映画「蜜蜂と遠雷」を観る
暗喩の世界をみた気がした
この映画は、直木賞と本屋大賞をダブル受賞した恩田陸の同名小説を、松岡茉優、松坂桃李、森崎ウィン(レディ・プレイヤー1)、鈴鹿央士(新人)らの共演で映画化したもの。当初、この小説を映画化することは難しいだろうといわれていたらしい。
私はこの小説を読んでいないし(最近は、運動関係の資料とか新聞小説を読むことが多い)、作家の名前も知らなかった。またピアノそのもの、音楽に関心があって観に行ったわけでもない。では何故?一つは消去法。11月1日の「シネマ散歩・緑の会」の映画鑑賞会は「最高の人生の見つけかた」であるが、懇親会での話題の一つとして「記憶にございません」ともう一何か・・・と考えていたから。さらにタイトルの「蜜蜂と遠雷」を“詩的”に感じて気にしていたから。単純な動機である。
映画では4人の若きピアニストが登場するが、松阪桃李が演じる高島明石は、他の3人とはちょっと違った環境にあって、いわばサラリーマンで「生活者の音楽」を表現しようとする。他の栄伝亜夜(えいでんあや・松岡茉優)、マサル・カルロス・レヴィ・アナトール(森崎ウイン)、風間 塵(かざまじん・鈴鹿央士)の3人は、少年期から才能を見出されての10代の天才ピアニストたちであるが、お互い何らかのつながりがある。
4人は、芳ヶ江国際ピアノコンクールの予選会に参加するが、映画では、お互いがライバルとして競い合うという筋書きではなく、悩みつつも音楽を、ピアノを究めようとする、ピアノが好きだ、という“青春賦”といった感じ。高島を除3人がコンクールの決勝に進むが、果たしてのその結果は・・・。
見終わって正直なところ、どのように「鑑賞記」を書こうか随分悩んだ。それと同時にタイトルの「蜜蜂と遠雷」と全体の映像が、詩で言うところの「暗喩」の世界のように感じたのだった。
「蜜蜂」をこの映画からイメージすると・・・。「遠雷」をイメージすると・・・。音楽、コンクールそして若きピアニストたちから、目に見えないどんな世界がイメージされるのか。
栄伝亜夜「ピアノ、どれくらい好き?」風間 塵「世界中にたった一人でも、野原にピアノが転がっていたら、いつまでも弾き続けていたいくらい好き」。そして、五線のない砂浜で、足跡で音符をつくり、「何の曲?」を当てやっこするシーン。ほんの少し、私は「暗喩」の世界にいた気がした。
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