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2019年4月25日 (木)

男の気持ち・生き方(160)

 2流の調理人にもなれず
   今日の夕食の献立は「筑前煮」にした。昆布と鰹節で出汁をとっておき、里芋、蓮根、ゴボウ、ニンジン、さやえんどうの野菜類にこんにゃく、厚揚げ、ちくわそしてかしわ(鶏肉)を用意し、下ごしらえをした。生シイタケを買い忘れた。代わりに手元にあったマイタケを使うことにしたが、調理の段階で入れ忘れた。
 しょうゆ、みりん、酒で味付けをしたが、どうもいい味が出てこない。何か足りないのかな、手順を間違えたかな、元々レシピを見ての調理でなく、いわば真似事の「我流」であるから、いい味付けはできないのも無理はない、と思いつつ、やはり干しシイタケを入れるべきだったかな、かしわ(鶏肉)の味が出ていないなあ、と思案しながら、煮詰めていくと、何とかそれらしき味となって仕上がった。
 料理にしてもあるいはスポーツにしても、「素材」から選ばなくてはならないが、天然、天性の好素材に恵まれれば、一段とおいしく仕上がるのであろうが、だからといって素材そのものが美味を決定付けるとは限らない。「調理」「育成」次第、つまり調理人、指導者の才覚、力量によるのだろうと思う。
 ぐつぐつと“ごった煮”の鍋を見ていると、なんだかいま自分が関わっている世界を見ているようで、私自身はテーブル(議会)の華となる料理の一部(議員)ではなく、調理場の料理長、板長に仕える身でしかないが、私なりに「味付け」がしたい、そんな位置にいるようにも思えるのだった。
 多分私自身が、もっと料理人としてしっかり自覚してその道に邁進していれば、その世界の片隅に身を置くことができたであろうが「一意専心」とはいかなかった。今となっては、それも「私の人生」だったというほかない。

 

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