2009年8月 1日 (土)

津に遊ぶ

 専修寺と藤堂高虎と天むす
 高校の同級生2人と連れ立って、津に住む同級生を訪ねた。
 午後2時、出迎えのMの車に乗り込み、「津の観光・歴史探索」に出発し、最初に訪れたのが、市内一身田にある、真宗高田派の本山専修寺であった。
 この専修寺は、我が家にとってもゆかりがあり、過去2回訪れたことがあったが、案内板によれば、1469~1487年に真慧(しんね)が伊勢国の中心寺院として建立したという。専修寺の伽藍は二度の火災に遭ったが、江戸期に再建されたという。また、浄土真宗最大宗派の東西本願寺に匹敵する広大な境内を持ち、周囲は寺内町を形成している、とも書いてあった。
 以前、一度は入ったが、そそくさと出てしまった御影堂(本堂)に入って、725畳敷きといわれるその広大さと、最近手が施されたものもあった新旧の華麗で厳かな祭壇。古さの残る、柱、天井をしばし眺め入った。
 続いて隣接する重文の如来堂へ行ったが、その渡り廊下の途中にエレベーターが設置されているのに気づいた。昨今、高齢者の訪問が多くなって付設されたのであろう。
 境内の一角に大賀ハスではないかと思われる鉢植え数十個の場所があった。きれいに開花したものを手に触れるようにして見たのは初めてであった。その奥に納骨堂があった。
 次に、津市にとって史跡上も、歴史上の人物としても欠かせない藤堂高虎関連の史跡めぐりの案内を受けた。
 最初は津城跡で、今は公園となっているが、東の丸が残り、内堀の一部もあった。天守閣跡には、鎧兜、馬上の高虎の銅像が立っていた。“藤堂高虎をテーマにしたNHK大河ドラマの誘致の話がある”とMの話。“そうなると、この銅像の前に記念写真用の台座ができるなあ、その占有権を早めに市からとっておいた方がいいぞ”と冗談を交わす。
 名前は忘れたが、藤堂家の墓所のある小さな神社、15代までの墓石が並んでいて、それなりに壮観なのだが、大通りに面して人家の中にあるので、地元の人以外には訪れることは少ないのかもしれない。
 伊勢街道の江戸橋は、高虎が参勤交代の折りに通った橋から、その名がついたという。現存の橋は何度も架け替え、修復がなされたであろうが、その歴史を重んじてか、現在も「木橋」であった。またその近くには、常夜灯が現存していた。
 他に四天王寺を訪れたが、ここは、浅井長政の娘3姉妹(茶々、初、江)がしばらく滞留していたといわれているとか。 
 これらとは全く関係ないが、Mが最後に案内してくれたのが「天むす発祥」のお店であった。「天むす」といえば名古屋と思っていたら、どうやら、津市役所近くの小路に2間ほどの間口で、カウンター席が10くらいのお店「千寿」が、本家本元らしい。
 夕方6時にころ、近鉄津駅近くの居酒屋で打ち上げ。「2500円の宴会コースにしては豪華だなあ」とか何とかいいながらKに向かって3人が「クラス会はいつやるのか、早く決めろよ」とはやしたてながら、9時ころ津を後にした。

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2009年6月 2日 (火)

下町風俗資料館

 私にも残る、あのころ、そのころ
 5月30日、東京都美術館を後にしてから、上野・不忍の池(蓮池)のほとりに、さして大きくはないが、台東区立の「下町風俗資料館」というのがあって、小一時間ほど覗いてみた。
 江戸時代の流れから、主として大正時代をはさんだ明治と昭和の戦前までという内容で、下町の家並み、それは長屋といっていい路地を挟んだ地域と、家の中の生活空間を再現していた。
 「ときは大正時代。・・・狭い路地に囲まれた裏店(うらだな)の長屋では、薄壁一枚に仕切られた隣同士、井戸も共同で使いました。ここの住人は『駄菓子屋』を営む母娘と『銅壷(どうこ)屋』の職人一家。中は小さな一間ですが、さまざまな調度品や生活道具があります。これらはすべて実際に使われていたものです。
 商家・長屋には、・・・ちゃぶ台や長火鉢の前に座り、ゆったりと時を刻む柱時計の音に耳をかたむければ、四季折々の下町の風情と暮らしを体感できるはずです。」(同館の資料から)
 2階のコーナーでは、台東区を中心とした下町地域にゆかりの資料、生活道具や玩具、さらに季節やそれに応じた年中行事に関連するものなど、さまざまな資料が展示されていた。
 人びとの生活は、時代とともに大きく変化してきたとはいうものの、下町のそれは、行政や産業、輸入文化ほどの変化はなく、ゆったりとした時間が流れていたのではないだろうか。それらを大きく変えたというなら、それは、戦争であり、震災であったろう。
 展示されていた資料は、それほど遠くない昔の下町とそこに暮らす人びとのようすを、そのまま今に伝えるものであったが、わが人生の記憶の中に未だ消え去ることなく残影としてある、いくつかが目にされた。
 子どものころのものといえば、駄菓子、おもちゃの竹トンボ、けん玉、駒。展示にはなかったが、しょうや(メンコ)、カチン玉(B玉)、お手玉、おはじきなど。家の中では中央にちゃぶ台、ちゃぶ台には蝿帳(はいちょう)があり、急須と湯呑茶碗。壁には、ボーンボーンと柱時計、箒とはたきがかかっていた。桐ダンスはどこの家でも、とはいえなかったが、箪笥の一つや二つはあった。茶箪笥もセットのようにあったなあ。箪笥の上には、ラヂオと書いたような旧型のラジオ、富山の薬箱。長火鉢は一般的であったろうか、むしろ、丸い陶製の火鉢でなかったろうか。火箸とかなえは常備品。部屋は4畳半が標準だったろうか。
 外に出て見れば、板塀、手押しポンプの井戸(ガチャポンともいうらしい)、行水にも使ったタライと洗濯板。近くに防火用のバケツとか桶が。木製のゴミ箱、便所の汲み取り口、木製の物干し、場所によっては、壁に「仁丹」の看板や「みてござる」の張り紙など。
 下町の銭湯の展示は、おなじみの番台、番台の中には、小銭入れの箱が見える。「おつりのいらぬように」という張り紙もある。女湯、男湯をわける仕切り。それには、幼子が行き来するくぐり戸が付いている。湯殿の入口の戸はスリガラス、入口に「女」は赤字で、「男」は黒字で書いてある。湯殿の風景は写真展示であった。衣服入れの竹籠、商店で使うような体重計。その着替え場の壁には、鏡、映画館のポスターや、近くの商店のポスターもどきも貼ってある。「髪洗い、洗濯禁止」の張り紙も。そういえば、女性の洗髪は別料金が必要だったが、今の公衆浴場(銭湯)では、どうだろうか。
 この後、不忍池周辺を散策して、重文・旧岩崎邸庭園に向かった。

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2009年5月 2日 (土)

新緑の東濃ピクニック

 体調不良の中歩く
 この日「外国人追い出し」をはかる団体の、行動に反対する街頭宣伝があるとのFAXが入っていたが、以前から参加を申し込んでいた「東濃ピクニック」に参加した。ピクニックとはいえ、瑞浪市と土岐市にまたがる「核廃棄物」の地中埋め立ての研究施設について、長く反対運動をしてきた地元のグループ、反原発グループによる、春秋2回開催の恒例行事であった。
 私が誘った4人と共に10時にJR瑞浪駅に集合し、化石公園で車組と合流。全体で、50人ほどの参加であったろうか。最初にコース説明があった後、てんぷら油の廃油を唯一の燃料として、全国を回っているという人の話と、その車を拝見。廃油をその場で燃料に変換する装置を積んだSUV型ジーゼルエンジン車は、すでに5万キロをトラブルなしで走ってきたそうだ。廃油1リットルで7キロほどの燃費だそうで、装置は手作りとか。
 超深層地層研究所では、施設の外からの説明であったが、10年ほど前に来た時に比べ掘削は進んでいるようだが、トラブルも多いらしい。核廃棄物野処理問題は深刻さを増しているようで、原発の耐用年数の問題と絡んで、今後さらに問題化することは間違いない。そういう問題に改めて触れるというのが、このピクニックの狙いであった。参加者のないかには、学生の顔も見えた。
 ピクニックとはいえ、約2時間のコースには起伏の高低差が大きく距離が短い、つまり急坂があって、二つ目の山越えではかなりばてた。森林の中を歩くのは気持ちがいいものだが、ついにそんな気分にもなれず、3つ目の急坂では何度も足が止まった。
 一昨日の夜から、くしゃみ、鼻水がひどくて、単独の参加だったら取りやめていただろうから、コースが険しいというより、体調不良が要因であったろう。
 昼食は現地のロッジで用意されていて、タケノコの入った山菜混ぜご飯、山菜味噌汁、山菜煮に漬物、自家製漬物、自家製梅干しに発泡酒かジュースが付いて五〇〇円。また、持参した水の資質検査のコーナーもあって、「大腸菌がいっぱいの堀川の水は絶対にのまないように」という報告もされた。さんしんの演奏や、家族バンドの出演などもあって、最後に全員で記念写真を撮って現地解散となった。

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2009年3月29日 (日)

桜も三分咲き

 岡崎公園にて
 自動車産別の交流会の後、思いついて岡崎公園に行ってみようと思った。
 愛知環状鉄道に乗り、中岡崎駅で降りれば、名鉄の岡崎公園前駅と同じであり、そこから歩けば公園まですぐである。だが少々欲が出た、そして失敗した。途中の大門駅で降りれば、暫く行っていない「大樹寺」まで歩いても、ものの20分もかからないだろうと、昔の地理感覚で降り立ち、軽いハイキング気分がいけなかった。
 愛環と直に交差する道を西方向に行けば、国道248号線にぶつかる。それを左に折れ、しばらく行けば、大樹寺の案内くらいは出るだろう、そこで写真の一枚も撮り終えれば、あとは、鴨田町へ出て、井田町、伊賀町経由で1時間少々歩けば、乙川の殿橋に出るはずだ、読み違えても30分程度の差かな。
 だが大門駅で、交差する道が西方向と思ったのが実は北だった。どちらかといえば岩津天神の方向だから全く逆方向で、20分ほど歩いておかしいと気がついた。行き交った人に道を訪ね、そこからひき返して大樹寺に向かったが、バス停「百々町(どどちょう)」での待ち時間10分を見て、歩く気が失せた。
 バス停「殿橋」から歩いて河川敷に降りると、多くの露店が並んでいた。ふと乙川を見ると、いつできたのだろう、対岸と行き来する人道橋ができていた。その人道橋は岡崎城に至る道筋になっていて、その両脇は、さながら縁日のように綿あめ、焼きいか、リンゴ飴、チョコレートバナナ、たこ焼き、お好み焼きなどの食べ物店、子どものおもちゃ、キラキラしたブレスレットのような飾りものの店がずらりとならんでいた。「岡崎桜祭り」は4月1日からとあったから、その日の夜からはライトアップされ、もっと多くの店と人が出て賑わうのであろう。
 岡崎城・天守閣近くの茶店で八丁味噌をつかったおでんと缶ビールで一息。近くの能楽堂では、太鼓グループの競演会が催されていて、ドンドンドドンドンドン、ドコドコドコドコドコドドンドンドン・・・と聞こえてくる。
 さてじっくりと花見としようと堀端の小道を歩いていくと、全体としては咲き始め、せいぜい三分咲きであったが、その中に「一番咲き桜」と名札のかかったソメイヨシノがあった。さすがにそれは五分咲きで、間もなく八分咲きとなり満開となろう。やはり見ごろは次の土日あたりになりそうだが、人もあふれそうだから、この五分咲きの桜を見て、岡崎の桜見は良しとした。 
(追い書き)

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