2016年8月20日 (土)

私の夏休み(3)

 新副都心めぐり
 ピースサイクルの全国会議など、上京する折りにあちこち見て回り、主だったところは巡り歩いたとは思ってはいるが、船下り、クルージングなどと羽田空港、臨海副都心など、「海」側が残っているなと感じていた。
 いろいろ検索した結果、宿泊地から近い新橋から、都心とお台場・臨海副都心とを結ぶ新交通「ゆりかもめ」に乗ることにした。全線高架のモノレールなので、展望が開けるだろうと思ったが、沿線の内側はビル群が続くばかりで、外側は所々で視界が開ける程度。
 実はこの日の朝は、ホテルを10時前には出発予定だったがかなり強い雨だった。新橋までは歩いて7~8分とはいえ、このままではびしょ濡れになるだろうと、しばらく待機した。2~3分先の所に地下鉄銀座線の駅もあるにはあったのだが、それでもこの雨脚ではと二の足を踏んで、小降りになるのを待った。
 30分ほどして出発。汐留、竹芝、日の出、芝浦ふ頭とゆっくりと進む。まるで遊園地の電車に乗っているがごとくである。レインボーブリッジを渡ってお台場海浜公園へと進む。ここは、いつだったか夜の観光バスでお台場へは来ているが、今日は上から見下ろすだけ。観光バスも見え人も結構出ていた。
 10番目の駅「青海(あおみ)」を過ぎ、国際展示場正門という駅に着くと、目の前に四角形の奇妙な建物が現れた。「東京ビッグサイト」と読めた。イベント会場か展示会場として使われるのであろうか。どんな催事であろう入館することは生涯なかろうと思ったのだった。
 有明、有明テニスの森と続く。私には縁のないことではあるが「有明」と聞けば「田園コロシアム」が連想された。
 次に、市場前、新豊洲と聞けば、今大問題となっている築地市場の移転問題がある。上から見てもかなり広く見えた。今年の11月半ばころに移転が完了するとのことだが、そのままスムーズに進むのか、小池新都知事が何か策を示すのか。私の見た感じでは、ここまで工事が進んでいると中止、撤退は難しそうで、暮れの繁忙期を控え、そのまま新年を迎え、2~3か月の冷却期間をおいて、話し合いを続けるなどして、最終的には、移転容認ということになるのではないか。
 さて予定では、地下鉄で月島に出て乗り換え、築地市場で鮪丼でも食べるか、大江戸線で大門へ、そこから歩いて浜松町へ、東京モノレールに乗って羽田空港へ向かうかのどちらかであったが、あっさり拒否された。それならばと、有楽町線で有楽町に出て上野へ、そこで噂の「アメ横」がどんなものか見て回るのはどうかと提案、それで決着。
 一人旅なら、上野の美術館、博物館の一つや二つは見て回ったであろうが、ま、今日のところとはガイドに徹しておこうと。衣料品関係は外国人向けか若者向けが多いようで興味は少なめ。バッグ類はデザイン的にちょっとという感じ。1080円の腕時計もあったが、どんな性能なのであろうか。やはり、果物、魚類は安いが、持って帰れないので見るだけ。東京で一人暮らしすることがあったなら、ここに買い出しに来たかもしれないと夢想した。
 1日つづらしたこともあって、予定が大幅に変わってしまったが、この年齢では、当初計画そのものには、少々きついものがあったようで、あれこれ省いて正解だったかもしれない。
 夏休み終わって、明日から日常に戻るが、3食まともに摂っての3日間だったから、ウエイトコントロールの苦行も待ち受けている。

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2016年8月19日 (金)

私の夏休み(2)

 再び柴又・帝釈天へ
 葛飾柴又へは、2014年の11月に初めて行ったのだが、渥美清が亡くなって20年ということもあり、さぞ賑やかであろうと思って連れ合いを案内した。
 平日の暑い午後ということもあってか、思ったほどの人出ではなかったが、黄帽の小学生の一団も来ていた。引率の教師は、「帝釈天」はともかく、映画「男はつらいよ」の舞台になったことについて、どんな説明をするのだろうかとふと思ったが、“とらさんの映画をみた人”と手を上げさせた程度であろうか。まさか“先生、ふうてんってどういう意味ですか?”と聞かれはしないだろうが、聞かれたらどう説明するのだろうか。
 「寅さん記念館」「山田洋次ミュージアム」へも回ったが、少しへばっているようなので早々に引き上げ、帝釈天表参道に戻って、かき氷と草団子で一息入れて引き上げた。
 そういえば、渥美清が亡くなって“ええ、もう20年も経つの!”と少々驚いたものだが、8月は広島、長崎の原爆の日から71年は言うまでもないが、日航ジャンボ機に墜落事故から31年である。それは1985年の8月12日のことであるが、この8月12日といえば、1978年に日中平和友好条約が締結された日でもあるのだが・・・。
 そうそう19日の今日といえば、「六ヶ所ピースサイクル」が、茨城県東海村を出発した日でもあったのだった。(後記)

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2016年8月18日 (木)

私の夏休み(1)

 大磯に宿をとる
 当初17日から3日間、私の夏休みが始まる予定であったが、初日の東京がまともに台風11号の直撃を受ける予想となって、急きょ1日遅らせて、今日から始まった。
 この日のためにいくつかの課題を済ませておいたので、後顧の憂いなしとは言えないが、若者風に言えば、「とりま」10時過ぎの新幹線に乗って新横浜で降りた。それから横浜-中華街-山下公園(港の見える丘)は定番であろうが、「とりあえず」そのコースをたどり、みなとみらい線の「日本大通駅」から横浜駅に戻り、今日の宿大磯に向かった。
 大磯といえば吉田茂が思い浮かぶが、それが目的ではなく、伊豆の温泉地の宿が取れずたまたま空いていたにすぎず、翌日の江の島か鎌倉方面の拠点にするつもりであった。出発の直前、横浜の同級生から電話がかかって来て、大磯で宿が取れたという話をしたら、“だったら、澤田美喜記念館に行ってみたら”と勧められた。澤田美喜?すぐには思い出せなかった。聞いた覚えがあるかなあ程度で、話を聞くうちに泊まるだけではつまらないので行くことにした。
  澤田美喜の功績は少なくとも二つあるとされる。一つは、「戦後の混乱の中でアメリカ占領軍兵士との間に生まれた混血児の救済と養育のためにエリザベスサンダースホームを設立したこと」、もう一つは「熱心なクリスチャンであった澤田美喜は 隠れ切支丹の遺物の収集家でもありました。殉教者の子孫が大切に守ってきた品々に強い信仰の息吹を感じるとして、持ち主の名はもちろん、作者、明確な時代も判らぬままに、取り上げられ、打ち棄てられた隠れキリシタンたちの遺物を九州のみならず、本州のあらゆる場所を巡り歩き、収集」(引用)し、今に残したことであろうか。
 世界を旅した時に収集したであろう300は下らない十字架のコレクション、大小の石像、木像のマリヤ像、今年の5月から初め公開展示された「隠れ切支丹」が所持していたとする「日本刀の鍔」30点余、その鍔は、巧みに「十」が彫り込まれたものだった。また館員の説明、実演で見せていただいたのが、「切支丹の魔鏡」というもので、表は鏡で、裏側は銅製の花鳥風月の彫り物で、見ただけでは普通の「銅鏡」なのだが、光(太陽)を鏡に当てると、その反射光が「マリヤ像の影絵」として映るのである。見せていただいたのは、さる著名な作家の手になるレプリカだったが、その技法は教えていただけなかった。
  こうした遺物のあれこれからは、踏み絵、磔(はりつけ)などの弾圧にも関わらず恐れず、隠れてでも信仰を捨てなかったその厚さ、深さは世界に類を見ないとさえ言われるとか。
夕刻、食事前の4時半ころ、海岸に出てみたら、そこは「アオバト」の飛来地で有名なのだそうだ。「アオバト?」知らなかった。体長は33センチくらいのハト、全体が緑色の羽色をしていると宿の人に聞いたが、岩礁までの距離が遠いことと日が暮れかかっていたので、30数羽が旋回するようにしては岩場に降りては飛び立つのが見えたものの、海水を飲む姿までは見ることが出来なかった。“海水を飲む?”調べてみたら、アオバトの主食である果実にナトリウムがほとんど含まれていないので、その補給と水分をとるためらしい。
  時間があれば、島崎藤村の墓地のある地福寺にも行きたかったが、それはあきらめて、夕食の膳に向かった。(後記)

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2015年6月28日 (日)

大塚性海寺の紫陽花

 やや時機を失したか
 沖縄から帰って、報告書のベースとなるブログがまだアップされていない現状。だが留守にした見返りというほどでもないが、近場の紫陽花の名所を検索して連れ立った。
 向ったのは、稲沢市にある「大塚山 性海寺(しょうかいじ)」であるが、名鉄本線奥田駅から歩いて30分ほどの所にあった。この時期、幾らかは有名であろうから、行きしなに同じ方向に向かう人もいるかと思えば、われら二人きり。現地では、中高年の女性ハイカーが10~15人ほどいたから、ひょっとして国府宮駅から歩いてこられたのかもしれない。
 梅雨が明けたような空、その遥か向こうに三菱電機のエレベーターの試験塔(タワー)が見え、道路脇には、久しく見ることのなかった田んぼがあり、どこか懐かしい‘草いきれ’ が漂ってきた。
 性海寺はもちろん初めてであるが、稲沢市に降り立ったこともなかったように思う。その性海寺は、810年~924年(弘仁年間)空海によって愛染明王を本尊として創建されたと伝えられ、1177年~1181年(治承年間)阿弥陀三尊像が安置されたというが、そちらはあまり興味を持たなかった。
 それで稲沢市が、歴史公園として平成4年にオープンし、6月1日頃から、「あじさい祭り」を開催しているという。園内の紫陽花はもう盛りを過ぎていたから、ひょっとして先週の土、日あたりで「あじさい祭り」は終わっていたのかもしれない。
 紫陽花は、「ガクアジサイ」という名前しか知らないが、園内には、「伊豆の華」「カシワバアジサイ」「城ケ崎」など約90種1万株のあじさいがあるという。1万株と言えば相当なものだが、印象としてそんな感じはしなかった。それは時期が外れたこともあろう。また紫陽花は字のごとく主として「紫」色であるが、その濃淡の違いばかりでなく、白いあじさいもあり、漢字の「紫陽花」を見ることはなかった、というのも小さな発見。
 こうして、四季にそって花だ、緑だ、紅葉だなどと巡る機会が出てきたのも、‘老域’に身を置くせいであろうか。

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2015年6月25日 (木)

慰霊の旅・南部戦跡へ慰霊の訪問

 ひめゆりと平和祈念公園
 6日目の最終日は、今回の訪沖の目的の一つ、南部戦跡と慰霊が中心であった。
 いろいろ思案したが、観光の1日タクシーに乗ることにした。その8時間をのうち午前中は、首里城公園と「海中道路」で島に渡り、東南植物楽園も候補に挙げたが時間の都合でこれは省略した。
 首里城
 首里城は14世紀末に創建された中国や日本の文化も混合する琉球独特の城とのことだが、先の沖縄戦で米軍の徹底攻撃(艦砲射撃など)で破壊焼失したが、1992年11月3日に復元された。
 私が以前に来た時の首里城跡は、「守礼門」だけがあって、あとは石垣だけであった。この守礼門の正面には「守禮乃邦」という掲額があるが、これは礼節を重んじる国を意味しているとのことだった。
 首里城公園全体を見る時間はなく、「園比屋武御嶽石門」(そのひやんうたきいしもん)」をちらと見て、歓会門、瑞泉門、漏刻門、広福門、奉神門と幾つもの門を抜けてようやく正殿前の御庭に出ることが出来た。そこからは正殿内を順路に従って見学し、淑順門から守礼門まで戻って首里城を後にした。
 海中道路
 次の「海中道路」というのは、うるま市にある全長約5kmの道路。本島から浜比嘉島、平安座島、宮城島、伊計島へアクセスする道路として造られた。海中と言っても海の中、トンネルではなく、浅瀬の海を埋め立てて造られたもの。運転手さんの話では、大潮の引き潮の時は歩いて渡れたそうで、満ち潮の時間に渡っていた人が溺れた例もあったとか。そもそもこの道路は、平安座島にある石油基地と本島のアクセスを容易にするためでもあるが、汚染源ともなりうる石油基地の、その交換条件みたいにして造られたともいわれる。
 道路の両側にはマリンブルーというより4色の海が広がっていて、道路沿いには砂浜があり絶好のドライブコースになっている。道路の真ん中たりで下車してここでもまた「美ら海」を満喫した。だがその石油基地というのが気にはなった。道路から見て島の反対側の海岸べたにあるとのことで、タンクの頭がちらほら見えるだけだったが、津波か大型台風の高潮が襲って破壊されれば、この一帯だけでなく本島西海岸は、甚大な原油流失汚染にさらされるだろう。島にとっての便利さと引き換えではあるのだが。
 もう一つ、浜比嘉島には、アマミキヨ(アマミチュー)、シネリキヨ(シネリチュー)の男女二体の神によって島が作られ、七御嶽を作り、そこに彼らの子孫としての人間が増えていった、という神話の話もガイドされたが、散策してアマミチューのお墓まで行く時間はなかった。
 これで今日の前半は終えて「道の駅・恩納」で昼食。ここでも私は「沖縄そば」。そして高速道路に乗って一気に南下してひめゆりの塔などの南部戦跡へと向かった。
 ひめゆりの塔とひめゆり平和祈念資料館
 午後2時頃だったろうか、柵で囲まれた中には碑とガマの入り口がある「ひめゆりの塔」では献花して合掌。資料館の中には、ガマのジオラマがあったが、私は既に代表的な3つのガマを見てきたので、もっと現実に近づいて見て、感じることが出来たと思った。
 資料館は、6つの展示室があって、それぞれ「ひめゆりの青春(240名の女生徒)」「ひめゆりの戦場(看護要員として辛苦の場、ガマへ)」「解散命令と死の彷徨(米軍の攻撃にさらされ)」「鎮魂(227名の遺影)」「回想(私たちに向けらたものは何か)」「平和の広場(非戦と平和運動)」をすべて見て回った。
 今回は訪問できなかったが、鉄血勤皇隊(てっけつきんのうたい)と言われる、末期の沖縄戦で戦闘に動員された日本軍史上初と言われる14~17歳の学徒隊(少年兵部隊)の慰霊碑「健児の塔、他」などとも合わせて思いめぐらすと、思わず「会津戦争」を重ねてしまうが、その規模、悲惨さ、過酷さはその比ではないだろう。
 平和祈念資料館と平和の礎(いしじ)
 最後の訪問地は、沖縄平和祈念資料館、平和の礎のある沖縄平和祈念公園であった。
 資料館の入り口に立って、改めて沖縄戦を思い起こせば、1945年3月末から7月に至る90日におよぶ「鉄の暴風」は、島々の山容を変え、文化遺産のほとんどを破壊し、20数万の尊い人命を奪い去ったのである。そしてこの沖縄戦は、日本に於ける唯一の県民を総動員した地上戦であり、アジア・太平洋戦争で最大規模の戦闘であったといえる。
 さらには、沖縄戦の何よりの特徴は、軍人よりも一般住民の戦死者がはるかに上まわっていることにあるといわれる。銃弾・砲弾に倒れ、自ら命を絶ち、飢えとマラリアで倒れ、あろうことか日本兵に殺されるなど、沖縄県民は、想像を絶する極限状態の中で戦争の不条理と残酷さを強いられた。その一部が証言として、遺品として、映像・写真としてこの資料館に残されているのである。語り継がれているのである。
 どれ一つとっても、そこには‘命’が宿っていたのであり、無言ではあれ、私たちに語りかけているのである。
 平和の礎
 沖縄6日間の最後は、祈念公園内にある「平和の礎」であった。
 平和の礎は、沖縄の「平和の心」を世界に伝えようと、沖縄戦終結50年を祈念し、1995年に摩文仁丘に落成したといい、刻銘碑は、資料館の隣の平和の広場を中心にして放射状に円弧の形で広がりをもって配置されていた。それらは屏風状に並び、5つ折タイプ69基、3つ折タイプ49基の合わせて118基、刻銘版は、1,220面に及び、約25万名の刻銘が可能とあった。並んだ石碑には国籍、軍人、非軍人を問わず、沖縄戦で亡くなったすべての人々の氏名が刻まれている。ただし、沖縄県民については、沖縄戦に限らず、全戦没者を対象としているのが。この礎の特徴だ。
 ただ、強制連行され死亡した朝鮮人慰安婦の遺族の中には、周囲の差別や日本人と同列視されることへの反発から、石碑への刻銘を拒否した者もあったといわれ、そのことも私たちは留意しておかねばならないだろう。
            ◇
 平和の礎のある丘からは、太平洋の大海原と打ち寄せる白波、青く広がる空の美しい景観が眺められ、幾らかたまっていた疲れだけでなく、何とも言えない心の塞ぎみたいなものが洗われるようだった。だが、それをもって心に刻まれたものを忘却してしまってはいけない、次の世代に語り継ぐことが私たちの世代の務めである。
 とりあえず、「沖縄慰霊の旅」の報告はここで終えるが、冊子にまとめる段階でさらに記憶を呼び起こして書き加えていきたい。(追い書き) 

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2015年6月24日 (水)

神話の島、ビーチ、水族館、琉球村

 一日観光のバスに乗って
 古宇利島
 沖縄の第5日目は、宿泊ホテルを8時過ぎに出発し15分ほど歩いて、県庁前・国際通りの入り口近くの集合場所から、出発前に予約しておいた観光バスに乗った。私たち二人、外国人を含めて15人の客だった。
 最初の訪問地は、海辺のきれいな古宇利島であった。古宇利大橋を渡っていくとき、左右はまさに「美ら海」そのもの。そして尾我地島ビーチを車窓から見て、古宇利島では海岸まで歩いて行ったが、滞在時間が20分では、はだしで海の水に親しむ時間もなかった。
 また古宇利島は、昔、この島に空から男女二人の子供が降ってきて暮らし始めた。この二人の子孫が増え琉球人の祖となった、と云う神話が伝わる島とのことだった。
 美ら海水族館
 続いて向かったのが今日のメインである観光コース定番の「美ら海水族館」であった。位置としては、沖縄本島北西部の本部半島備瀬崎近くにある国営沖縄記念公園・海洋博覧会地区(海洋博公園)内である。ちなみに「美ら海(チュらうみ)」とは、沖縄の方言で「清〔きよ〕ら(しい)海」という意味だという。
 この水族館は、2005年にアメリカのジョージア水族館が開館されるまでは世界最大の水族館であったといわれ、水量7,500m³を誇る世界最大級の大水槽『黒潮の海』があり、様々な南の海洋生物と、ジンベエザメ3尾他、ナンヨウマンタなどの大型の魚が悠々と泳いでいた。また別の「危険ザメの海」水槽には、沖縄近海にも生息する危険ザメの一種であるオオメジロザメやイタチザメなどのサメ数種類も飼育されていた。
 一通り見て回った後、隣接施設の「ウミガメ館」「マナティー館」へも行ってみた。また、海辺に行ってみたいと、エメラルドビーチまで足を延ばしてみた。気温は30度を超えていたから、すぐにでも海水浴ができるのであるが、そこには一組の外国人家族がいただけであった。
 40年ほど前になろうか、私が最初に沖縄に来たのは、沖縄海洋博の翌年くらいだったと思う。その時はまだ、未来型海洋都市のモデルとなる人工島「アクアポリス」が残っていたが、かなり以前に「鉄くず」として処分されたとのこと。元々人気がなかったということもあったのであろう。昼食は「沖縄そば」だった。
 
琉球村
 午後は、お買いもの、お土産コースの「お菓子御殿」に寄って、「琉球村」に向かった。
 この「琉球村」は、沖縄各地に残された仲宗根家などの民家を移築し、昔ながらの佇まいを再現したものであった。昔ながらの景色、機織りの実演もあるらしいのだが、その時はやっていなかった。また二つあるいは三つのローラーを組み合わせて、それが回転するように水牛に引かせ、ローラーの間にサトウキビを通して、搾り出してつくる昔ながらの砂糖作りを実際に牛に引かせて回していた。それは撮影スポットの一つとあった。シーサーづくり、紅型の絵つけなどの手作り体験コーナーもあり、その気になれば半日は楽しめそうだった。
 夕方5時過ぎに那覇のホテルに戻り、夜は国際通りに繰り出して「島唄」のライブのある店で泡盛を嗜んだ。(追い書き) 
続く

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2015年3月 9日 (月)

歴史的文化財の破壊

 日本にも、あの明治時代にもあった
 土曜日は、奈良・月ヶ瀬梅林まで足を延ばし津で夜を過ごした。昨日は、津の友人とは別れて名古屋の3人で大垣に向かった。
 大垣公園の‘舟遊び’と大垣城へは、一度は行ってみたいと思っていた。だが堀を回る観光舟は、期間限定で、この日は休止期間であった。大垣城は、1936年(昭和11年)に国宝に指定されたが、1945年7月29日の米軍の空襲により焼失し1959年に再建された。
 それで博物館になっている天守閣を見て回りながら、ふと思ったことは、「米軍の全国規模且つ執拗な‘無差別爆撃’」は、果たして必要だったのか。軍事戦略だけなら、大都市乃至は基地、港湾、橋梁、軍需工場集積地に限定されるのではないか。アメリカは、日本全土を焦土化するだけでなく、そのことによって日本の文化そのものを破壊しようとしたのではないか。文化の破壊は、建造物等の文化遺産だけなく「日本人の精神文化」をも破壊するために、その‘拠りどころ’の破壊をめざしたのではないか。
 最近では、「イスラム国ISIS」が、イラク北部の都市・モスルで、博物館や紀元前7世紀から伝わる石像などを破壊する映像がインターネットで公開され、世界に衝撃を与えた。世界と言わず私自身が強い衝撃を受けた。イスラムのことも、破壊された文化財そのものについてもほとんど知らないが、「歴史的遺物」は、可能な限り人類か地球が終焉を迎えるまで後世に伝え残すことは重要なことだと思っているからだ。
 価値観や宗教観の違いと言ってしまえばそれまでだが、その違いの一方の意志だけで破壊することが許されるとは到底思えない。せめて「封印」にとどめるべきだ。
 米軍の、京都・奈良と北海道など一部を除く無差別全面破壊行為、イスラム国ISISの破壊行為は認めるわけにはいかないが、私たち日本人にも、戦禍とは別に大規模な文化財破壊行為があったことも忘れてはならないだろう。
 それは、良く知られている明治時代の「廃仏毀釈」だ。詳細は省くが、これは、今では‘ロマンとノスタルジア’のイメージが漂う明治時代の「裏面史」の一つであろう。いったいどれほどの寺院、伽藍、仏像、仏具が破壊され、失われたことだろう。当時の薩摩藩だけの例では、1616あった寺院が全廃されたという。すさまじいばかりだ。
 もう一つ、1873年(明治6年)の政府による「廃城令」で、対象となった城は全国で144城。天守閣が創建時のまま残った城は、松本城、彦根城、犬山城、松江城など12城だけだという。これもすさまじい。
 城郭、神社仏閣などは、権力、権威の象徴で、その豪華で大規模さに較べ多くの庶民の生活は貧しかったことを思えば、一概に言えない、むしろ反発を覚えるのだが、少なくとも「歴史的遺産、遺物」については、その破壊、売却、放置をさせない国、自治体の政策を求めたい。当然のことながら、私もその方面の造詣を深めたいと思う。

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2015年3月 7日 (土)

奈良・月ヶ瀬梅林へ

 時期尚早と雨に祟られて
 三重・津に在住の、高校の同級生の招きで、名古屋から3人で出かけた。目的は「観梅」「津の夜」であった。
 この日、三重県は午後から雨模様になったが、津で合流した男4人は、車で2時間弱かけて三重と奈良の県境近い「月ヶ瀬梅林(梅渓)」へひた走った。ここは、国の名勝指定を受け、奈良県立公園の一角と言うことであったが、私は初めて来たばかりでなく、名前そのものも初めて知ったのだった。
 着いてみれば、雨は本降りで梅はまだ蕾が多く、人もまばらだった。土地の人に聞いてみれば、開花は2週間先あたりと言うことだった。それでも梅はポツリポツリと咲いてはいて、立ち寄った茶屋の前の「黄梅(おうばい)」は、早咲きの梅と見えて満開だった。その茶屋からは名張川を見下ろすことが出来、満開時には梅林公園から、川筋にかけての数千から万くらい達する梅が見事であろうと推し量られた。
 もし雨でなかったら、1205年の、梅林の起源となった真福寺、さらに頼山陽の碑のあるところまで散策したであろうが、ハイキングコースにもいいようで、またの機会と言うことになった。
 戴いたチラシには、「・・・明治時代には、春になると文人墨客が多数訪れ‘江戸(東京)の文壇が空っぽになった’と新聞で紹介されている」とあり、その主な来訪者に、斎藤拙堂(幕末の朱子学者だが和洋折衷の知識人でもあった)、頼山陽(江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人)、福沢諭吉、富岡鉄斎(明治•大正期の文人画家、儒学者)、谷崎潤一郎、新渡戸稲造、金田一京助他が紹介されていた。観梅ばかりでなく、こうして日本史に造詣の深い彼の選んだ先だったのだった。
 その夜は、津市の繁華街の一角で酒席を持った。地酒の「義左衛門」(伊賀市、若戎酒造)のせいばかりではないが、話は途切れることがなく夜が更けた。

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2014年11月19日 (水)

葛飾柴又へ(2)

 寅さんと山田洋次監督
 山本亭の前に急な階段がありそれを上がっていくと記念館に至るのだが、私は迂回して正面入り口に出た。向かい側は「山田洋次ミュージアム」である。
 入館料は「シニア」が適用されて100円安だった。それに抽選だったが、寅さんデザインのハンカチのおまけがついた。
 いろいろなコーナーがあって、私が最初に行った所は、寅さんの実際の映画で使われたという「おいちゃんの店」だんご屋の「くるまや」と「朝日印刷所」の撮影セット。寅さんシリーズが終わって、ここに持ち込まれて保存されているのだという。
 そして、隣接する「朝日印刷所」と一緒に「くるまや」の模型があって、1階、2階の構造がよくわかった。また展示されている印刷屋の、活版印刷機などの小道具類は本物。次に寅さんの生い立ちを紹介する「わたしくし生まれも育ちも葛飾柴又です」コーナー。寅さんの履歴書があったのはここだったかな?
 おもしろかったのは、寅さんが持ち歩くあの鞄の中身の紹介コーナー。「寅さんの全財産」というその中身で目を引いたのが、まず替え用のシャツ、木綿のタオル、大きな目覚まし時計。そして渦巻き蚊取り線香とうちわ、国鉄の時刻表、トイレットペーパー、はさみ、ボールペンもあるが、なぜか「高島暦」「龍角散」も。
 それにしても、私が映画の中でちょっと不思議に思っていたことなのだが、露店で売る商品はどこで仕入れるのかなあ、路上で売るシーンは見るけれども、商品を持ち歩くところは見たことがないし、お店を撤収した後、売れ残りはどうするのだろう・・・とか。(映画だから・・・)
 最後に腰を下ろしてじっくり見入ったのが、共演の「名優たち」の1シーン。ほとんどが故人となってしまったが、別の映画でも知る名前が気に入って次々とボタンを押していった。宮口精二、志村喬、宇野重吉、嵐勘寿郎、片岡仁左衛門、三船敏郎、吉田義夫、森繁久弥、東野英次郎、芦屋雁之助。何故か笠智衆がなかった?
 山田洋次ミュージアム
 もう少し・・・、でもキリがないなあ、と後ろ髪惹かれる思いで館を出て、「山田洋次ミュージアム」に向かった。
 ここはそんな広くないワンフロア―だったが、山田洋次監督が「凝縮」されていた。さっと見て終えるつもりが、3度も見て回った。
 私が、山田洋次監督の最新映画を劇場で観たのは、2013年1月公開の「東京家族」だった。小津安二郎監督の「東京物語」をテレビシアターで見たのはそんなに前でなかったので、監督の違う二つの映画が重なった。それは、山田監督にとっても、ある種の思い入れのある映画だったとのことだった。
 さて山田洋次ミュージアムは、監督の『男はつらいよ』シリーズと並行しながら作られてきた「山田洋次もう一つの世界」と呼ばれる作品群を中心に、時間軸を基調にわかりやすく8つのテーマ(「デビュー作から『男はつらいよ』誕生まで」、「家族とは」、「教育とは」など)に分け、テーマ毎にパネルで映画づくりへの想い、描いてきた人物像、社会背景を照らし合わる、そんな展示であった。
 そして、山田洋次監督作品といえばやはり、(以下引用)人間ドラマに焦点を当て、ユーモアとペーソスに溢れたもの、風景を美しくとらえながらも凝った映像表現は控え、一般人や社会の逸れ者のささやかな日常生活に潜む喜びと哀しみを丹念に描く・・・。演出においては、「主役、脇役含めて全体として一体となった、わざとくささのない自然な演技」を要求するという。現場でのひらめきや勢いを大切にするため、事前にコンテをきっちり詰めるやり方も採らない。横長のシネマスコープ画面を愛し、画面中央で男女が語り合う片隅で犬が戯れていたりするのが映画の良さと語っている。
 私が館内を3度も回ったもう一つの理由は、映画に向き合う監督の「映画づくりへの想い」の、言葉の数々だった。全部はメモしきれなかったのであきらめたが、カメラで撮っておけばよかったと思ったのはあとの祭り。
 例えば、家族についての制作は「家族とはこうあってほしい、という憧れのようなものです」と書いていた。また「ぼくの作る映画が観客にとって‘身につまされるような’物語であり‘他人事ではないような’ドラマでありたい。いつもそんな思いで制作してきた。このミュージアムも、その願いがこめられた世界であってほしい」という監督の直筆メッセージが添えられていたのである。
 「山田洋次-全作品予告編コーナー」というのもあって、一つ、二つ見たがここでも時間に制約された。
 矢切の渡し・上野公園
 帝釈天から寅さん記念館、山田洋次ミュージアムを見て回って、おもしろかった、来てよかったと思いつつ、やはり‘疲れた’のは、歳のせいか。『なんだかソフトクリームが食べたくなった・・・』
 そこで、柴又公園に出て、江戸川の土手に立ち、少し先にある「矢切の渡し」を見ながら時を過ごした。近くの看板には、河川敷のサイクリングロードは、大災害時には、物資輸送の専用道路になるのだという。また「矢切の渡し」も、水上輸送の荷揚げ場になるため、耐震設計の船着き場になっているという。ま、それはともかく、寅さんも歩いたであろう土手は少しだけ散策して、帝釈天参道に戻って、遅くなった昼食をとることにした。
 上野公園には、午後4時少し前に着いた。ここまで来てわずかな時間では、行くところはただ一つ「上野東照宮」だけ。それは、例の「四季雑談の会・史跡巡り」の一つで徳川家康シリーズがあったからだ。「東照宮」は関東を中心に幾つかあるが、私は、既に「岡崎・滝山東照宮」「日本平・東照宮」「日光東照宮」を回ってきたので、この「上野東照宮」もいつかは、と思っていたのだった。
 京成上野駅を降りて、春の満開時は凄いだろうなあと思いながら、桜並木の下をゆっくり歩いた。右に清水観音堂、左に五条天神社を見ながら、東照宮・大石鳥居の前に出た。表参道の左右には、石灯籠が並び、続いて銅灯籠が幾つも並んでいた。そして正面の「唐門」の前に出て、ひとしきりその彫刻と、金箔の門を眺めた。その先の社殿と社殿を取り巻く「透塀(すきべい)」見学は有料。入ってみた。社殿は金箔(現在は黄銅?)がふんだんに使われている。
 「透塀」は、格子の向こう側が見える、透かし彫り。上下に分かれていて、上欄は、野山の動植物、下欄は、海や川の動植物。鳥や獣、魚などの動物名は、手すりに名前が記されて入りのでわかるのがいい。
 唐門の内側を見ることができた。そこには松竹梅と錦鶏鳥の透かし彫りがあるが、それは表からも裏からも見ることができる精巧なものだった。左甚五郎の「昇り龍、降り龍」もあった。「降り龍」は、頭が下向きにたれている。これは、「偉大な人ほど頭を垂れる」という諺に由来するという。
 ピースサイクル全国運動に加えて、高尾山、柴又、上野の3日間は、雨にも降られず、いい時間を過ごせた。 

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2014年11月17日 (月)

葛飾柴又へ(1)

   
 帝釈天で、予定時間を超えて
 昨日の高尾山紅葉巡り(登山)は、想定外の高速登山で大腿部と臀部がやられた。今朝は起床して立ちあがった瞬間、膝から崩れそうになった・・・。9時過ぎ、ようやく朝食に立つことができた。
 10時、JR神田駅からスタートし、日暮里、京成高砂経由金町線・柴又下車。寅さんの像の前で写真を1枚。帝釈天参道を右に左に見ながら進む。草だんごの店「とらや」前で声をかけられるが、‘帰りに寄るから’と通り過ぎて、柴又帝釈天(経栄山題経寺)に向かう。「二王門」をくぐると左に「大鐘楼堂」があり、「御神水」で手水する。正面が「帝釈堂」で一礼して境内を一回り。すると「彫刻ギャラリー(有料)」なるものに目が留まった。そこで今朝方、同級生のI・Kさんとひょんなことで電話を交わし、その時‘じっくり見てみるといいよ’とアドバイスを受けたことを思い出し、靴を脱いで上がった。一人、二人見かける程度で閑散というか静寂さそのままだった。
 「彫刻ギャラリー」というのは、帝釈堂内殿の外部(壁の部分)が、東・北・西の全面に装飾彫刻で覆われているもので、中でも「胴羽目板」と言う所の、「法華経説話の浮き彫り10面」がすごいものだった。色彩は施されていない。風雨から守るために周囲はガラスで覆われ、見学用通路があるのだが、埃にまみれたまま。しかしそれがかえって、1922年(大正11年)から1934年(昭和9年)にかけて、加藤寅之助ら10人の彫刻師が1面ずつ分担制作したとは思えない、平安時代のものかとさえ思わせるものだった。
 一回りして、「大客殿」を見つつ、廊下を伝って池泉式庭園の「邃渓園(すいけいえん)」の庭を鑑賞。紅葉した楓が一本、あでやかだった。最後に本堂をチラリと覗いて「瑞龍の松」の前に戻った。付言すれば境内の奥まった、人目に付きにくい一角に「東日本大震災」の慰霊碑が建っていた。そこにはきちんと東電・福島原発の事故のことも触れてあった。
 という経過をたどったので、ここで思わぬ時間をとってしまった。午後から上野の美術館一つでも見ておこうと思ったが、この時点であきらめた。次に「寅さん記念館」に向かった。途中、大正時代の建物「山本亭」に寄った。なんでも、地元の有力者、山本栄之助の屋敷とかで、伝統的な書院造と洋風建築を複合した和洋折衷。1988年に葛飾区が取得して一般公開されているのだという。なお書院庭園も見所とのことだったが、時間が気になり入館しなかった。お菓子に抹茶の席もあり、庭を見ながら一息つきたかった。後で考えれば、急ぎ旅は、得るものより失うものが多いのかもしれない。

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