« 3・1独立運動98周年集会 | トップページ | ユニオン学校・私の場合(7) »

2017年3月 2日 (木)

ユニオン学校・私の場合(6)

 様々な活動の中で得た、経験と教訓など(2)
2、地域労働運動の基盤を作ろう!
 さて、職場(労働現場)を根拠として運動を構築していくことになるが、そもそも「“労働”に境界線はない」のであって、単に「分類」されているだけである。産業別、職種・職能別、企業別・企業規模別、雇用形態・雇用条件(経験、有資格)別等である。そうであれば課題は「企業の壁を越えていく」ことは必然ではある。しかし私たちは、往々にして安定を求めて「職場=企業内」に“定住化”してしまいがちだ。そのことは、「活動家」にとってある意味では「国境を超える」あるいは「脱藩する」覚悟を迫られる問題でもある。
 不当に解雇され、所属組合から除名されれば、必然的に「城外」に放り出されるわけだが、ここでは意識的、戦略的に「企業の壁を乗り越え、労働組合のしばりを自ら解き放ち、地域労働運動の関わっていく」ことについて考えてみたい。


1)“分断” を乗り越える
 “城内平和”に見切りをつけ、地域に出る(一点突破)ということは、あらゆる問題に遭遇するから「全面展開」とならざるを得ない。最初に「“労働”に境界線はない」即ち既存の「分断」について、自ら消去する思想性を確保する必要がある。「分断」とは、民間労働者と官公労働者、大企業と中小企業それぞれの労働者、本工(正社員)と臨時工(非正規雇用労働者)、旧総評系と旧同盟系、組織労働者と未組織労働者などの関係、領域についてである。あるいは、「党派性」も大きな要素であろう。
 もう一つは、農民との連帯というのがある(労農連帯)。一つの事例として、労働者、学生(労働者予備軍)による闘争中の「三里塚農民」そして「境川流域下水道反対同盟農民」への「援農」というのがあった。

2)労働運動と市民運動は「コインの裏表」
 そうした観点から名古屋労組連では、労働運動と市民運動は「表裏一体=コインの裏表」という考えを運動の中心軸においた。それは「市民も労働者」「労働者は市民でもある」という認識からだった。それが、反原発意運動への参加、「赤と緑のメーデー」へと結実したのである。
 角度を変えていえば、現状はそうとも言えないが、市民運動の側からの「労働運動って、自己本位で上意下達、動員型で、“個人”が見えない、尊重されないのでは?」といわれることがある。逆に労働運動の側からすると「市民運動は、一過性の運動(単一課題)が多く継続性が薄い。政治を排除・忌避する傾向がある、出たり入ったりで、組織的運動ができない」であるが、その一方で「横並びの市民運動とたて割りの労働運動の違いなのだろうか。自由に発想し、行動する傾向にある市民運動にとって組織は重苦しいものであるかも知れない。しかし、労働運動の動員力と市民運動の自由な発想から生まれる時を置かない行動力が一体となれば、すごい力を発揮すると思うのだが・・・」(早川善樹「さらば名古屋労組連・P44」)という意見もあった。
 昨今の状況を見るとき、こうした関係性をもっと濃密引き上げる必要を感じてならない。
3)地域労働運動の“拠点” づくり
ナショナルセンターは、地方組織を持っていて、そこには専従者がいる。どのような仕事をして“働く人”
のために貢献しているかは知らない。けれども、「地域の拠点」を持つことは、働く者の“拠り所”となり、様々な相談を受け、争議の出撃拠点となるから、その存在価値は大きいといわねばならない。
 名古屋労組連の総括の中に、こんな陣容で「地域センター」があればいいなあということが示された。
①高い事務・財政能力を持ち、バランス感覚のいい専従者の存在
②女性活動家二名以上の加盟
③活動の地域拠点(ここでは名古屋労組連)と自覚できる労働者・労働組合の結集
④年代ごとの結集
  そして付加すれば、労働法、労働問題に詳しい弁護士、学者(大学の教員、研究者等)の助言・応援団の形成。さらに昨今では、ITを駆使できる人、情報コーディネーターの参加、といったところか。

3、全国と連なる、交わる、海外交流も
 職場での闘い、地域での闘い・運動のそれは、特有のものもあれば、全国で起きている事案と共通する部分も少なくない。とすれば、可能な限り、全国の団体、仲間と情報を交換し、経験交流を深め、相互支援・連帯を築いて行くことは重要なことではないか。
 さらに、「グローバル化の時代」「多国籍企業跋扈の時代」であれば、労働者の「国際連帯・共同行動」も遅れを取るわけにはいかない。また、国際労働機関(ILO)や、国連人権理事会(旧委員会)などの戦略的な活用も、その方面の関係者と連携しながら駆使したいものだ。

4、その他
 最後に、幾つかの教訓を示して締めくくりたい。
①昨今の「アベ政治」を例に挙げるまでもなく、労働運動は、賃上げ、長時間労働、過労死問題、ブラック企業・ブラックバイトなどだけが運動ではない。安保法、原発問題、沖縄問題、教育、福祉などにも労働組合が先頭に立たなくてどうする。労働運動と政治活動は一体のものだ。ただし、スローガンを並べて叫ぶだけでは状況は変えられない。「春闘(労働諸条件)」に加えて「秋闘(権利闘争)」の復活、各級の選挙への参画等「全面展開」へがんばりたいものだ。そしてそれらには、「生活感」をなくしてはならないだろう。
②労働法に依拠する労働者の「権利」あるいは、自主交渉で勝ちとった「権利・条件」は、「守る」だけでなく「行使・更新」し続けてこそ生きたものになる。立ち止まれば、放漫になれば、たちまち立ち枯れするであろうし、資本に反撃され奪還されてしまうだろう。
③労働運動は、組織型の運動であり、「統一」「団結」「集団行動」は、一定の戦略的意味がある。しかし、「軍隊」ではないから、「組織内民主主義」「一人は万人のために、万人は一人のために」さらに「横議横結」というべき横並びの関係も重視していかねばならない。
④「組織の一員」としての意識と行動が求められるが、同時に自立した「活動家」でありたい。その活動家が 
組織を作るのであって、運動を活性化させるのである。
⑤先述したように活動家は、3頭立ての馬車の御者だ。仕事・家事・活動のバランスをとりながら、その困難な道に鞭を当てねばならない。それが、持続的な活動のポイントだと思う。
⑥私たちは特定の専門職にあるわけではない。普通の生活者、勤労者である。そのうえで労働運動、政治活動に参加するわけだが、それらを「武道」とするなら、それの「対極」にあるといっていい「文化」を身に着け、「文武両道」をわきまえたいものだ。そのバランスは、ある意味では「持続力」になりうるというのが私の持論である。
⑦とはいっても、「生涯一活動家」は難しい。年月を刻み、老域に入ったとしても「活動家」は、状況に接し続け、判断を下し、行動の端緒に付き続けなければならない。
 それこそが“わが人生”と言い切れる、そうありたいものの、その道はあまりにも険しい。険しくとも夢、可能性を秘めた明日は必ずやってくる。 
 (続く)

|

« 3・1独立運動98周年集会 | トップページ | ユニオン学校・私の場合(7) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ユニオン学校・私の場合(6):

« 3・1独立運動98周年集会 | トップページ | ユニオン学校・私の場合(7) »