攻城戦」は、弾薬不足、情報不足による稚拙と読める突撃戦術(これは現地指揮官の責任、能力とは言い切れない)が、いたずらに戦死者、戦傷者の山を築くといった、そんな下りがやるせないのである。
 それにこの先で、あの旅順口の攻防戦でさらにそれが増幅されるという既成事実があるから、余計に読むのがつらくなった。さらに、将校の死にも悲哀がこもる。この時代の戦争は、砲撃戦のあとは歩兵主体の戦争であるから、指揮官が鼓舞してこそ歩兵の士気も上がるという戦場なのである。責任感が旺盛であったであろう中隊長、大隊長の尉官、佐官も第一線の戦闘に立ち、被弾して次々と斃れていくのである。
 もう一つは、過酷な戦場の実態を知らない、知らされない国内世論の、緒戦の「戦勝気分」にも滅入る。多分、その時代に生きていたなら、自分もそんな中の一人だったかなとか。
 さて第二巻では、乃木希典大将率いる第三軍の第1回旅順口の総攻撃と挫折、第二回総攻撃前夜までと、満州へ向けて進軍を開始する第一軍、第二軍、第四軍の「遼陽の戦い」が主舞台である。
 そこで著者の小島襄は、あの旅順口の攻防戦で、想像を絶する犠牲者を出したことで「無能な将軍」というレッテルを貼られた乃木希典の実像を描こうとしている。これは毎日新聞の連載小説「斜陽に立つ」の、古川薫も同じ立場のようである。
 第三巻は、沙河(さか)会戦、旅順口・203高地、水師営会見へと進む。 
(続く)

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2007年11月12日 (月)

「日露戦争」を読む・1

 第一印象 “戦後政治”の原点か
 小島 襄著「日露戦争・全五巻」を読み進めている。
 現在第二巻の3分の1ほどまできているが、第一巻の「開戦前夜」は、国内における主戦論、反戦論、日清戦争後の朝鮮半島、中国大陸、とりわけ「満州」における列強間の争奪と日露両国の衝突、それらをめぐる外交交渉が主であるが、それらを挟んで「八甲田山事件」と「旅順口閉塞作戦」があって、最初の日露「接触」である「九連城戦」まで。
 第二巻の「遼陽会戦」の前半は、「開戦」と日本軍の上陸地点の一つ遼東半島・大連の北東、金州における「金州城・南山」攻防戦で、日本軍は早くも苦戦を強いられ、総力戦・肉弾戦を展開して多くの戦傷者を出した。著者は世界史に残るとされた「旅順口」の戦闘の形を、既にこの闘いで示したと書いているが、つまり、この犠牲が教訓化されなかったということである。
 一方海軍の方は、現行の艦隊を日清戦争とこの日露戦に対して「連合艦隊」として編成、引き続き旅順口の閉塞作戦を続行するが結局失敗、更に全海軍力を日露戦に投入した結果、日本近海は無防備となって、「ウラジオ艦隊」の跋扈を許してしまう。そして最初の海戦「黄海海戦」までが第二巻の3分の1までで、この後旅順口第1回総攻撃、遼陽会戦へと進む。
 さて、この本の特徴は、膨大な戦後資料を駆使して、日露両軍の動きを丹念に追っていく「戦史」であって、司馬遼太郎の「坂の上の雲」といったような文学的なものとは異質である。
 そうしたものから読み取ることができるとすれば、この時代の「戦争」を通して政治的、社会的、外交的な分析、歴史的教訓ではないだろうか。
 そう思ってここまでの読後感を拾ってみると、第一の印象として、「開国、維新、新政府、外交」というこの時代は、一方で「天皇親政、元老政治と帝国議会、政党の誕生、新聞などの世論、封建制から四民平等の国民」という社会が現出してくる時代。その中での「日清・日露戦争」だった。
 次に、日露戦争後の日本の軍部は「日清・日露戦争」を勝利したものとして、益々増長していくだけで「負の教訓」を殆んど見出していないから、第二次世界大戦、太平洋戦争へ暴走し且つ惨敗していったのではないか、ということ。
 もう一つは、少なくともこの明治の時代の外交力は、今では考えられないほど凄いものだという印象である。第二巻では、戦費調達のいきさつにも触れている。
 視点を変えてみると、1945年以降の戦後政治における注目すべき政治家は、この「日露戦争」を自分なりにしっかり読み込んでいる、教訓を引き出しているのではないだろうか。
 例えば、戦後政治が「資本主義・自由主義」観を土台として選択したのは、GHQ主導ばかりではなく、ソ連(ロシア)に対する絶大な警戒心からではないだろうか。日露戦争での開戦理由は、「満州」での利権もあったであろうが、ひとえにロシアの「南進政策」であり、満州→朝鮮半島→日本という「悪夢」を描いていた。そのときの英・米は「味方」ではないにしろ、少なくとも「敵」ではなく、列島侵略は想定されなかったと思われ、そのDNAはこんにちまで続いているのではないだろうか。
 吉田茂もそうであったと思われるし、中曽根康弘にいたっては「4海峡封鎖」「日本列島不沈空母」などと言う発想は、この日露戦争の、ウラジオ艦隊の跋扈の恐怖を再現させたものに他ならない、そう見てもいいのではないだろうか。 
(続く)

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2007年10月23日 (火)

児島 襄著 日露戦争

  古本屋で入手。わが読書の秋を待ち焦がれ 
 
数週間前、ふと覗いた古本屋の、手の届かない棚の上に「日露戦争」全5巻というのが目に入り、ずっと気にかけ迷っていた。日がたつほどに欲しくなるばかりで、そうなると“売れてしまわないかな”と、気がもめてしようがない。
 その古本屋は、自転車で10分あまりの名鉄鳴海駅前。“よし!”とさしたることではないのに“一大決心”をして、買い求めることにした。それでも、何が躊躇させるのか、わざわざ反対方向の家2軒の配達仕事を作り、その上まだ迷いがあるのか、今度は鳴海駅を通り越して、JR大高駅の南の公営団地まで自転車を走らせ、ここで資料をポストに差し込んで戻り、ようやくにして、古本屋に入っていった。
 “え~っと、確かこの辺に・・・”あった、あった。“え~、あの~、あれを見せて欲しいんですが・・・脚立がないと届かないんですよ”“そうそう、それ”。
 レジのあるカウンターで束ねられた本が紐解かれる。やや埃っぽいかなと思いながら、“これって、ページが抜かれていないか、点検済みですよね”といいながら、ぱらぱらとめくってみた。
 高校生か大学1年生かと思われる若い女性店員が“初版本です、平成2年ですね” といって、“どの巻にしますか”と聞かれた。このテのものは分売しないものだと思うから、やはりアルバイトなのであろう。前回来たときにはいなかったし・・・。“揃いでもらうよ”“ありがとうございます。3千円です”。
 厚みが3センチ以上はあろうと思われる四六判が5巻、どうやって持ち帰ろうか。

 「日露戦争」全5巻 児島 襄(のぼる)著 文芸春秋刊 平成2年7月30日 第1刷 定価2000円。(本体1942円) 消費税は3%か、このころは・・・。
 第一巻には、初出の記録がないから、新聞、雑誌の連載ものではなく、書き下ろしなのであろうか。その第一巻は、開戦前の明治33年(1900年)から、開戦の明治37年(1904年)5月の「九連城」の攻防戦まで。前半部では「八甲田山の悲劇」も書かれている。
 「緑ネット」終刊号を出したあとの楽しみ。「わが読書の秋」到来はもうすぐである。

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2007年8月 3日 (金)

丸善に立ち寄る

 浅田次郎と松井今朝子「吉原手引草」
 熱田区六番町の印刷屋に出かけ、校正した原稿を納めた。今月末には出来上がる手はずが整った。「それ」は、楽しみでもあるが不安の方が大きい。
 その帰り道、名古屋・栄まで出て「丸善」に寄った。いつもの通り、まずお目当ての本を探し出しておいて、次に、文学書・歴史書コーナー、文庫版・新書版コーナー、ベストセラーのコーナー、経営・労働・法律関係の書棚を覗き、最後は子ども絵本のコーナーを見て回り元に戻って買い求める。この間約1時間。
 今日は浅田次郎の「中原の虹・第三巻」と松井今朝子「吉原手引草」の2冊。「中原の虹」は、全四巻で最終巻は11月の刊行予定である。全巻揃ったところで一気に読む積りをしていて、今は“積読”だけである。
 もう一冊の松井今朝子「吉原手引草」は、第137回直木賞を受賞しているから、よく知られており、手にしたものはすでに第六刷となっていた。売れ筋だから店の“一等席”に山積みされ、いたるところに置いてあった。新聞の書評とNHKのBS「週刊ブックレビュー」でも紹介されたから、どんな本であるかは見当がついている。が、まだページをめくっていない。
 家に帰って夕刊(毎日)を広げたら、「読みたい 晴れても降っても 檀 ふみ」のコーナーで、奇しくもこの本が取り上げられていた。檀は、この本がまだ直木賞をとる前のエピソードを書いているが、「直木賞の候補になっていると聞き、私はこっそり祈った。(取らないといいな・・・)なぜって、早速読み始めたその本がやたらとおもしろかったからである。これほどの力作がなぜ直木賞を取れぬ・・・・と、それだけでこの欄が書けるではないか。」といっているのだが、取った後もこうしてちゃんと書いている。
 さて今日は早めにシャワーに浸かって、横になってゆっくりと読もう。選挙もピースサイクルも終って、束の間の時間がやっとめぐってきた。

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2007年8月 2日 (木)

“象・2007年夏”を手にする

<特集>国民投票法を考える
 豊田での会議の席で“どうぞ”といわれ頂戴したのは、年間3号発行の同人誌「象(しょう)第58号」であった。この夏号では「国民投票法を考える」という特集を組んでいて、同人13人の方が書いておられる。
 すべてを読んだわけではないし、読んだからといって筆者の思いのどれだけを感じ取れたかは極めて心もとない。
 読んだ範囲でいえば、T氏の「戦中派の悲願」とK氏の「アメリカの『失策』としての日本国憲法」が印象深かった。
 T氏は85歳。中国戦線に狩り出された一人。その体験を通して、戦友を含む多くの戦死者、軍属、民間人、戦災での死者に思いをやりながら、「それなのにいまの日本の国は、300万人余の犠牲により得た平和憲法を改め、この国を戦争の出来る国にしようとしている。」と嘆き怒る。
 K氏は、時の政府に翻弄され、アメリカの都合に合わされ、それでもって国民の法典にもなりきらない現憲法60年を、改めて位置づけて見せた。冒頭はこんな文章で始まる。「日本国憲法には奇妙な状況がつきまとい続けている。この憲法は、原案を作ったのもアメリカなら、それを改憲しようとしてほぼこの60年間画策し続けているのもアメリカである。」と。
 この二つの文章からだけではないが、私に突きつけられたものは、これまで「日本国憲法」をどこで学び、どれほど読み込んだか、である。その上で「国民投票法」という法案が、どの道筋のどこらあたりに位置して、どんな役割を果たそうとするかの認識の深さである。
 1960年代の後半、労働学校の「安保コース」で学んだ折り、憲法前文と第9条については触れたと思うが、憲法の全条文をかいつまんででも学習した記憶はない。職場の仲間同士の学習会でも、憲法そのものをテーマとした学習はなかったように思う。
 こうしてふり返ってみると、今でこそ掌サイズの、童話屋発行「日本国憲法 付教育基本法・英訳日本国憲法」を手元に置き、週刊金曜日の「連載・日本国憲法-伊藤真」を読み続けてはいるが、深読みしてこなかったことに気付く。
 高校の現代史で「戦後の日本」に触れなかった教師は、日米安保問題が華やかなりしころであれば、政治的課題を回避したかったのであろうから、憲法問題に触れるはずもなかった。
 そういう世代、時代背景もあったとは思うが「憲法をくらしの中に」と、垂れ幕を掲げた蜷川京都府知事もいたわけだから一概には言えない。だが、日本総体は「がらがらどんどんと事務と常識が流れ/故国は発展にいそがしかった/女は 化粧にいそがしかった」(T氏紹介の、フィリピンで戦死した竹内浩三の詩の部分から)そのままに60年が推移したのであろう。私もその流れの中の一人であったのだが。
(追い書き)

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2007年2月19日 (月)

新しい領域の本だが・・・

 緑ネット編集の最中に
  3月1日発行予定の「緑ネット」の編集執筆作業が進行中であるが、こういう時に限って、“足を引っ張られる”様なことがしばしば起きる。もっとも自己管理していれば、何のことはないのだが。今回の例は・・・。
  午前0時を回って、“さてっ!”と腰を浮かしながら何となくなくテレビのチャンネルをいじり回していると、映画以外はめったに見ないNHK衛星第二チャンネルで、「週間ブックレビュー」というのをやっていた。
   作家とかと評論家など3人が持ち寄ったそれぞれの3冊と、その中から一冊が「お薦め」で、誰が推薦したのかは忘れたが、なぜか4冊がメモ書きされていて、インターネットで検索したら、
1)一瞬の風になれ(1)(2)(3)  佐藤多佳子 講談社
2)マンハッタンのクロサワ      平野共余子 清流出版
3)海に落とした名前         多和田葉子 新潮社
4)写真集・東京人生         荒木 経惟  バジリコ
  と判った。
 荒木経惟は、さすがに名前だけは知っているがいい印象ではない。しかし、1963年から約40年間、東京下町を撮り続けた写真とあるから、われわれの世代には、思わず振り向かせるもののようだ。高額でもないようだから、気に留めておこう。
  他の三人の作家は、初めて知る名前であるが、「マンハッタンのクロサワ 」は、映画好きにはちょっと手元に置いておきたいような感じのする本と見受けた。アメリカ人の目から見た日本映画、アメリカ人が映画を通してみた日本、それをマンハッタンに住みついた平野が丹念に書いているという。
  「一瞬の風になれ」は、高校の陸上部を舞台にしたいわゆる「スポーツ」もののようだが、結構人気を博しているようなので、もっと違う味わいがあるのであろう。(1)に“イチニツイテ”(2)に“ヨーイ”(3)“ドン”というルビがふってあるそうだ。
  多和田葉子は、ドイツに在住しているそうで、3つの短編集を収めたのがこの本だという。
  いずれも興味を惹かれメモしたわけだが、「乱読」となる兆しかな、と思わないこともない。だが「乱読」こそ“わが歳ごろ”の特権でもあろう。インターネットでは解説文も載っていたが、それは読んでから拝見することとしよう。
(追い書き)

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