2019年11月15日 (金)

三度目の東京・高尾山へ

   紅葉はまだ、目立つ元気な高齢者
 明日からピースサイクル全国会議(総括)が開かれるにあたって、折角の上京、どこかに立ち寄りたい、かといって人混みは避けたい、例によって上野の美術館二か所巡りか、築地から移った新しい豊洲か、いやいやしょうもない・・・
この時期だから「新大久保コリアタウン」を覗いてみようかなと考えあぐねた結果、3度目になる高尾山に上がってみることにした。前回がいつだったかは忘れたが、その時のアクセスメモが残っていったので、それを参考に東京駅-新宿から京王線で高尾山口へ、ケーブルで高尾山駅。ここまで予定のタイムスケジュール通りの正午。
 晴れたこの、遙か先の都心の高層ビル群を遠望、周辺の雑木林に目をやっても、紅葉といえる風景には程遠かった。そこで「サル園(野草園)」に寄って、もう少し山肌の見える場所にも行ってみたが、緑葉の山並みが見えるばかりであった。それで目標を「薬王院」までとし歩き始めた。そこまではそんなにきついとは思っていなかった。しかしこれから先思わぬ苦労(やや後悔)することになった。やや重めのザックを背負っていたこともあったが、途中の「男道、おんな道」の分かれ道で、階段を避けて緩やかな「おんな道」を選んだのだがこの坂がきつく“ええっ、なんでこの程度の道のり、坂道で”と引き返そうかなと思ったくらいだった。休みを2度入れて歩速をさらに緩めて何とか上がり切った。
 そこからさらに歩いてようやく「薬王院」にたどり着き、まずは汗を拭き、水分を補給。1か所だけ紅葉を背景にできる場所があったので、通りがかりの人にカメラをお願いした。それにしても、高齢者が多かった、平日ということもあろうが、団体、グループ、夫婦連れ、単独も(私も)
 夕方の国会議事堂前での「金官行動」に参加する予定をしていたので、早めに下山することにした。ケーブルカーにするかエコーリフトにするかで迷ったが、時間を逆算したら十分時間が取れると判断し、約40分と表示された最短の「1号路」で降り始めた。歩き始めて10分ほどして“リフトにすればよかったかな”と後悔が立ち始めた。大腿(四頭筋)部が痛み始めたのだ。「男坂」の階段を下りる時にその兆候を感じていたのだが判断が甘かった(若くないのだ!)。耐えきれず1回だけであったがベンチで休憩をとって降りきった。
 このまま国会議事堂前まで行くのはさすがにつらい。そこでチェックイン21時を変更して4時30分ころにホテルへ。携帯していた軽食と1時間の休息、荷物を最小限にして、神田から東京駅に出てそこから丸ノ内線で現地に。開始30分前の午後6時頃であった。まだ人は少なかった。ここで午後は8時まで行動に参加した。

 

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2019年5月 6日 (月)

あべのハルカスに上がる

 大阪の変貌を想像してみたが・・・
 世間では「10連休の最後!」という5月6日であったが、私は大阪にいた。
 言ってみれば“あそび”なのであるが、昨日の「京都」とこの大阪はいつもセットで、何度か来ているので、実は「観光マップ」を開いてみたが、ここ!というところが見つからなかった。若い人たちなら真っ先に「USJ」だろうが、わが世代では一度行けばそれでよし。日本史に関心があるから「大阪城」は必見だが、一人だけならまだしも、1日7~8千歩が限度という連れ合いがいれば避けるのが無難。
 さて、そこで話題も少し下火になった超高層ビル「あべのハルカス」を上がってみた。地上60階、地上の高さが300m。大阪からJR環状線内回りで天王寺駅へ、そこからエレベーター前に行くのに手間取り(こういう方向感覚も衰え気味)、それでも行列ができているかと思えばすんなり上がれて、大阪平野の東西南北を見渡した。
 このような高いところに上がれば、まず何を探すだろう。東京ならスカイツリー、東京タワー、お台場方面か皇居あたりであろうか。名古屋?そうだなあ、名駅の高層ビルからならやはり名古屋城くらいであろうか。
 それで大阪は?とまず大阪城を探した。写真パネルの「矢印」がなかったら、なかなか見つけられなかったであろう。ビル群の中に「天守閣」とそれを囲む緑がかすかに見えた。
 ということであるが、一方でもし戦争か阪神淡路級の大地震がこの直下で起きたら、という恐ろしい想像もしてしまう。さらにまた100年といわず50年後の大阪は、どんな変わりようをしているのだろう。単に高層ビルが一面林のように並び立っているのだろうか。いや人口減で老朽化した建物は再建されないで、そこが緑地に代わっているのかもしれない。オアシスのように。
 どうでもいいことだが、2025年の「大阪万博」が何かを示すかもしれない。

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2019年5月 5日 (日)

この日、京都にいました

 定期観光バスに乗る
 この日の午前10時から、参院選愛知選挙区、立憲民主党からの立候補予定候補者、田島まいこさんの選挙事務所の開所式が行われることだったがパスした。
 世間でいう「10連休」の8日間は、いつもと変わらぬ毎日のように過ごしてきたこともあって小旅行を計画した。
 各地の温泉地を検索したがどこも予約が取れなかった。こんな時は「京都・大阪」がパターンになっていて、今日は京都に出掛け、定期観光バス「~源氏浪漫漂う~平等院と宇治散策・醍醐寺・萬福寺」コースに乗った。京都駅午前8時40分発の7時間コースであった。
 京都へは、何度も足を運んではいたが、今日のコースのような南部の「京都市伏見区」は、伏見稲荷までで、それ以外は「空白」地域ではあった。
 バスが最初に案内したのが、真言宗山階派の大本山の「勧修寺(かんじゅじ)」、次に空海の孫弟子にあたる理源大師・聖宝が、醍醐山上に小堂宇を建立、准胝観音、如意輪観音の両観音像を安置した事に始まったという「醍醐寺」の広大な敷地のうち【三宝院】だけが対象。その次は范道生作の布袋尊は、特に傑作で都七福神の一人として崇められているという「黄檗山(おおばくさん)萬福寺」、続いて四季折々に咲く花で有名で、一名「花の寺」・「あじさい寺」とも呼ばれている「三室戸寺(みむろとじ)」であるが、この時期は「つつじ」が満開であった。最後が10円銅貨の絵柄に起用されている、平安時代後期の藤原道長の子頼道が父の別荘をお寺にしたという「平等院」というコースであった。
 このうち京都府宇治市にある平等院は、いつか行ってみたいと思っていたので、ようやく希望がかなった、というわけである。ではあるが実物と私のイメージとはかなり離れていたというのが正直な感想だ。もう少し豪壮で重量感があるものと思っていた。改めて10円硬貨を眺めてみたが、横への広がりという点で直径が24ミリの硬貨に収まる鳳凰堂が横長に見えたためだろうとも思った。
 自由時間を使って、平等院表参道から宇治橋を渡り、宇治川に沿って散歩道を歩き、朝霧橋を渡って中洲の「橘島」に降り、「宇治川先陣之碑」は見損なったが、橘橋を渡って再び平等院表参道に戻る約30分のコースであった。
 今日1日の歩数は約1万7千歩であった。健脚とは言えないが、まだまだ“通用する”わが脚であった。

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2016年8月20日 (土)

私の夏休み(3)

 新副都心めぐり
 ピースサイクルの全国会議など、上京する折りにあちこち見て回り、主だったところは巡り歩いたとは思ってはいるが、船下り、クルージングなどと羽田空港、臨海副都心など、「海」側が残っているなと感じていた。
 いろいろ検索した結果、宿泊地から近い新橋から、都心とお台場・臨海副都心とを結ぶ新交通「ゆりかもめ」に乗ることにした。全線高架のモノレールなので、展望が開けるだろうと思ったが、沿線の内側はビル群が続くばかりで、外側は所々で視界が開ける程度。
 実はこの日の朝は、ホテルを10時前には出発予定だったがかなり強い雨だった。新橋までは歩いて7~8分とはいえ、このままではびしょ濡れになるだろうと、しばらく待機した。2~3分先の所に地下鉄銀座線の駅もあるにはあったのだが、それでもこの雨脚ではと二の足を踏んで、小降りになるのを待った。
 30分ほどして出発。汐留、竹芝、日の出、芝浦ふ頭とゆっくりと進む。まるで遊園地の電車に乗っているがごとくである。レインボーブリッジを渡ってお台場海浜公園へと進む。ここは、いつだったか夜の観光バスでお台場へは来ているが、今日は上から見下ろすだけ。観光バスも見え人も結構出ていた。
 10番目の駅「青海(あおみ)」を過ぎ、国際展示場正門という駅に着くと、目の前に四角形の奇妙な建物が現れた。「東京ビッグサイト」と読めた。イベント会場か展示会場として使われるのであろうか。どんな催事であろう入館することは生涯なかろうと思ったのだった。
 有明、有明テニスの森と続く。私には縁のないことではあるが「有明」と聞けば「田園コロシアム」が連想された。
 次に、市場前、新豊洲と聞けば、今大問題となっている築地市場の移転問題がある。上から見てもかなり広く見えた。今年の11月半ばころに移転が完了するとのことだが、そのままスムーズに進むのか、小池新都知事が何か策を示すのか。私の見た感じでは、ここまで工事が進んでいると中止、撤退は難しそうで、暮れの繁忙期を控え、そのまま新年を迎え、2~3か月の冷却期間をおいて、話し合いを続けるなどして、最終的には、移転容認ということになるのではないか。
 さて予定では、地下鉄で月島に出て乗り換え、築地市場で鮪丼でも食べるか、大江戸線で大門へ、そこから歩いて浜松町へ、東京モノレールに乗って羽田空港へ向かうかのどちらかであったが、あっさり拒否された。それならばと、有楽町線で有楽町に出て上野へ、そこで噂の「アメ横」がどんなものか見て回るのはどうかと提案、それで決着。
 一人旅なら、上野の美術館、博物館の一つや二つは見て回ったであろうが、ま、今日のところとはガイドに徹しておこうと。衣料品関係は外国人向けか若者向けが多いようで興味は少なめ。バッグ類はデザイン的にちょっとという感じ。1080円の腕時計もあったが、どんな性能なのであろうか。やはり、果物、魚類は安いが、持って帰れないので見るだけ。東京で一人暮らしすることがあったなら、ここに買い出しに来たかもしれないと夢想した。
 1日つづらしたこともあって、予定が大幅に変わってしまったが、この年齢では、当初計画そのものには、少々きついものがあったようで、あれこれ省いて正解だったかもしれない。
 夏休み終わって、明日から日常に戻るが、3食まともに摂っての3日間だったから、ウエイトコントロールの苦行も待ち受けている。

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2016年8月19日 (金)

私の夏休み(2)

 再び柴又・帝釈天へ
 葛飾柴又へは、2014年の11月に初めて行ったのだが、渥美清が亡くなって20年ということもあり、さぞ賑やかであろうと思って連れ合いを案内した。
 平日の暑い午後ということもあってか、思ったほどの人出ではなかったが、黄帽の小学生の一団も来ていた。引率の教師は、「帝釈天」はともかく、映画「男はつらいよ」の舞台になったことについて、どんな説明をするのだろうかとふと思ったが、“とらさんの映画をみた人”と手を上げさせた程度であろうか。まさか“先生、ふうてんってどういう意味ですか?”と聞かれはしないだろうが、聞かれたらどう説明するのだろうか。
 「寅さん記念館」「山田洋次ミュージアム」へも回ったが、少しへばっているようなので早々に引き上げ、帝釈天表参道に戻って、かき氷と草団子で一息入れて引き上げた。
 そういえば、渥美清が亡くなって“ええ、もう20年も経つの!”と少々驚いたものだが、8月は広島、長崎の原爆の日から71年は言うまでもないが、日航ジャンボ機に墜落事故から31年である。それは1985年の8月12日のことであるが、この8月12日といえば、1978年に日中平和友好条約が締結された日でもあるのだが・・・。
 そうそう19日の今日といえば、「六ヶ所ピースサイクル」が、茨城県東海村を出発した日でもあったのだった。(後記)

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2016年8月18日 (木)

私の夏休み(1)

 大磯に宿をとる
 当初17日から3日間、私の夏休みが始まる予定であったが、初日の東京がまともに台風11号の直撃を受ける予想となって、急きょ1日遅らせて、今日から始まった。
 この日のためにいくつかの課題を済ませておいたので、後顧の憂いなしとは言えないが、若者風に言えば、「とりま」10時過ぎの新幹線に乗って新横浜で降りた。それから横浜-中華街-山下公園(港の見える丘)は定番であろうが、「とりあえず」そのコースをたどり、みなとみらい線の「日本大通駅」から横浜駅に戻り、今日の宿大磯に向かった。
 大磯といえば吉田茂が思い浮かぶが、それが目的ではなく、伊豆の温泉地の宿が取れずたまたま空いていたにすぎず、翌日の江の島か鎌倉方面の拠点にするつもりであった。出発の直前、横浜の同級生から電話がかかって来て、大磯で宿が取れたという話をしたら、“だったら、澤田美喜記念館に行ってみたら”と勧められた。澤田美喜?すぐには思い出せなかった。聞いた覚えがあるかなあ程度で、話を聞くうちに泊まるだけではつまらないので行くことにした。
  澤田美喜の功績は少なくとも二つあるとされる。一つは、「戦後の混乱の中でアメリカ占領軍兵士との間に生まれた混血児の救済と養育のためにエリザベスサンダースホームを設立したこと」、もう一つは「熱心なクリスチャンであった澤田美喜は 隠れ切支丹の遺物の収集家でもありました。殉教者の子孫が大切に守ってきた品々に強い信仰の息吹を感じるとして、持ち主の名はもちろん、作者、明確な時代も判らぬままに、取り上げられ、打ち棄てられた隠れキリシタンたちの遺物を九州のみならず、本州のあらゆる場所を巡り歩き、収集」(引用)し、今に残したことであろうか。
 世界を旅した時に収集したであろう300は下らない十字架のコレクション、大小の石像、木像のマリヤ像、今年の5月から初め公開展示された「隠れ切支丹」が所持していたとする「日本刀の鍔」30点余、その鍔は、巧みに「十」が彫り込まれたものだった。また館員の説明、実演で見せていただいたのが、「切支丹の魔鏡」というもので、表は鏡で、裏側は銅製の花鳥風月の彫り物で、見ただけでは普通の「銅鏡」なのだが、光(太陽)を鏡に当てると、その反射光が「マリヤ像の影絵」として映るのである。見せていただいたのは、さる著名な作家の手になるレプリカだったが、その技法は教えていただけなかった。
  こうした遺物のあれこれからは、踏み絵、磔(はりつけ)などの弾圧にも関わらず恐れず、隠れてでも信仰を捨てなかったその厚さ、深さは世界に類を見ないとさえ言われるとか。
夕刻、食事前の4時半ころ、海岸に出てみたら、そこは「アオバト」の飛来地で有名なのだそうだ。「アオバト?」知らなかった。体長は33センチくらいのハト、全体が緑色の羽色をしていると宿の人に聞いたが、岩礁までの距離が遠いことと日が暮れかかっていたので、30数羽が旋回するようにしては岩場に降りては飛び立つのが見えたものの、海水を飲む姿までは見ることが出来なかった。“海水を飲む?”調べてみたら、アオバトの主食である果実にナトリウムがほとんど含まれていないので、その補給と水分をとるためらしい。
  時間があれば、島崎藤村の墓地のある地福寺にも行きたかったが、それはあきらめて、夕食の膳に向かった。(後記)

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2015年6月28日 (日)

大塚性海寺の紫陽花

 やや時機を失したか
 沖縄から帰って、報告書のベースとなるブログがまだアップされていない現状。だが留守にした見返りというほどでもないが、近場の紫陽花の名所を検索して連れ立った。
 向ったのは、稲沢市にある「大塚山 性海寺(しょうかいじ)」であるが、名鉄本線奥田駅から歩いて30分ほどの所にあった。この時期、幾らかは有名であろうから、行きしなに同じ方向に向かう人もいるかと思えば、われら二人きり。現地では、中高年の女性ハイカーが10~15人ほどいたから、ひょっとして国府宮駅から歩いてこられたのかもしれない。
 梅雨が明けたような空、その遥か向こうに三菱電機のエレベーターの試験塔(タワー)が見え、道路脇には、久しく見ることのなかった田んぼがあり、どこか懐かしい‘草いきれ’ が漂ってきた。
 性海寺はもちろん初めてであるが、稲沢市に降り立ったこともなかったように思う。その性海寺は、810年~924年(弘仁年間)空海によって愛染明王を本尊として創建されたと伝えられ、1177年~1181年(治承年間)阿弥陀三尊像が安置されたというが、そちらはあまり興味を持たなかった。
 それで稲沢市が、歴史公園として平成4年にオープンし、6月1日頃から、「あじさい祭り」を開催しているという。園内の紫陽花はもう盛りを過ぎていたから、ひょっとして先週の土、日あたりで「あじさい祭り」は終わっていたのかもしれない。
 紫陽花は、「ガクアジサイ」という名前しか知らないが、園内には、「伊豆の華」「カシワバアジサイ」「城ケ崎」など約90種1万株のあじさいがあるという。1万株と言えば相当なものだが、印象としてそんな感じはしなかった。それは時期が外れたこともあろう。また紫陽花は字のごとく主として「紫」色であるが、その濃淡の違いばかりでなく、白いあじさいもあり、漢字の「紫陽花」を見ることはなかった、というのも小さな発見。
 こうして、四季にそって花だ、緑だ、紅葉だなどと巡る機会が出てきたのも、‘老域’に身を置くせいであろうか。

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2015年6月25日 (木)

慰霊の旅・南部戦跡へ慰霊の訪問

 ひめゆりと平和祈念公園
 6日目の最終日は、今回の訪沖の目的の一つ、南部戦跡と慰霊が中心であった。
 いろいろ思案したが、観光の1日タクシーに乗ることにした。その8時間をのうち午前中は、首里城公園と「海中道路」で島に渡り、東南植物楽園も候補に挙げたが時間の都合でこれは省略した。
 首里城
 首里城は14世紀末に創建された中国や日本の文化も混合する琉球独特の城とのことだが、先の沖縄戦で米軍の徹底攻撃(艦砲射撃など)で破壊焼失したが、1992年11月3日に復元された。
 私が以前に来た時の首里城跡は、「守礼門」だけがあって、あとは石垣だけであった。この守礼門の正面には「守禮乃邦」という掲額があるが、これは礼節を重んじる国を意味しているとのことだった。
 首里城公園全体を見る時間はなく、「園比屋武御嶽石門」(そのひやんうたきいしもん)」をちらと見て、歓会門、瑞泉門、漏刻門、広福門、奉神門と幾つもの門を抜けてようやく正殿前の御庭に出ることが出来た。そこからは正殿内を順路に従って見学し、淑順門から守礼門まで戻って首里城を後にした。
 海中道路
 次の「海中道路」というのは、うるま市にある全長約5kmの道路。本島から浜比嘉島、平安座島、宮城島、伊計島へアクセスする道路として造られた。海中と言っても海の中、トンネルではなく、浅瀬の海を埋め立てて造られたもの。運転手さんの話では、大潮の引き潮の時は歩いて渡れたそうで、満ち潮の時間に渡っていた人が溺れた例もあったとか。そもそもこの道路は、平安座島にある石油基地と本島のアクセスを容易にするためでもあるが、汚染源ともなりうる石油基地の、その交換条件みたいにして造られたともいわれる。
 道路の両側にはマリンブルーというより4色の海が広がっていて、道路沿いには砂浜があり絶好のドライブコースになっている。道路の真ん中たりで下車してここでもまた「美ら海」を満喫した。だがその石油基地というのが気にはなった。道路から見て島の反対側の海岸べたにあるとのことで、タンクの頭がちらほら見えるだけだったが、津波か大型台風の高潮が襲って破壊されれば、この一帯だけでなく本島西海岸は、甚大な原油流失汚染にさらされるだろう。島にとっての便利さと引き換えではあるのだが。
 もう一つ、浜比嘉島には、アマミキヨ(アマミチュー)、シネリキヨ(シネリチュー)の男女二体の神によって島が作られ、七御嶽を作り、そこに彼らの子孫としての人間が増えていった、という神話の話もガイドされたが、散策してアマミチューのお墓まで行く時間はなかった。
 これで今日の前半は終えて「道の駅・恩納」で昼食。ここでも私は「沖縄そば」。そして高速道路に乗って一気に南下してひめゆりの塔などの南部戦跡へと向かった。
 ひめゆりの塔とひめゆり平和祈念資料館
 午後2時頃だったろうか、柵で囲まれた中には碑とガマの入り口がある「ひめゆりの塔」では献花して合掌。資料館の中には、ガマのジオラマがあったが、私は既に代表的な3つのガマを見てきたので、もっと現実に近づいて見て、感じることが出来たと思った。
 資料館は、6つの展示室があって、それぞれ「ひめゆりの青春(240名の女生徒)」「ひめゆりの戦場(看護要員として辛苦の場、ガマへ)」「解散命令と死の彷徨(米軍の攻撃にさらされ)」「鎮魂(227名の遺影)」「回想(私たちに向けらたものは何か)」「平和の広場(非戦と平和運動)」をすべて見て回った。
 今回は訪問できなかったが、鉄血勤皇隊(てっけつきんのうたい)と言われる、末期の沖縄戦で戦闘に動員された日本軍史上初と言われる14~17歳の学徒隊(少年兵部隊)の慰霊碑「健児の塔、他」などとも合わせて思いめぐらすと、思わず「会津戦争」を重ねてしまうが、その規模、悲惨さ、過酷さはその比ではないだろう。
 平和祈念資料館と平和の礎(いしじ)
 最後の訪問地は、沖縄平和祈念資料館、平和の礎のある沖縄平和祈念公園であった。
 資料館の入り口に立って、改めて沖縄戦を思い起こせば、1945年3月末から7月に至る90日におよぶ「鉄の暴風」は、島々の山容を変え、文化遺産のほとんどを破壊し、20数万の尊い人命を奪い去ったのである。そしてこの沖縄戦は、日本に於ける唯一の県民を総動員した地上戦であり、アジア・太平洋戦争で最大規模の戦闘であったといえる。
 さらには、沖縄戦の何よりの特徴は、軍人よりも一般住民の戦死者がはるかに上まわっていることにあるといわれる。銃弾・砲弾に倒れ、自ら命を絶ち、飢えとマラリアで倒れ、あろうことか日本兵に殺されるなど、沖縄県民は、想像を絶する極限状態の中で戦争の不条理と残酷さを強いられた。その一部が証言として、遺品として、映像・写真としてこの資料館に残されているのである。語り継がれているのである。
 どれ一つとっても、そこには‘命’が宿っていたのであり、無言ではあれ、私たちに語りかけているのである。
 平和の礎
 沖縄6日間の最後は、祈念公園内にある「平和の礎」であった。
 平和の礎は、沖縄の「平和の心」を世界に伝えようと、沖縄戦終結50年を祈念し、1995年に摩文仁丘に落成したといい、刻銘碑は、資料館の隣の平和の広場を中心にして放射状に円弧の形で広がりをもって配置されていた。それらは屏風状に並び、5つ折タイプ69基、3つ折タイプ49基の合わせて118基、刻銘版は、1,220面に及び、約25万名の刻銘が可能とあった。並んだ石碑には国籍、軍人、非軍人を問わず、沖縄戦で亡くなったすべての人々の氏名が刻まれている。ただし、沖縄県民については、沖縄戦に限らず、全戦没者を対象としているのが。この礎の特徴だ。
 ただ、強制連行され死亡した朝鮮人慰安婦の遺族の中には、周囲の差別や日本人と同列視されることへの反発から、石碑への刻銘を拒否した者もあったといわれ、そのことも私たちは留意しておかねばならないだろう。
            ◇
 平和の礎のある丘からは、太平洋の大海原と打ち寄せる白波、青く広がる空の美しい景観が眺められ、幾らかたまっていた疲れだけでなく、何とも言えない心の塞ぎみたいなものが洗われるようだった。だが、それをもって心に刻まれたものを忘却してしまってはいけない、次の世代に語り継ぐことが私たちの世代の務めである。
 とりあえず、「沖縄慰霊の旅」の報告はここで終えるが、冊子にまとめる段階でさらに記憶を呼び起こして書き加えていきたい。(追い書き) 

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2015年6月24日 (水)

神話の島、ビーチ、水族館、琉球村

 一日観光のバスに乗って
 古宇利島
 沖縄の第5日目は、宿泊ホテルを8時過ぎに出発し15分ほど歩いて、県庁前・国際通りの入り口近くの集合場所から、出発前に予約しておいた観光バスに乗った。私たち二人、外国人を含めて15人の客だった。
 最初の訪問地は、海辺のきれいな古宇利島であった。古宇利大橋を渡っていくとき、左右はまさに「美ら海」そのもの。そして尾我地島ビーチを車窓から見て、古宇利島では海岸まで歩いて行ったが、滞在時間が20分では、はだしで海の水に親しむ時間もなかった。
 また古宇利島は、昔、この島に空から男女二人の子供が降ってきて暮らし始めた。この二人の子孫が増え琉球人の祖となった、と云う神話が伝わる島とのことだった。
 美ら海水族館
 続いて向かったのが今日のメインである観光コース定番の「美ら海水族館」であった。位置としては、沖縄本島北西部の本部半島備瀬崎近くにある国営沖縄記念公園・海洋博覧会地区(海洋博公園)内である。ちなみに「美ら海(チュらうみ)」とは、沖縄の方言で「清〔きよ〕ら(しい)海」という意味だという。
 この水族館は、2005年にアメリカのジョージア水族館が開館されるまでは世界最大の水族館であったといわれ、水量7,500m³を誇る世界最大級の大水槽『黒潮の海』があり、様々な南の海洋生物と、ジンベエザメ3尾他、ナンヨウマンタなどの大型の魚が悠々と泳いでいた。また別の「危険ザメの海」水槽には、沖縄近海にも生息する危険ザメの一種であるオオメジロザメやイタチザメなどのサメ数種類も飼育されていた。
 一通り見て回った後、隣接施設の「ウミガメ館」「マナティー館」へも行ってみた。また、海辺に行ってみたいと、エメラルドビーチまで足を延ばしてみた。気温は30度を超えていたから、すぐにでも海水浴ができるのであるが、そこには一組の外国人家族がいただけであった。
 40年ほど前になろうか、私が最初に沖縄に来たのは、沖縄海洋博の翌年くらいだったと思う。その時はまだ、未来型海洋都市のモデルとなる人工島「アクアポリス」が残っていたが、かなり以前に「鉄くず」として処分されたとのこと。元々人気がなかったということもあったのであろう。昼食は「沖縄そば」だった。
 
琉球村
 午後は、お買いもの、お土産コースの「お菓子御殿」に寄って、「琉球村」に向かった。
 この「琉球村」は、沖縄各地に残された仲宗根家などの民家を移築し、昔ながらの佇まいを再現したものであった。昔ながらの景色、機織りの実演もあるらしいのだが、その時はやっていなかった。また二つあるいは三つのローラーを組み合わせて、それが回転するように水牛に引かせ、ローラーの間にサトウキビを通して、搾り出してつくる昔ながらの砂糖作りを実際に牛に引かせて回していた。それは撮影スポットの一つとあった。シーサーづくり、紅型の絵つけなどの手作り体験コーナーもあり、その気になれば半日は楽しめそうだった。
 夕方5時過ぎに那覇のホテルに戻り、夜は国際通りに繰り出して「島唄」のライブのある店で泡盛を嗜んだ。(追い書き) 
続く

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2015年3月 9日 (月)

歴史的文化財の破壊

 日本にも、あの明治時代にもあった
 土曜日は、奈良・月ヶ瀬梅林まで足を延ばし津で夜を過ごした。昨日は、津の友人とは別れて名古屋の3人で大垣に向かった。
 大垣公園の‘舟遊び’と大垣城へは、一度は行ってみたいと思っていた。だが堀を回る観光舟は、期間限定で、この日は休止期間であった。大垣城は、1936年(昭和11年)に国宝に指定されたが、1945年7月29日の米軍の空襲により焼失し1959年に再建された。
 それで博物館になっている天守閣を見て回りながら、ふと思ったことは、「米軍の全国規模且つ執拗な‘無差別爆撃’」は、果たして必要だったのか。軍事戦略だけなら、大都市乃至は基地、港湾、橋梁、軍需工場集積地に限定されるのではないか。アメリカは、日本全土を焦土化するだけでなく、そのことによって日本の文化そのものを破壊しようとしたのではないか。文化の破壊は、建造物等の文化遺産だけなく「日本人の精神文化」をも破壊するために、その‘拠りどころ’の破壊をめざしたのではないか。
 最近では、「イスラム国ISIS」が、イラク北部の都市・モスルで、博物館や紀元前7世紀から伝わる石像などを破壊する映像がインターネットで公開され、世界に衝撃を与えた。世界と言わず私自身が強い衝撃を受けた。イスラムのことも、破壊された文化財そのものについてもほとんど知らないが、「歴史的遺物」は、可能な限り人類か地球が終焉を迎えるまで後世に伝え残すことは重要なことだと思っているからだ。
 価値観や宗教観の違いと言ってしまえばそれまでだが、その違いの一方の意志だけで破壊することが許されるとは到底思えない。せめて「封印」にとどめるべきだ。
 米軍の、京都・奈良と北海道など一部を除く無差別全面破壊行為、イスラム国ISISの破壊行為は認めるわけにはいかないが、私たち日本人にも、戦禍とは別に大規模な文化財破壊行為があったことも忘れてはならないだろう。
 それは、良く知られている明治時代の「廃仏毀釈」だ。詳細は省くが、これは、今では‘ロマンとノスタルジア’のイメージが漂う明治時代の「裏面史」の一つであろう。いったいどれほどの寺院、伽藍、仏像、仏具が破壊され、失われたことだろう。当時の薩摩藩だけの例では、1616あった寺院が全廃されたという。すさまじいばかりだ。
 もう一つ、1873年(明治6年)の政府による「廃城令」で、対象となった城は全国で144城。天守閣が創建時のまま残った城は、松本城、彦根城、犬山城、松江城など12城だけだという。これもすさまじい。
 城郭、神社仏閣などは、権力、権威の象徴で、その豪華で大規模さに較べ多くの庶民の生活は貧しかったことを思えば、一概に言えない、むしろ反発を覚えるのだが、少なくとも「歴史的遺産、遺物」については、その破壊、売却、放置をさせない国、自治体の政策を求めたい。当然のことながら、私もその方面の造詣を深めたいと思う。

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