2019年6月13日 (木)

男の気持ち・生き方(162)

 なにかと“決断”を迫られる時期か
 パソコンに連動しているプリンターには幾つかの機能があるのであろうが、私はプリントだけしか使わないできた。2~3度コピーで使ったことがあったが、常用していないので“コピーといえばコンビニ”が染みついていたのだった。
 中学の同級生による作品展に、ミニ詩集とC&Lリンクス愛知・電子版などを展示するために全点を再印刷することにした。手元には多数のモノクロ印刷用の「版下」が残してあったが、それは片面印刷のため、別途に両面のカラー印刷を始めた。
 まず立ち往生したのが、冊子の作成に慣れなかった当初のものの中に保存データが不完全で、探し出すのに時間をとられた。次にこのプリンターでは「両面印刷」はできないだろうからと一枚ずつ印刷しその都度裏返して印刷するというアナログの手法を繰り返したのだった。それでも途中から、奇数ページを先に印刷し、あとから偶数ページを印刷する方法で若干の時短に成功。印刷済みの奇数ページを重ねてセットすれば、プリンターのトレーの出し入れが省けるのであるが、2枚を引きずることがあったのでこれは失敗だった。(インクの乾きを待てばいいかも)
 保存データになぜか欠落部分があって、“あ~あ、打ち直しかなあ”と落ち込んだのだが、残してあった版下をコピーすればいいことに気がついた。試したところ再印刷と較べても質的に遜色ないとみて、以後コピーに切り替えた。パソコンの操作時間より、版下の入れ替え、裏返し作業の方が断然早い。ところが両面に同じページをコピーしてしまう失敗がしばしば起きた。原因ははっきりしているのだがなぜ繰り返すのか。つまり作業速度は上がって効果的になったのであるが、その速さに私の動作がついていかないということだ。これも「老化現象」の一つなのであろうか。
 どんな作業にも「手順」というものがあって、それを違えても「修正作業」で素早く復帰できることが多いのであるが、この頃の私は、その修正作業を思いつくことに時間がかかり、その作業もまた時間かかる傾向にある。
 このことは、最近の高齢者の自動車事故と共通していないだろうか。車のスピードに動体視力がついていかない、とっさの異常に判断力が即応しない。動作が緩慢で、車の動きが先行してしまう。経験からくる予知能力も衰えていることだろう。
 これらの場合の対処法は三つ。1)車を運転しない。2)訓練を欠かさない。3)支援機能を強化する。
 パソコンでの「不手際」は、人を傷つけることは滅多にないが、時と場合によっては、時間と資材の損失は小さくはない。訓練・学習を重ねることと、「削除回復機能」が向上すれば、かなり解消すると思うが、作業時間の制約を外すことで、かなり改善すると思うが、地域の運動にかかわる場合は難しい。いっそのこと「パソコン離れ」を決断するかであるが、その決断時期も(しなくても)そんなに遠くはあるまい。

 

 

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2019年4月30日 (火)

男の気持ち・生き方(161)

平成に“さようなら”はない
 どこかで誰かが“今日でお別れね、もう会えない・・・”なんて替え歌で歌うかもしれない。確かに「平成」が終われば、平成生まれの人が生年月日を聞かれたときに使うかもしれないが、それも西暦がもっと一般化すれば、さらに薄れていくだろう。
 戦争の時代ともいわれる「昭和」生まれの私ではあるが、戦争そのものは知らない。けれども「戦後史」には興味があって、「1億人の昭和史」(毎日新聞)「昭和史全記録」(同)「アルバム昭和15年史」(朝日新聞)「名古屋の昭和史」(樹林社)「日本全史」(講談社)などを買いそろえた時期があった。
 ということもあって元号そのものには愛着も機縁もほとんどないけれど、「私の歩んだ道」を見つめ続ける時、「昭和」は私の全盛期(45歳ころまで)でもあったので、元号とは関係ないとはいえ「昭和」はかなり刻まれていることに気づく。就職、夜間高校、結婚、持ち家、外国旅行と並行して様々な領域の地域活動に没入していたのも全て「昭和」であった。
 それに較べると「平成」の影は薄い。同じように「私の歩んだ道」を見つめてみてもどこにも「平成」は出てこない。「昭和」の延長にしか映らないし、ほぼすべて「西暦」で刻まれている。特に20世紀から21世となった「2000年」が一つの基点になっていて、阪神淡路大震災が起きたのは1995年(平成7年)で、その時私は腰痛で入院していた。1997年(同9年)に三菱自動車を退職し、あの病気をしたのは2001年(同13年)だった。2004年(同16年)に「自分史」を2007年(同19年)に詩集「坂」を出版した。2011年(同23年)の東北大地震・東電原発事故がしっかり刻み込まれ、2017年(同29年)に家の建て替え(終の棲家)をしたというように。
 ということで平成に“さようなら”という感情はない。今日が4月30日で明日が5月1日というだけである。とはいえ、「私の葬儀」の時に息子は「・・・昭和、平成、令和の三代を生きて・・・」なんて言うかもしれない。あとのことは全てお任せであるが、墓碑には「令和」と刻まれるのであろうか、これは何とかしたいと思うが、今それを伝えるべきか否かは“悩ましい問題”ではある。

 

 

 

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2019年4月25日 (木)

男の気持ち・生き方(160)

 2流の調理人にもなれず
   今日の夕食の献立は「筑前煮」にした。昆布と鰹節で出汁をとっておき、里芋、蓮根、ゴボウ、ニンジン、さやえんどうの野菜類にこんにゃく、厚揚げ、ちくわそしてかしわ(鶏肉)を用意し、下ごしらえをした。生シイタケを買い忘れた。代わりに手元にあったマイタケを使うことにしたが、調理の段階で入れ忘れた。
 しょうゆ、みりん、酒で味付けをしたが、どうもいい味が出てこない。何か足りないのかな、手順を間違えたかな、元々レシピを見ての調理でなく、いわば真似事の「我流」であるから、いい味付けはできないのも無理はない、と思いつつ、やはり干しシイタケを入れるべきだったかな、かしわ(鶏肉)の味が出ていないなあ、と思案しながら、煮詰めていくと、何とかそれらしき味となって仕上がった。
 料理にしてもあるいはスポーツにしても、「素材」から選ばなくてはならないが、天然、天性の好素材に恵まれれば、一段とおいしく仕上がるのであろうが、だからといって素材そのものが美味を決定付けるとは限らない。「調理」「育成」次第、つまり調理人、指導者の才覚、力量によるのだろうと思う。
 ぐつぐつと“ごった煮”の鍋を見ていると、なんだかいま自分が関わっている世界を見ているようで、私自身はテーブル(議会)の華となる料理の一部(議員)ではなく、調理場の料理長、板長に仕える身でしかないが、私なりに「味付け」がしたい、そんな位置にいるようにも思えるのだった。
 多分私自身が、もっと料理人としてしっかり自覚してその道に邁進していれば、その世界の片隅に身を置くことができたであろうが「一意専心」とはいかなかった。今となっては、それも「私の人生」だったというほかない。

 

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2019年4月24日 (水)

男の気持ち・生き方(159)

   本川浅間社が移転された
 名古屋市緑区の、名鉄(名古屋鉄道)本線の「鳴海駅」は、2005年から始まった鉄道高架化工事が2016年の秋ころに終わって、3層構造の2面4線の高架駅となった。この工事と併せて駅周辺の都市開発事業(名古屋都市計画事業鳴海駅前第2種市街地再開発事業)も進められた。駅を中心にA~Dの4ブロックに分けられ、南側の店舗付き(D)の高層住宅を中心としたCとDブロックは完成した。
 Bブロックには、わが生家もあったが「浅間神社(本川浅間社)」があって、いずれ移転されることとなっていた。
 後日、タウン紙で知ったのであるが、去る3月20日に150メートルほど東に移築された新本殿で「遷座式」が行われたとのこと。「遷座式」とは、祭神である木花開耶媛(このはなさくやひめ)を新本殿に遷御する神事のことだという。
 私はこの近くで生まれ20数年過ごし、この地から離れたことがないから、もし私の中に「ふるさと」といえるものがあって、思い出の風景(郷愁)といえば、変遷してきた鳴海駅、幼少時の遊び場だったこの浅間神社、その前を流れる「扇川」だろうと思う。
 それもあって移転された浅間神社を見て、カメラに収めるために足を運んだ。
 本殿は真新しい一方、鳥居、狛犬、手水舎は新しいが水盤(石造)はそのまま移設され、これもかなり古い扇川にかかる「旧浅間橋」の石造の欄干一対もライトがつけられ設置されていた。
 本殿内部は、堅い網戸越しでしか見えないが、神棚、本川町の猩々、もう一つは何かな、かつての境内にあった松の巨木が「神木」とされていたから、その一片であろうか、注連縄が掛けてあった。ご神体は御簾(みす)の奥にあるらしい。
 かつてのような広い境内はなく、生い茂っていた楠二本も移植されなかったので、「神社」らしさは感じられなかった。もう一つ気になったのは「本殿の向き」であった。以前はほぼ北向きであったが、移転した本殿は、どちらかといえば西向き、仏教なら「西方浄土」かもしれないが。移転された土地の形状によるものかもしれないが、何か理由でもあるのだろうか。
 7月の茅の輪くぐり、秋まつり、神事、出店、正月明けの餅焼・・・思い出話を書くのはもう少し先にしよう。

 

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2019年3月 3日 (日)

男の気持ち・生き方(158)

  加齢のその先
 
人間みな等しく歳を重ねていく。だがその先々は千差万別もまた当然といえよう。
  15歳を一つのスタート地点として、私たち同年の者はそれぞれの道を歩み始めた。同窓会を開くたびにその消息、近況などが知れたが、それは部分的なものでしかなかったし、またそれ自体に特に関心があったわけではない。
  45年の歳月が過ぎて「還暦」を迎えたころには、亡くなった同級生もちらほらといて名簿に「故人」と記された。
  そして職業欄が空白の人も目立つようにはなっていたが、自営業の人はともかく、男性の場合はまだまだ何らかの形で仕事に就いていた。さらに10年が過ぎて「古希」を迎えたときも、私の知る範囲で「リタイヤ」した人は多くなかった。
 さて一昨年の6月に中学の第13期生作品展「私たちの小さな足跡展」を開いたが、その第2回を昨秋に開催することを予定していた。しかし前回の出品者を中心に状況を聞いたところ、諸事情で開催を今年の6月に延期することになった。その打ち合わせを明日開くのだが、これまでに寄せられた返信を見てみると、作品の制作については「継続組」と「中断組」にかなりはっきり分かれた。継続している人は、その「教室」に通っている、何らかの展覧会に出品していることが継続要因となっていると推測された。
 一方中断している人は、自らの体調が思わしくない人もいれば、ひょっとして家事・介護に専念されている方もいるかもしれないが、やはり教室に通うなり、出品するなどの目標がないと中断のきっかけを作ってしまいがちのようだ。そうした継続するか否かの「選択」する機会に至った時、個人差はあるにしろ「加齢」が起因してことを左右することがあるのだろうか。
 スポーツと違って「芸術」の世界では、「加齢」が中断に結び付くことは少ないと思われ、むしろ、その人それぞれの「生き方」「向き合い方」に関わるのではないだろうか。「余生」という言葉の不可解さが募るのである。
 

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2018年12月17日 (月)

男の気持ち・生き方(157)

師走-政治も社会も動いているけれども
 師走であろうとなかろうと政治も社会もそして世界も動いている。そのような意識はあるけれども、一方に「生活」があって、それは同時進行ではあるけれども、実生活での行動は別である。もっとも政治家の日常が政治活動であるならば、生活と同時進行ということもあるであろうが。
 土曜の夜は高校の同級生4人と恒例の忘年会。この時期の忘年会は会場探しで困惑「名駅・個室・時間」が条件で、会費制限なし。数件あたってみたが、「コース料理・2時間制限・個室僅少」で判断しかねた。前日になって「名駅・個室・2時間、料理フリー」のお店で開催。終えてからの評価は「星3つ」かな。従業員の対応は良好だった。
 「C&Lリンクス愛知・電子版第20号」を14日に発信して一段落したので、年賀状の作成に取り掛かり、基本原案はできていたので、それを相手先別にアレンジして5種、200枚を今日の午前中に仕上げた。これから1週間かけて、自筆で宛名書きとコメント書き。24日までに終えられそうだ。
 寒さも本格化してきて、冬のコートを陰干しし、毛布を天日に晒したのが1週間ほど前かな。昨日は、掘炬燵をセットしたが、日常的には使うことが少ないので、電源ははまだ入れない。
 “冬が来る前に”(紙ふうせん)の歌ではないが、何かともっと早くに準備すればいいものだが、多くは“そのうちに”あるいは“明日にしよう”となる。これは怠惰か必然性か?毎年毎年繰り返されることに鑑み「人間の性(さが)、凡人の必然性」ということにしておきたい。
 最後に「西郷どん」(NHK)が昨夜、完となった。ドラマそのものあれこれは当然あるが、既定の教科書的に西郷隆盛像を受け入れるか、もう一方の大久保利通の評価はどうか。それらをもう少し踏み込んだ評価を別のところでしてみたいが、幕末から明治維新そして明治の時代そのものの検証は、現代政治を考えるとき欠かせないことは確かなようだ。

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2018年10月15日 (月)

男の気持ち・生き方(156)

  たま~にだけど囲碁をうつ
 今年になってから2回目、前回から半年以上経っているかな。久しぶりに囲碁の対局に臨んだ、なんていうのは大げさ過ぎる言い方である。そもそも4~5年前に6段の先生(同級生であるが)の指導から降りてしまっているから、同門の相手とでは勝負にならない、短時間の「中押し」で早々と投了を覚悟していた。
 相手はその後も続けていて、時々は中部棋院へ行って打って来るということなので、こうした勝負事の力量差は歴然とするのである。
 当然私が先番で右上の星に第一手の石を置いた・・・。結局中押しで投了することなく終え、情勢は悪くなかったから、まあ良しとしたものだった。
 私が「古希」に近い歳になって囲碁に興味を持ったのは、何といってもアマ6段の同級生がいたことが大きい。加えてその時は、少し長生きして「活動」を終えるようなことがあったなら、その日々を何としよう、茶(酒)飲み友達もいてもいいかな、そう思ったことと、日中の時間帯に余裕があったことが挙げられる。そして約2年半で“破門”を申し出た理由は、囲碁の世界の裾の広さ、奥行きの深さ、頂上は雲の上の上というのは当然としても、こうした“勝負事”に私に向いていない、せめて2~3級までと思ってはいたが、“為せば成る・・・”とは到底思えない心境に立ち至ったからである。併せて、幾つかの運動のかかわりからそちらが忙しくなってきたという事情もあった。
 しかしあえて言えば、“終末期”では、別に囲碁でなくても、多少興味を持っていたカメラとか、水彩画と詩を組み合わせたコラボだってないわけではなかった。同好者だっているに違いない。けれど、囲碁がしばしば映画のある場面で必ず登場する、例えば戦などの作戦の構想などである。現在の政治の世界でもきっと応用されているに違いない、そんな気もしていて興味を持っていたともいえるだろう。
 まあ仮にそうだとしても、かなりの腕前でなければ通用しない。私の碁はただの碁でしかない、ということである。打ち終わってからの酒席が本音だったりして・・・。

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2018年8月13日 (月)

翁長知事と告別の日に

  男の気持ち・生き方(155)
  肉親や恩師、活動を共にした仲間の葬儀は別にしても、幾らか見知った公人の死を悼み、葬儀の場に心が飛んでいくという経験はなかったように思う。
  しかし、翁長雄志沖縄県知事の場合、これまでと違う感情が心に漂い続けている。ご本人と対話した機会はなかったし、メール、手紙など何がしかのやりとりをしたこともない。こちらからは、ピースサイクル運動の一つとして知事宛てにメッセージを送ったこと。そして2015年に「沖縄ピースサイクル」の一員として参加し、6月23日の「沖縄慰霊の日」に、糸満市の南部の、各県の遺族会が設置した慰霊碑のある場所で開かれた「国際反戦沖縄集会」に参加した時のことだった。そこの「魂魄の塔」の前で私は初めて対話はなかったが翁長知事と出会った。その時のブログは「ところで、集会が終わった3時半ころ私は、魂魄の塔の前あたりで翁長知事と遭遇した。多分、北海道の慰霊碑の前では某市の慰霊祭が行われたが、そこに参列するために知事は訪れたのであろう。一礼すると軽く会釈して車に乗り込んでいった。」と書いていたことくらいだ。
  琉球新報によれば、翁長雄志知事の告別式は13日午後3時から4時半、那覇市松山の大典寺で行われるという。そして喪主は妻の樹子(みきこ)さん。告別式前に翁長知事の遺骨と遺影を携えた親族の車が那覇市役所や県庁などを回り、大典寺へ向かうとのこと。また遺族の意向を確認した上で、共催する県議会や関係団体と調整したうえで、県は県民葬の開催も検討しているとのこと。
  ということもあるにはあるのだが、それ以上に「沖縄」それへの関心、かかわりの度合が高いことが心底にある。
  古くは1972年の沖縄返還「闘争」へのかかわりであるが、そのころに「沖縄・琉球」の歴史を学習したことが私の中にこんにちの流れをつくったといえる。そして「憲法・安保・自衛隊」という一連の政治課題の中で「沖縄」は常に中心課題であった。
  さて翁長知事に関して私は、当初「保守の人」ということで、いささか懐疑的に見ていた。また「オール沖縄」についても、財界が加わることで「米軍基地返還」の軸が薄められるのではないかという警戒心すら持っていた。
  そこには皮相な政治感覚だけがあって、翁長知事と沖縄の人たちの「アイデンティティ」に思いがいたらなかったわけである。
  2010年に、私が編集長として創刊した「APWSL(アジア太平洋労働者連帯会議)愛知」の冊子「ACTION REPORT」の巻頭では、「わたしたちは忘れない!そして忘れてはいけないこと」として「世界全ての核の廃絶を! 怒りの広島 祈りの長崎 決意の福島」を取り上げ、もう一つに「全基地の返還まで沖縄を忘れず!」とし、「どんな政権であろうと沖縄を返せ!沖縄に返せ! 普天間基地を返せ!辺野古への移転拒否!全米軍基地を返せ!」を掲げ続けてきた。
  翁長知事の遺志に心いたし、沖縄の現状を打破していくには、私たち本土のものが、どこまで「わがことの問題」として向き合うかどうかにかかっているといえる。私(たち)もまた何ができるか問い返してみたい。 合掌

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2018年5月 7日 (月)

男の気持ち、生き方(154)

 断酒ではなく飲み方云々
  世間では、昨日の帰省ラッシュを最後に「5月連休が明けた」というが、わが身は、ほとんど閉じこもり状態、というか感覚的には「軟禁」状態だった。ここ10年くらいは、こんな状態が続いている。あの「連休ラッシュ」の恐怖から逃れられないからだ。多分単身だったらそうでもないとは思うのだが。そんな“老域”に来ているといえるのかもしれない。
  明けて今日、栄養管理士との面談があって、食事面でのアドバイスを受けた。緊急性はないのだが、“主夫業”のマンネリからくる栄養バランスの検証、ウエイトコントロールの現状分析、それと“酒害”について、聞きたいことがあったからだ。
  一つ大いに参考になったことがあった。それは “お酒の飲み分け”についてであった。体重増を気にするなら、カロリーの高い「蒸留酒」を控えるとよいのだそうだ。例えば焼酎、ウィスキー、ブランデー、泡盛など。一方血糖値が気になるなら、「醸造酒」は避けるべきだと。例えば、日本酒、ワイン、ビール、カクテルなど。
  これを見る限り、糖尿病者とその予備軍は、酒は“百害あって一理なし”で、“病原菌の一種”といえなくもない。もっとも古来“百薬の長”といわれているから、お酒の効用がないわけではない。これは常飲者にとって“取り付く島”に他ならない。それは別の論理(屁理屈)といわれようとも。
  そこで得た暫定的自己都合結論は、これからの夏場に向けては、ビールは避けて「焼酎60CC+ホッピー330CC」がベスト(ベストという表現に違和感があるが)といえるかも。問題は「冷酒」で、断酒ではなく他の炭水化物、糖質の控えと野菜類、海藻類の摂取ということになろうか。但しこれは家内だけであって、宴席、付き合いは対象外である、という“抜け道”は塞がれない。
  友人のみなさん、これを読んだからといって、お誘いをためらわないでください。

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2018年5月 5日 (土)

男の気持ち・生き方(153)

“こどもの日”考
 何かを思考するとき、目的意識的なことは論理的に考えることが多いと思うが、ふと思いついたときなどは、どちらかといえば経験的な思考が多いように思う。
 最近の「子どもの貧困」「子どもの虐待」「子どもの教育環境」などをテーマとすれば、当然論理的に思考を重ねることになるが、シンプルに“こどもの日”を思い巡らすと、やはり自分の “子どもの時”から掘り起こすことになる。
 一口に「子どもの日」というがその「子ども」とは幾つまでをいうのであろうか。まさか中学生になったわが子をつかまえて、「子どもの日のプレゼント」はなかろうと思う。中学生になった子どもの方も「子ども日だから、何か買って」とも言うまい。
 私自身の“子ども時代”はどうであったろうかと思い返してみるのだが、ほとんど記憶の底から引き上げられるものがない。1940年代から1950年代半ばまでの時代背景を見れば、そして我が家の経済状況を見れば、「子どもの日」も「七五三の祝い」もなかったのも、ある意味で当然であった。かすかに思い出されるのは、近くの銭湯の「菖蒲湯」に浸かったこと、一軒隣の農家の奥座敷に飾ってあった、豪華な「五段飾り」を拝むように見せて戴いたくらいであろうか。甘党の私であるが「柏餅」の記憶もない。「鯉のぼり」も、小学校の工作の時間に作ったものだけで、いまでは鯉のぼりを手にした「3年1組」のクラス写真からその記憶をたどるのみである。
 鯉のぼり、武者の鎧、兜の飾り物などの「端午の節句」も、ひな祭りの「桃の節句」も、どことなく“貴族的行事” 或いは、“お金持ちの家のこと”意識が働くようで、それなりに一家を構えた私が子どもにしたことといえば、中くらいの兜の飾りだけであった。ただ“連れ合い”はかなり入れ込んで、7メートルの鯉のぼりを立てていた。ただ立てる場所がなかったので、実家横の川の土手に立てたので、それなりに見栄えはしていたが。
 子から孫へ、その成長を願い、まっとうであってほしいと、わが足跡と重ね合わせることがないわけではないが、所詮子も孫も私とは「異なる人生」であるから、あまり関与しないのが私の向き合い方である。それが「薄情」なのか、はたまた「家訓」も何もない「一代きり」の連珠のようなものなのかは判然としないが、構わないのではないかと思っている。

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