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2017年4月29日 (土)

米軍占領下の沖縄労働運動と抵抗の歴史

  第41回ユニオン学校・特別講座
 現地沖縄・辺野古が重大局面にある中、主催者の呼びかけは「今回のユニオン学校は米軍占領下の不利な状況でも決して屈することのなかった沖縄労働者民衆の苦闘の歴史と成果を学び、現代の沖縄連帯と反基地平和運動、労働運動の高揚を実現するために共に考えたいと思います」とあった。どこまで迫ることができたか。
 講演されたのは、南雲和夫さん(中央学院大学非常勤講師・首都圏非常勤職員組合)で、著書として、『占領下の沖縄-米軍基地と労働運動』(かもがわ出版)、『アメリカ占領下沖縄の労働史-支配と抵抗のはざまで』(みずのわ出版)などがある。
 お話は、1945年から沖縄が返還された1972年、この間即ち「米軍占領下の沖縄労働運動と抵抗の」期間でもあった。それを4期に分けて話された。
 第1期は、1945年から1951年辺りまで。アメリカの対アジア政策の転換と、対沖縄占領政策の確立の時期についてであった。それは本土も同じようなものだが、日々が食うや食わずの時期から少しずつ経済が動き出した時期ではあったが、沖縄は占領下で「無権利状態」「土地家屋の強制接収」と二重の苦闘を強いられていた。そして日本復帰運動が展開されていったのだった。奄美大島で復帰運動が盛んとなり、1953年12月に返還された。
 第2期は、1952年から1957年ころまでで、冷戦政策の確立と、対沖縄政策への波及と住民の抵抗の時期とだという。そのころは、労働運動の黎明期と、労働立法が成立していく時期でもあるのだが、生活闘争が主で労働運動はまだまだだったという黎明期。また、琉球政府(住民の自治政府組織)もできていたが、最高権力は米国民政府(USCAR)の高等弁務官の手にあった。
 そして、軍用地の接収、基地建設が本格化し、瀬長亀次郎らが登場し、弾圧を受けながら労働三法の制定(1953年7月)に奮闘、瀬長は市長選にも勝ち抜いた。
 第3期は、1958年から1964年辺りまでで、冷戦政策の修正に伴う、沖縄占領政策の軌道修正の時期だという。この時期、沖縄県祖国復帰協議会の発足、全沖労連の結成があった一方、米国民政府、国際自由労連の工作などによって分裂させられた。だが「全軍労」も参加した全沖労連と県労協の結成があったが、県労協は同盟系が分裂していった。
 第4期は、いよいよ、沖縄「返還」政策の確定と、住民闘争の高揚と祖国復帰の時期になる。まず、1965年の佐藤栄作首相の沖縄訪問1967年の佐藤・ジョンソン共同声明(基地の保持と施政権返還)と続いて、沖縄、本土での沖縄復帰運動が拡大高揚していく。そして、1968年に琉球政府立法院行政主席の公選で革新統一候補・屋良朝苗氏が圧倒的勝利を収めた。そうしたなか1968年11月にB52爆撃機が墜落事故を起こし、それに伴う抗議運動が激化していく、翌1969年の「2・4ゼネスト、B52撤去運動」への(社会党・総評の)介入があり、ゼネストは成立しなかったが、祖国復帰(1972年5月15日)実現と抗議行動(核抜き・本土並み)へと進んでいった。
 こうした経過たどりながらこんにちの状況を見れば、「本土に先駆けた『野党共闘』」は、曲折はあったが、主席選挙で勝利し、参院選、2014年の衆院選、知事選に勝利してきた。政治課題での一致点に基づく運動の必要性は誰もが認めるところだ。
 私的な経緯を言えば、私が「沖縄」を意識し始めたのは、1960年代の後半で、職場の仲間たちと学習会を持ち、その時にチューターを務めたのが始まりで、沖縄返還闘争では「佐藤訪米阻止闘争」があり、蒲田で逮捕された広島の仲間の拘置所(府中)訪問も経験した。運動にかかわる前の当時の言葉として「全軍労」「反戦地主」は印象に強く残っている。名前として瀬長亀次郎、屋良朝苗も記憶にある。沖縄訪問は、観光ではあったが、1974年が最初で「ひめゆりの塔」を訪ねた。
 2015年6月20日~23日、ピースサイクルの一員として、沖縄の高江、辺野古、普天間、嘉手納、平和祈念公園・魂魄の塔などを訪問したのは、1974年から40年経っていたのだった。

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