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2017年2月28日 (火)

ユニオン学校・私の場合(4)

まとめ 名古屋労組連が歩んだ10年
 名古屋労組連・報告集「さらば名古屋労組連~次なるステージへ」から

  ここまで難しく、言葉足らずで分かりづらかったと思います。特に労働運動になじみのない人にとっては。もう少し我慢して聞いてください。「名古屋労組連が歩んだ10年」のまとめに入ります。ここに書いてあるものは、報告集「さらば名古屋労組連~次なるステージへ」で書かれたものですので、読み上げたいのですが、時間があまりないので省きす。読んでおいてください。(ここでは以下に記す)
  ここまでの名古屋労組連の運動の経過をまとめた一文が、1994年の解散時に発行された報告集「さらば名古屋労組連-次なるステージへ」に掲載されているので採録すると以下のようになる。
 ・・・さて、名古屋労組連が歩んだ10年を、ふり返り、簡単にまとめてみると、
第1は、情報提供の役割で、職場-地域-全国という回路を重視し、労働運動、市民運動、住民運動を織り込み、政治課題も遠慮することはなかった。実践的力量が不足するも、個人の資質を引き上げることを大事にしていたから、多種多様な情報を中継し、提起したりもした。ニュースやビラ、講演会、労働学校等がその媒体であったが、他団体が企画する、様々な集会、会議、イベントに参加していくのも一つの形であった。

第2は、接着剤の役割。どんな個別の課題も社会性、政治性をもっている。だから労働運動と市民運動は表裏一体、という概念を基本にしたのもその一つだが、労働運動についていえば、民間と官公労働者、大企業と中小企業の労働者、組織労働者と未組織労働者、本工と臨時工(非正規雇用労働者)、旧総評と旧同盟、つまり労働者を分断する要素を取り除き、可能な限り合流したかったのだ。更には、党派間をつなぐ役割もあったが、共産党ばかりは手に負えなかった。

第3は、支援・共闘。解雇、配転、処分等の労働争議への直接的な支援、裁判闘争での傍聴支援、物販協力、カンパ、署名、各種ビラまきへの参加。共闘のケースも結構あったが、いわゆる名古屋労組連の主体の不明確さから、支援か共闘か、判然としないところがあったようだ。それでも笹日労との「共闘」は多かった。

第4は、内部的なことだが、ニュースの定期発行、総会・運営委員会・地区協議会の機関会議の定期開催、合宿や学習会・塾の開催、他に、モニター制度・年休預かりの試み・課題別プロジエクト等々、ここではメンバーの雑居性を克服する「組合的」運営の努力が払われたが、求心力は半ば、といったところだったろうか。
 (続く)

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2017年2月27日 (月)

ユニオン学校・私の場合(3)

 名古屋労組連運動の経過、始動
 まず、大雑把な「名古屋労組連」の10年を見ておきます。1987年の二重丸が「結成総会」1994年の二重丸が「解散総会」となっています。先に述べた「前史」もありますが、1983年に第1回「準備会」が開かれ、ここが実質的なスタートです。しかし結成まで実に3年半を費やしています。この間に「5月民衆ひろば」「チプコン」などもありましたが、結成までにいかに苦悩したかが伺えます。
  次に、闘いの支援活動、解雇撤回闘争、支援共闘などのところですが、ここには、直接、間接に関わった11の闘いが書いてあります。「名古屋労組連の運動」といった時、本来なら、これらの闘い一つ一つを紹介し、総括したものを書くべきですが、今日はそれが目的ではありませんので、省略します。ただここでの運動、闘いのほぼすべては、笹日労との共同、のものであり「二人三脚」での闘いだったことを強調しておきたいと思います。
 その他の活動はご覧の通りです。「学習活動」、対外団体との「交流」「定例の機関会議」「機関誌活動」など、ほぼ「組合活動」そのものを体現してきました。「名古屋労組連=地域労働運動」と自負した所以です。
 さていよいよ「名古屋労組連」の始動ですが、ここでは、先程申した通り「活動」そのものは省き、「名古屋労組連」とはどんな運動、組織だったのか、その外形と内実について述べたいと思います。

  まず
名古屋労組連の生い立ちから入ります。
  1987年2月22日の結成総会の時は、正式名称を「労働戦線の右翼的再編に反対し、闘う労働運動を強める全国労組・活動家連絡会議、名古屋地区協議会」と称して、その略称を「名古屋労組連」としていました。しかし、翌年の第2回総会で「名古屋労組連」が正式名称になりました。それは、全国労組連の支部組織のような位置から、自主的な地域組織へと脱皮するものであると同時に、全国労組連という領域の境界線を取り払う意味もあったと記憶します。少数組合であれ、活動家であれ、“党派系”であれ、地域結集していくには、「全国労組連」でくくらない方がいいと判断したのだと思います。もっと言えば、開かれた労働運動の「地域共同行動の基盤形成」への踏み出しのためであったかもしれません。

 それで結成総会についてですが、8ページの囲みの中にありますように、名古屋労組連を取り巻く、全国、地域の諸団体、名古屋労組連の構成団体、個人の名前が記されています。結成総会に駆け付けてくれて祝辞や激励、講演をして戴いた人、檄電、メッセージを寄せてくれた労組、団体、個人などが多士済々でした。そして名古屋労組連に加盟したのは当時の名前ですが、タカラブネ労組中部支部、愛知合同労組、中部読売・高橋不当配転撤回闘争を闘う仲間、三菱名古屋工場通信編集委員会、春日井の教育を問う会、柳本合同労組を支援する名古屋の会、青年労働者交流会、労働情報名古屋支局、愛教組・F、帝国臓器・K、車体メーカー・K、新聞労連・Aなどでした。

 こうして正式に「名古屋労組連」として踏み出しましたが、その時に掲げた
闘いのスローガンは、こんなものでした。
1、自由闊達な討論・運動を通して、自立と創造あふれる全労協を作ろう!働く者みんなが幸せになれる闘いをつくろう!
2、労働争議や公判闘争を支援!未組織労働者やしいたげられた人たちの力になろう!
3、職場や地域の闘いに学び合い、相手の立場を尊重して、大きく連帯しよう!
4、国労を断固支持!行革、教育改悪など国家改造計画に反対しよう!
5、反戦、反核。戦争への道を許さない!
6、あらゆる差別に反対!むやみな自然破壊を伴う開発に反対!原発反対!
7、働く者の国際連帯をめざそう!

運動目標の特徴
 この7つのスローガンは、幾つかの特徴をもっていたと思う。
第1に、当初から、連合にも全労連にも行けない、行かない労組・活動家と、市民運動との連携を視野に入れた「愛知全労協」の設立をめざしていたこと。狭間にあって、その狭間に可能性を求めていたことは、これでもわかります。
第2に、労働運動では定番の、組織拡大、労働諸条件の要求、支持政党を体現するような政治性は前面に出ていないことです。自らの力量と立ち位置を自覚し、運動の視点、力点が、既存の労働運動、労組活動とかなり違うことを意味しています。
第3に、名古屋労組連は、後に「労働運動と市民運動は表裏一体」というようになるのですが、それは「地域」を強く意識した運動を進めることであり、地域に存在する市民運動的課題に参加していくことでもありました。反戦、反
核、反差別、許すな自然破壊、原発反対がそれです。
第4に、運動の、そして活動家としてのあるべき“姿勢(倫理)”を求めていることも特徴でしょう。「自由闊達な討論・運動」「しいたげられた人たちの力になろう」「闘いに学び合い」「相手の立場を尊重」して、大きく連帯しよう!というように。
第5に、運動総体として、労働運動をその基盤としながらも、社会に向き合い、そこにあるすべての問題に対応できる、個人としての「資質」「能力」の向上を求めているということではなかったかと思います。

  9ページの名古屋労組連の「戦略」、ここではこれまでの前史、準備会で培い、また、参加団体、個人の経験を持ち寄り、議論して練り上げていきました。従って最初から目指したもの、走りながら、つまり闘いの中で得たもの、結果として得たものなどがあります。4項目が挙げてあります。
1)地域を見直し、地域に依拠する運動
ここでは、運動の展開に当たっては、私たちを取り巻く周囲の状況をまず知るべきだといっています。例えば「産業基盤」「労働情勢」「労働者の意識動向」「行政・自治体の現状」等々です。以下の3つは、「名古屋労組連」としての方向性の一部が出ていると思います。
①例会(地域協議会)又は、プロジェクトチームをつくって、当面は資料収集、各方面との情報交換、簡単な分析を試みてみる。
②とりわけ中小、零細企業の労働者やパート、アルバイトなど、未組織労働者の実態を明らかにする。
③既にこの観点から取り組み始めている「地域プログラム懇談会」の「提言」を期待し、その時点で検討会を設定する。

2)横議・横結-市民運動との新たな関係を!
 ここに「横議・横結(おうぎおうけつ)」という聞きなれない言葉が出ています。私がこの言葉を最初に聞いたのは、全国労働者交流集会の時、全国一般東京南部支部の当時の委員長渡辺 勉さんからです。
(「横議・横結」は、勝手に議論するという意味もありますが)労働組合にありがちな「上意下達」という「縦型の命令・伝達系統に対して、フラットな横並びの議論をもって運動を進める、労組幹部も一般組合員もないというのが私の解釈する『横議』です」。次に「『横結』は、横に結び合うという意味ですが、私が解釈したのは、地域における産業別、企業別、職業別などを超えた労働者の団結と闘いを言い、もう一つは、労働運動、市民運動という妙な分け方、隔たりをなくして、まさに横につながる」ということだったと思います。つまり、「地域」という大枠の中で、労働問題だけでなく、政治課題も社会問題も、男も女もなく共に闘おうというものだといえます。

3)労働戦線の統一、それは新たな分断、分裂をもたらす―受け皿としての対応を
ここは、1960年代後半頃が出て来ました「全民労協」が仕掛けた「労働戦線の右翼的再編統一」に対して、どう対処すべきかのさわりが書いてありますが、省略します。

4)仲間を知り、仲間を信頼する運営
ここは、以下の6項目です。
1)職場ニュース、新聞、ビラの相互交換。
2)職場での問題点が、全体性をもち得る内容の場合、積極的に提起し合う。
3)裁判闘争、職場団交には、ローテーションを組むなど、可能な限り参加をし合う。
4)解雇などの重大問題の発生の恐れがある場合、事前の準備も含めて、場合によって「対策委員会」を設置して取り組む。
5)会議では、積極的な討議参加を!疑問点、問題点には十分な議論を!
6)時間の約束は確実に、任務には最大の努力を、努力には拍手を!
  特に6項目目を私は大事にしました。昼間の労働など、みんなぎりぎりの生活をしています。約束した時間を守り、手際よく事案を進め、翌日の労働を考えれば、日進市のOさんがよく言っていましたが“運動で過労死したくない。会議は2時間、午後9時まで”は、核心を突いています。ただ現実はそうも言っておれなかったのは事実です。また、「決められた任務には最大の努力を、努力には拍手を!」も大事にしたいと思っていました。

 11ページにあります「もう一つの意見」の筆者はわかりませんが、「愛知における地域闘争-地域共闘の核心的問題」は省きますので読んでおいてください。ただ、この一文は私が書いたものではなく、12ページの中断下にある「ミニコメント」を読んでいただければわかります。2010年の時につけたコメントです。 
(続く)

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2017年2月26日 (日)

ユニオン学校・私の場合(2)

 名古屋労組連運動・前史
 さて、その世界の片隅にあった「名古屋労組連の運動」を振り返ってみたいと思いますが最初に、お断りしておきたいことがあります。一つは、私は1997年、約20年前ですが、三菱自動車を退職しました。その時点で労働現場を離れ、労働運動との関係は希薄となりました。ですから、かれこれ40年前までさかのぼり、その後の20年ほどをここにまとめましたが、見落とし、記憶間違いもあると思います。
 もう一つは、私自身は「一活動家」にすぎません。「日本の労働運動史」「労働法」に精通しているわけではありません。またあとから述べますが、「狭間の労働運動」といっているように、総評・同盟=連合、全労連の実態については不勉強です。そうした詳しいことは、さらに最近の非正規雇用、均等待遇、労災職業病等々についてはほとんど不明ですので、ユニオン学校の別の講座に譲りたいと思います。
 さて資料の2ページですが、そこには、1960年に三菱重工に就職してからが書いてありますが、主として労働運動に関しての「略歴」が書いてあります。名古屋労組連に限っては、7ページに記載しています。今日現在の状況についても、後段に書いてある通り「ユニオンと連帯する市民の会」の運営委員、他です。見ておいてください。
                  ◇
 全体として、名古屋労組連運動の「前史」に、4ぺーじほどのボリュームを割いています。それは、私の個人的な経験ではありますが、自立した「活動家」をめざし、地域運動に参加して「名古屋労組連」運動に到達するまでには、その前段の様々な運動体験、人々との出会い、交流などの上に作り上げられていったと思うからです。
 最初に、「狭間の労働運動」とはあります。連合でも全労連でもない、かといって全労協でも括り切れない、そこから“こぼれ落ちた”といっていい、けれども自立し、主体性を持った運動を「狭間の労働運動」といい、その現場は、未組織労働者或いは、行き場をなくした「労働争議」の場であったといえます。首切りや差別などの「かけ込み寺」的運動といっていいかもしれません。
 わが「狭間の労働運動」の概観といったところでは、1970年代から10年ごとくらいにその時に取り組み、参加した運動が書いてあります。それを見てわかるように、「名古屋労組連」の運動というのは、40年前から30年前の一部の運動でしかありません。しかし、ある意味では、70年代の運動と90年代以降の運動をつなぐ「結び目を担った運動」であったともいえます。
1)三里塚闘争を闘える労働運動
 それでは、「名古屋労組連運動の前史」に入っていきます。まずは、「三里塚闘争を闘える労働運動」ということですが、これは、端的に言えば、賃上げなど労働諸条件改善、向上つまり経済闘争だけでなく、「政治闘争」に参加できる運動であり、労働争議の場でも会社側の言い訳を聞くばかりの話し合いだけでなく、「実力闘争」を前面に据えた戦術を駆使するものでありました。
 ではその「実力闘争」とは何か。そこにも書いてありますように、「大衆団交」重視で、代行主義を戒め、経験のあるないに拘わらず当該の労働者が全面に出て闘うことを心がけた、というものです。「実力闘争」といっても「暴力的」というものではありません。むしろ、相手の「挑発」に乗らないことを心掛けていたものです。これは争議解決にとって、大事なポイントでした。
2)「5月民衆ひろば」から「チプ懇」へ
 その思想ということですが、「5月民衆ひろば」については、当時のパンフレットを回しますので、ご覧ください。この運動で得たものは、「それぞれの問題を、政治的・社会的課題として押し上げよう」「トータルな、共通の認識を探ろう」「議論し、交流し、連帯する場を持とう」「否定だけでなく、もう一つの社会を構想しよう」というようなものが「5月民衆ひろば」の目的と共通認識ではなかったかと思う。
 地域プログラム懇談会
 3年に亘った「5月民衆ひろば」を終えてからも、多少空白はありましたが議論は続きました。それが1988年から始まった「地域プログラム懇談会」通称「チプコン」といっていました。「提言」はまとめられませんでしたが、「地球の未来を地域で拓く」という小冊子にまとめられました。回覧します。
 「チプコン」については、本文を読んでいきます。
 ~3年間の「5月民衆ひろば」を経たのちの1988年には、「地域プログラム懇談会(チプコン)」という場が設けられ、継続的な議論が続けられた。そして、その年の10月に「地球の未来を地域で拓く」という冊子がまとめられた。
 それには、「私たち地域プログラム懇談会は『個人としての参加を原則とし、自由闊達に議論し、自己を絶対化せず、共通点を大切にはぐくみ、ちがいを認め合いながら、相互変革をめざす』『政策、理論の研究そして、地域自治を目指す。』という性格である。」と、自己規定していた。
 地域活動を進めるにあたってなぜそのような自己規定が必要であったのか。まず共同の運動を取り組むにあたっては、参加者は個人という立場に徹して、所属するグループ・団体・党派の主張、路線、潮流といったようなものを控えて議論を始めたいということがあった。それは、議論がしばしば、個人としての意見ではなく、所属しているものの代弁に過ぎないことが少なくなく、そうであれば、主張のぶつけ合いだけで、議論にならないことを過去に学んでいたからであった。
 そのことは同時に「自己を絶対化せず」という言葉に集約された。「絶対」と言ってしまっては、揺らぐことのない自信であるかもしれないが、そこから一歩も出ないという閉鎖性は免れない。さらには、他人の話に耳を貸そうとしない頑ななものになりかねない。そうした人が席を占めることで、その場は硬直化し、白けて議論が進まないこともあったのである。
 また、「自己を絶対化」しないことは、それぞれが学び合い、“止揚”していく道でもあり、そうでなければ、諸課題それ自体、社会的に向き合うことは、到底おぼつかないと考えられた。
 まずもって、このような、向き合う“姿勢”に立とうとしたことは、何かを始める以前のものと認識された。その上で、「政策、理論の研究」と「地域自治を目指す」を同次元のものであっても、わけて提起された。
 「地域プログラム懇談会」は、結局「提言」をまとめることなく未完で終わってしまったが、政策、理論の研究の柱(項目)はいくつか立てられた。そして地域自治をめざすということで各種の選挙への取り組み、護憲平和の運動、名古屋五輪、愛知万博の反対運動も、そんな中から出てきたものであったと、私は認識している・・・。
 「地球の未来を地域で拓く」という冊子のほかにもう一つ、「意見広告市民の会・愛知」の名前で出された「日本を変えよう!!《市民の意見21》あいち版」、これがそれです。回覧します。私も意見を寄せました。それが5ページの中段以下のものです。
3)<まともな>労働運動をつくろう~「市民の意見21」の「あいち版」から
 ここで書いたのは、「国や会社」のいいなりにならない<まともな労働運動>働く者も組合も、自立と誇りをもとう、です。
 労働者が永きにわたって習得し、切磋琢磨した技能、技術、知識を誇りとし、生活の糧とし、又、精神的な拠りどころの一つであろう職場の仲間や同僚たちとの交わりを重んじて生きる、そんな労働者像はあまりに古いでしょうか。だが、それらが希薄になり、喪失したとき、上昇思考で固まる“会社人間”となってしまいます。
 ≪今こそ問い返せ!労働運動の団結の質≫ここも読み上げます。
 ~私たちの日々の労働、そこで生産されたものが社会に寄与し、人々の幸せに連なっているかは重要なことだ。工場の外で、アジアのどこかで、住民の健康を破壊し、貧困を助長し、新たな差別、抑圧を生み出していないか、生産第一主義が地球と、労働の喜び、連帯の心を破壊していないか、今こそ問い返そうではないか。ポスト『連合』の労働運動、労働組合は、ここから再出発すべきだ。
 ≪『連合』を超える大連合を!≫ここも読み上げます。
 ~人間の生存と生活を脅かす、すべてのもの(核、兵器、公害物質など)を作らない、作らせない、使わない産業の確立と、国や大企業の意向にひざまずくような労働運動と決別し、中小、零細で働く労働者、アジアの労働者と結びあえるような労働運動、女性の労働権がはばたき、差別されない労働現場をつくり出し、時間短縮で勝ちえた時間を、地域で政治、社会、文化の運動、創造にふりむけられるような、連帯と安心、励ましとなるボランテアが民衆の手で行える、そんな「大連合」を創り出そう!
 これらは、基本的な目線、姿勢は今と大差がないような気がします。今でも通ずることではないでしょうか。
 6ページには、「意見広告運動について」の記載がありますが、省略します。
 ≪川名文庫の人たち≫ここも省略しますが、私にとっては重要な「場所」でした。というのも、次の、
≪労働運動は、市民運動と表裏一体≫という地平を得たからであります。その本文を読み上げます。
 ~この「川名文庫」に出入りするようになり、様々な活動に真摯に向き合う人たちと出会い、労働運動に括られない課題に接して私は、労働運動が、賃上げや労働時間の短縮などの労働諸条件の維持向上、組織拡大、あるいは「政治闘争」への参加だけではいけないのではないかと思った。もっと広く、限りないほどの社会問題全体に目を向けるべきだということをより強く感じ取ったのであった。
 後の「名古屋労組連」の運動で、「労働運動は、市民運動と表裏一体」と見定め、社会運動全体の一員として、それは地域労働運動としてだけでなく、一個人としても、トータルに身につける必要があると思うに至ったのである。

 ここまでが前半といっていいだろう。かなり時間費やしたが、なかなか落としきれずに続けた。 (続く)

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2017年2月25日 (土)

ユニオン学校・私の場合(1)

 過去の「遺物」ではなく、現在に活かすものに
 少々荷が重いなあと思いつつ、それなりに原稿の執筆を進めて、「C&Lリンクス愛知・第76号」にまとめることができたのは、「語り」としての成果はともかく、私自身にとっても一つの収穫であったと思っている。
   「リニア中央新幹線の公聴会」で公述したのが数年前のことで、「語り=講演」なんて15年近くもなかったし、ここのところ「声量」が落ちていることは自覚していた。1年ほど前に「耳鼻咽喉科」で、内視鏡検査を受けたほどだ。
  かといって、足を運んでくれる人の前で、「一夜漬け」みたいな話はできないから、原稿のほぼすべてを事前に配布しておいたことでご容赦願った。
  それで、何から切り出そうと苦慮した結果、以下のようにスタートした。
                               ◇ 
  ~最初から余談になりますが、最近私は二つの映画を観ました。最近の話題の映画といえば、アニメの「君の名は。」ですが、見た人はおられますか?
 実は私は観ていません。観ていませんが、「君の名は。」がレコードのA面とすれば、B面のアニメ映画「この世界の片隅に」があり、先週観ました。そして今週の月曜日に、アメリカ映画の「ニュートン・ナイト」を観ました。
 ここでは、映画の内容までは話しませんが、簡単に言えば、「この世界の片隅に」は、昭和初期から戦争が終わるころまでの、広島・呉で暮らす一人の女性「すず」の淡々とした日常を映したものです。軍都呉市の空襲や広島の原爆投下などがありますが、反戦映画というわけでもありません。
 もう一つの「ニュートン・ナイト」は、副題に「自由の旗をかかげた男」とありますが、19世紀アメリカ南北戦争が舞台です。結論から言うと、「リンカーン大統領よりも早く奴隷解放を実現するなど、真の自由を求めて戦った実在の人物」の物語です。
 なぜこの映画の話をしたかというと、私は、「すず」とは全く違うけれども私も「この世界の片隅に」生きてきたんだ、それで「この世界とはどんな世界だったのか」と自問したわけです。みなさんは「どんな世界」に生きてこられたのでしょうか。
 そして、「ニュートン・ナイト~自由の旗をかかげた男」では、私たちはリンカーン大統領の、19世紀(1863年)アメリカ南北戦争中の,ペンシルベニア州ゲティスバーグで行われたリンカーン大統領の「ゲティスバーグ演説~その最後の、人民の,人民による,人民のための政治」は歴史で学び、よく知っていますよね。リンカーンの「奴隷解放宣言」も有名です。ですが、それ以前に、名もない南軍の衛生兵「ニュートン・ナイト」がそれを実践していたという事実が大事です。
 結局、私たちのやってきた「労働運動」「地域運動」は、マスコミで取り上げられることは殆どないし、何とかの褒章とか表彰を受けるというものではなく、地道な運動といわれようと「この世界の片隅に」いて、ゴーギャンの絵ではありませんが、『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』(1897年から1898年にかけて描いた絵画)という自覚、自己確認が必要かなあ・・・と。これが今日の話の背景の一つです。
 (以下は言い忘れ)自分の中に「GPS(全地球測位システム)」をもったらいいだろうと、ふと思ったわけです。
                ◇
  本題に入る前に「序」を話した。
  ~今回のテーマは「地域労働運動について~名古屋労組連の闘いから」となっていますが、「市民の会」の代表から、二つの意見、要請が寄せられました。その後段の部分ですが、「・・・『少数派労働運動』の経験を活かして・・・体験を過ぎ去った過去のこととして置き去りにして括ることなく、今につながるものを抽出してぜひ語っていただきたいと思います。この点、つまり今の市民の会の活動に生かす観点からぜひとも補強して話をしてください・・・」と。私にとって難しい課題だと感じておりますが、皆さんと一緒に考えていきたいと思っています、と応じた。
  続いて、・・・改めて言うまでもないことですが、今、私たちが置かれている政治的状況について少しだけ触れておきますと、(実際はかなり端折ってしゃべりましたが)第2次安倍政権以来、「集団的自衛権容認の閣議決定」「特定秘密保護法」ばかりでなく最近では、「安保法」に「緊急事態条項」さらには、「テロ等準備罪」の新設を目論んでいます。自民党では「憲法改正」の発議を本格化させようとしています。
 大きな犠牲を払って得た「平和憲法」の、第9条だけではありませんが、改悪の危機に曝されています。そればかりでなく、原発再稼働がなし崩し的に進められています。沖縄辺野古新基地建設が強行されています。もちろんほかにも多々ありますが、要は「アベ政権」そのもの、自民、公明、維新の「改憲勢力」が国会で3分の2以上の議席を占めている現状があります。
  ではそれに対抗する勢力はどうなっているのでしょう。まず、野党第1党の民進党が今一つシャキッとしていません。「野党共闘」が広く呼びかけられていますが、「自民党と組んでも共産党(旧社会党左派)とは組まない勢力」がいて、それが阻害要因となっています。その典型が労働組合最大の団体「連合」ではありませんか?
 つまり私たちは、「アベ政権は許さない」「野党は共闘」と叫べども、眼前に「連合」が立ちはだかっていることを強く認識しなければなりません。
 昨今の活発な市民運動でも「連合」が阻害要因になっていることは、「脱原発」運動で認識が広がってきていますが、「連合は許せない」とまでは行き着いていません。
 今や、労働組合の中央組織「連合(日本労働組合総連合会)」は、正規社員の既得権擁護団体、労使一体となって「市民的要求・課題」例えば原発反対運動の壁となって、敵対する組織に成り下がってはいないでしょうか。
  そこで、というべきか、だから私たちの登場、やるべきことが見えてくるのではありませんか?市民運動と連携し、「連合」に物申す、とすれば、それは私たち「まっとうな労働運動」めざす者の仕事でしょう。「CGSU」の運動も「ユニオン学校」の意義も、大きく言えば、ここにあると考えます。
  「連合」でも「全労連」でもない労働組合・ユニオン、労働団体が「連合」に対して、何らかの申し入れ、ここでは「連合愛知」に申し入れするのも一つの動きにはならないでしょうか。

  予定ではここまでで6分であったが、多分10分くらいかかった。後段で司会者から再三再四「時間です」促される羽目となった。 (続く)
 

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2017年2月23日 (木)

消えたマグカップ?

  ミステリーか、呆けたか?
  昨日の午後のこと。パソコン作業を続けていたが、3時ころにコーヒータイムにして、しばし手と目を休めた。コーヒーを嗜好品にしているわけではないので、インスタントコーヒーで砂糖は入れず、フレッシュミルクだけを入れる。
  飲み干したマグカップをテーブル横において作業に戻り、1時間ほどのちに、仕事を切り上げ、夕食の準備にかかろうとした。そこで、机の横に置いたマグカップを片付けようと取りに戻ったところ、ない!
  パソコンの部屋と台所しか動いていないので、その周辺にあるはずだった。何度も探した。隣の部屋、食器棚、ゴミ籠まで探したが、どうしても見つからなかった。“おかしいなあ、ないはずがないのに、たった1時間かそこらの前のことなのに・・・”
  6時ころ、連れ合いが仕事から帰ってきたので、このことを話したら、“3つあった中から一つをもっていったわ”という。“いつのことだ”“今朝・・・そういえば、フレッシュが一つ残っていたと思うわ・・・”“その最後の一つをコーヒーに入れて今日の昼に飲んだのだ。フレッシュはもういないよ”
  連れ合いが言う。“コーヒーを飲んだのは昨日のことではないの?3つあったものを私が一つ持って行ったのだから”“では、フレッシュミルクがなくなっている事実はどう説明する”“さあ・・・”
  事実関係は、マグカップは3つあり、二つは揃いのもので残っている。もう一つは、連れ合いが持って行ったと証言した。一つだけ今朝まであったフレッシュミルクがなくなっている。
  果たして、私がコーヒーを飲んで机の横に置いたというのは、今日の午後のことではなく、昨日のことだったのであろうか。何かの理由で時間感覚が混線してしまったのであろうか。では、フレッシュが消えた事実はどうなる?
  消えたマグカップに未練があるわけではない。持って行ったならそれでいい。だが、マグカップがないとあっちこっち探し回ったあれは何だったのか。“呆けたのか?”
  25日の講演の草稿の仕上げに集中していたから、そしてパソコン作業中にコーヒーを飲むのは、ある程度常態化していたから、時間的な感覚が薄れていて、勘違いしたのだろうか。しかし・・・。

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2017年2月22日 (水)

“ついで”の話を一つ

 続けて観た映画について
 映画鑑賞の話を2題続けたので“ついで”の話を一つ。
 今週の土曜日25日に、第39回ユニオン学校があって、そこで1時間ほど話すことになっている。その草稿は既に「C&Lリンクス愛知・第76号」の特集記事として上梓してあるので、当日はそれを“読む”形で進めればいいが、久しぶりの人前での話だけに、「余談」や周辺知識の備えに加えて「リハ」も必要だから、本来なら、映画など観に行っている暇などないのである。
 ところが、である。冊子の執筆・編集の時もそうであるが、切羽詰まってくれば来るほど、他事に手を出したくなる、思い付きに飛びついたりする。行き詰まってしまった時など、散歩に出る、普段以上に煙草を吹かす(私は嗜まない)人もいれば、冷蔵庫を漁ったりすることは“共通点”らしい。だからといって旅行に出かけ、或いは飲酒することはないと思う。行き詰っていても、頭のなかは課題が堂々巡りしているのであり、旅行も飲酒もそれを遮断するか消去しかねないからだ。
 言ってみれば、切羽詰まった時、追い詰められた時ほど、“気分転換”あるいは“客観視”して“仕切り直し”してみるのも打開策の一つなのだと思う。
 そうした背景があっての映画2本の鑑賞であった。電車、バスに揺られ、繁華街に出て映画を観て食事して、その感想をブログにアップした、そこで費やした時間を挽回したい、“観たい映画が観られてよかった。いい機会となった”という気持ちが、再び意欲の源泉になると思うのだ。但し、「意欲」が復活したからといってそのあとが円滑かどうかは才覚あってのことだ。私はそれにはまらないから、やっぱりまた苦悩が始まると思う。

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2017年2月21日 (火)

アニメ映画「この世界の片隅に」

いつだって、誰だって・・・の片隅に
 昨日は映画「ニュートン・ライト・・・」について書いたが、実は先週にアニメ映画「この世界の片隅に」を観に行っていた。どちらかといえば同じアニメ映画の「君の名は。」に隠れていたようだが、次第に人気が出てきたといわれる。つい最近、青森県の映画館で上映されたものが、完成品でないことが分かったと、ちょっとしたニュースになったが、「ニュースになるほどのもの」ともいえようか。
 原作は、「第2次大戦下の広島・呉を舞台に、大切なものを失いながらも前を向いて生きていく女性すずの日常を描いた、こうの史代の同名漫画をアニメ映画化した人間ドラマ」とあり、映画は、主人公「すず」が生まれた昭和初期から始まるが、まずその時代の庶民の暮らしぶりが背景として丁寧に描かれる。それはこの映画の特色に一つかもしれない。
 蛇足ながら、映画「ALWAYS 三丁目の夕日」は、同じ「昭和の時代」といっても、戦後の復興期-東京五輪、東京タワーの時代、そして東京の下町であり、“田舎”の呉とは違った世界だっただけに、広島・呉の段々畑、海の見える風景(軍港)、家の中、台所など、高齢者が見たならきっと懐かしさも強いに違いない。私の時代とは少し遡るにしても、幼少期の原風景とあまり変わらない気がした。
 さて物語は、絵を描くことが得意な少「浦野すず」は、1944年(昭和19年)2月に呉の北條周作のもとに嫁ぐ。そこでの夫、舅、姑、小姑という「昭和の家族」そのままに一生懸命生きていくが、それは淡々とした日常生活であり、映画特有の“何かが起こりそう”という気配もなく進んでいく。だが、戦況の悪化と共に、米軍による空襲が激しくなり(そこですずは、同行していた姪の黒村晴美の命と、自らの右手を失う)、生活物資も不足していく。そして1945年(昭和20年)8月6日、広島に、世界初の原子爆弾が投下される、その日が来るのである。
 すずは、呉にいて「爆心地から約20キロメートル離れた北條家でも閃光と衝撃波が響き、広島方面からあがる巨大な雲を目撃する」が、両親は行く方不明(多分爆死)妹のすみは、被爆した。
 すずは廃墟となった広島訪れ、呆然としつつも、この世界の片隅で自分を見つけてくれた夫周作に感謝しながら、戦災孤児の少女を連れて呉の北條家に戻って行った。
 映画に直接的な政治主張、反戦思想が描かれるわけではない。あるとすれば、すずが呉の軍港の絵を高台の段々畑で描いていたのを「特高」に見つかり、「間諜」の疑いをかけられ、監視されるという場面であろうか。
 観終わってみれば、特段に“高揚” した場面があったわけではないが、いつだって、誰だって、どこかの世界の片隅に生き、暮らしているのであり、その“くらし”を自ら振り返り、“今”に思いを馳せるという、不思議な感覚を覚えさせたのであった。

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2017年2月20日 (月)

映画「ニュートン・ナイト 自由の旗をかかげた男」

 リンカーンの「奴隷解放宣言」より前に奴隷を解放した・・・
 時代は19世紀、アメリカの南北戦争のころの実話を基にした映画で、日本では幕末の「桜田門外の変(19860年)」から「下関戦争~禁門の変~第1次長州征伐」あたりになろうか。

 南北戦争は、「奴隷解放」というイメージが強いのだが、確かに南部における広大な綿花栽培に「奴隷」が酷使されていたのは事実。ところが北部では、国内の産業・工業化が進み労働力を必要としていた。また「奴隷制」に反対していたこともあって、南北の対立が深まり、南部7州による「アメリカ連合国」が建国されて北部との対立は深まりそして内戦状態となったとされる。
 という時代の中で、南軍の衛生兵ニュートン・ナイトは、戦場にあって様々な不条理を見て取る。そして彼はいう「金持ちの戦争を、貧乏人が戦う」と。とある日、南軍に徴兵されて、おじのニュートン・ナイトを探し求めてきた甥のダニエルはまだ少年。だが銃弾に当たって戦死してしまう。ニュートン・ナイトは、ダニエルを遺族に渡すために軍規を破って戦場を離れ追われる身に。
 戦場に近いミシシッピ州ジョーンズ郡では、南軍兵士による略奪が日常化しており、農民たちは苦しめられていた。また脱走した黒人「奴隷」たちは“沼”で息をひそめていた。
 農民や「奴隷」たちと心通わせていくニュートン・ナイトは、あまりにひどい南軍の行為に、ついに銃をもって立ち向かうことを決意する。いわば「反乱軍」だ。その反乱軍は南軍を攻撃し、1864 年にエリスビルの司令部を占拠、さらに隣接する3つの郡を奪う。北軍に援助を断られたニュートンは、北部にも南部にも属さない「ジョーンズ自由州」の設立を宣言する。
1865年、南北戦争は終結し、共和党のリンカーンが大統領に当選し、「奴隷解放」が宣言されたが、法律の解釈などによって実質的な奴隷制度(小作人)は維持され、KKKによる襲撃でモーゼスなど黒人たちは殺されたりもした。
 南北戦争という尋常でない状況の下で「自由、平等」の考えを持ち、広め、旗を掲げたニュートン・ナイトは、「戦後」も一貫して闘かい続けた。
 まさしく、リンカーン大統領よりも早く奴隷解放を実現するなど、真の自由を求めて戦った実在の人物が、こうして映画で知られるということは驚きであるとともに、この種のものがどこの国、どこの地の歴史の中にどれほど埋もれているのか、思い知らされた映画でもあった。

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2017年2月19日 (日)

老朽原発を再稼働?認めない!

  名古屋が危ない 2.19集会
 「老朽原発にレッドカードを!名古屋が危ない 2.19集会」と銘打ったこの集会は、「北村栄弁護団長×藤川誠二弁護団事務局のトーク」「川口真由美さんの歌と演奏」「中嶌哲演さんの講演」3部立てなっていて、どれも内容の濃いものとなった。
 とりわけ私が感銘を受けたのは、中嶌哲演さんの講演そのものであったが、それよりもまず「一宗教人」もっと俗っぽく言えば「お坊さんの身で」よくやってこられたなあ、ということ。プロフィルには、真言宗御室派 明通寺住職。「原発反対福井県民会議」代表委員、「原子力行政を問い直す宗教者の会」世話人、「福井から原発をとめる裁判の会」代表、本訴訟原告、とあった。内心“本職の方は大丈夫?”と思ったくらいだ。
 職業的専門家、専従者ならともかく、私たちの多くは「本業」を持っていて、それゆえ、ボランティア的な活動は、かなり限定されがちだ。私のように「仕事、家事、活動」の三頭立て馬車では、それが顕著になり「一点集中」になりがち。
 さて中嶌さんの講演は、①「フクシマ」直前に訴えていたこと。②「フクシマ」からの声。③「原発銀座・若狭」の過去と現在。④原発などを拒否し続けた小浜市民。⑤「原発ゼロ社会」をめざして。という項目があって、それぞれに資料がつけられた。わかりやすいし、“もっと知りたい”という気を起こさせた。
 その詳細は省くとして、三つの地元-原発「立地」の地元、原発事故の「被災地」となる地元、原子力発電の電気を「消費」する地元それぞれに、それぞれの認識と運動があった。そして相互に連絡を取り合い、連携し、共同することはあったと思うが、私の中では、あまり明確になっていなかったように思うし、せいぜい「別個に立って、共に討つ」というくらいだった。その点でこの講演を聞いていて、名古屋という「消費する地元」としての「脱原発」の運動のかかわり方と、立地、被害それぞれの地元へ思いを寄せることの“絆”を覚えたことは収穫だった。
 川口真由美さん(平和と反原発の歌姫;京都在住のシンガー・ソングライター)の歌もよかった。CDに収められた「想い 続ける~沖縄・平和を歌う」には、「目に焼き付いている日常~辺野古の日々」「沖縄 今こそ立ち上がろう」などと、今日は「この日は私のもの」も弾き語られた。声量も豊かで、歌詞の「想い」がよく伝わってきた。
 ちなみに、先週の日曜日には沖縄大学で、横井久美子さん(名古屋市緑区出身、国立市在住)らによる、「高江・辺野古・伊江島に連帯する平和コンサート」が開かれた。

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2017年2月17日 (金)

あれもブラック企業?

気になりました
 先日のユニオンと連帯する市民の会(CGSU)運営委員会での雑談。活動誌「結」の体裁で、一部をカラーにしたらどうかという意見が出て賛否があったが、その時、ネットで格安の印刷がもてはやされているが、“中にはかなりあくどい、低賃金などのブラック企業もあると聞く”という発言があり、ドキッとした。その会社名を聞いたが覚えていないとのことだった。
 私にもネットを利用した経験があり、それは「同級生の作品展示会の案内状」の、たったの1回であるが、未だにその会社からネット情報が送られ続けている。また、「あいちキャラバン」の報告集も、地元の印刷屋の3分の1程度で、しかもオールカラーという出来栄えに随分満足したのだった。
 そこで思い出した。世間で言われる「優良企業」とは、市場寡占率、収益率、株主配当などに秀た会社を言うのであるが、そうした企業にのし上がるために、職場では「合理化」「生産性向上」「品質管理」「日程管理」「人事管理」などが強力に進められる。それは同時に労働組合の存在を許さないか、会社主導の「従業員の親和会」レベルに抑え込まれる、つまり、ある程度の賃金は維持されても「過酷、過重労働」が強いられ、労基法も、労働安全衛生法も「就業規則」以下に扱われるのである。そのようにして、世間ではブランド会社、優良企業と表の顔を見せるのであった。
 当時、その名が挙がったのが・・・、現状を知らないので明らかのできないが、私は“ああ、なるほど”と思い、今でも、急速にのし上がってきた企業には、そこには、徹底した市場調査やアイデアや決断もあろうが、“きっと、その陰には厳しい労働環境があるに違いない。泣き泣き働く人がいるかもしれない”と思うようになった。
 にもかかわらず、インターネットの通販に疑問を挟まなかったのは、何かが弛緩していたに違いない。便利さ、安さに憑りつかれていたのだと思う。
 もっとも、その場の雑談では、“とはいっても、そこで生計を立てている人もいるわけだから、一概に排除ともいえない面もある・・・”ああ、ではどうすれば?
 昨夜は、全体で70通ほどの発送作業を終えて深夜に投函した。この作業では、定形、定形外の郵便を利用したが、定形外が100gを超えると205円となり、仮に「ゆうメール」を使うと180円で25円安となる。20部ほどが対象となった。ちょっと考えたが、「ゆうメール」と表示し、一部をカットして中が見えるようにしなければならず、夜も更けていたし、その手間を惜しんで通常の郵便とした。
 インターネットの利用、代用で郵便事業は赤字だというし、はがきも今年の6月1日から52円から62円に値上げされる状況と、郵便職員の内勤も外勤も最近はかなりきついということも聞いていたから、“ま、多少高くても、普通の郵便にしておくか”は、あとで付けた理由(いいわけ)であった。

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2017年2月15日 (水)

CGSU運営会議

 労働運動の現状を憂う
 ユニオンと連帯する市民の会(CGSU)の2月運営委員会が開かれ、女性一人を含む10人が参加した。議題は、活動誌「結(ゆい)」の検証と次号の発行予定及び、編集長の交代(1年交代)、ユニオン学校の今後の予定と内容についての見直し、働きかけなどについて、3月の総会の内容、進め方、招集の呼びかけなどが検討された。
 それとは別に、ちょっと前のシャープの身売り、倒産か?も噂される東芝、日立のリストラ、三菱電機の長時間労働の問題等々、最近の「電機産業」の経済紙を賑わす話題を、“ちょっと変、何が起きているのか”“労働組合が全く動いていないか、会社の先を行くような体たらくはどうしたものか”“ここは何とか問題提起して、労働者、労働組合が問題点を共有する必要がある”などと、問題提起とその意識は高いが、問題は具体的な運動、戦略である。
 本来なら、「連合」が率先してこれらの問題を明らかにし、政治問題化して政府に迫るところであろうが、その動きはない。電機産業の職場にあって、問題意識を持ち、危機感を持つ有志が、声を上げていることが報告されたが、個人、グループ、ユニオンのネットワークであるCGSUが、単組又は地域組織のような独自の組織運動が展開できるのかどうか、これは難しい問題ではなかろうか。少なくとも、この席にいる者の大半は、私を含めほぼ「OB、OG」である。“現役”に“檄”を飛ばすことはできても、組織的高揚の手立てが見つかるだろうか。
 無理、難しい、困難だ、とばかりいっていては埒が明かない。やはり知恵を出し合い、小さいことでもいいから成功例から学ぶ、という足が地についた地道な努力を進めるほかないだろう。
 こんなことが話題になったので、次回ユニオン学校の「少数派労働運動の闘い」のテーマが、がぜん重くなってきた。“昔はああだった、あの時代はこうだった”だけでは許されず、今に通ずる展開を要請された。これまでのユニオン学校で、そんな注文が付いたには初めてではなかろうか。が、それはそれとして、少しでも期待に応えるのが私の務めだと思うので、推敲を重ねて臨みたい。

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2017年2月13日 (月)

ミニ詩集12「寒椿」

 厳冬が身にしむ
 「C&Lリンクス愛知第76号」に続いてミニ詩集第12号「寒椿」を完成させた。同時発送のために急いだこともあって、ページ数はこれまでと同じ全12ページであるが、内容は詩が2編+紹介の詩1篇と随筆2編、それぞれ2ページずつの計5篇というものとなった。
 詩「寒椿そして風」「帰らぬあなたは ひとり伊勢の海へ」この2編は、1月に亡くなられた坂喜代子さんの追悼詩である。「帰らぬあなたは・・・」は、「ACTION REPORT第22号」に掲載したものに手を入れたものである。もう1篇の詩は、加藤万理さんの詩「秋の庭」で、前号に掲載したものだが、後半部分を欠落させた不手際があり、改めて全文を掲載することにしたのだった。
 枯れかけたわが「詩泉」から、詩を汲み上げることができなかったので、随筆2編をもって充てた。ブログの「男の気持ち・生き方」から「加齢で病気も詐欺被害も」「末の孫とプラネタリュームへ」の2篇であるが、裏テーマは「老」であった。
 ここ4~5日の寒さが堪える。外出どころか散歩もままならぬ上にデスクワークが続いた。その結果、体重が上昇傾向であり、上限の65㎏を越えてしまった。私の場合の計量は“ダイエット”のためでなく明確に“闘病”であるから、リングのコーナーに追い込められた気持ちで“反撃”を迫られるのである。だが必殺のパンチがないところが弱みで、クリンチからフットワークで逃げるしかない、と思いつつ、明日から、追加の印刷と全点の発送作業が待ち受けている。それを終えてから、2月25日のユニオン学校の報告のリハーサルに入る。
 私の“啓蟄”は、25日以降になりそうだ。

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2017年2月10日 (金)

“今日のできごと、思ったこと”

 呆けてはいないと思うのだが・・・
 ユニオンと連帯する市民の会(CGSU)の活動誌「結」と、アジア太平洋労働者連帯会議(APWSL)愛知の会誌「ACTION REPORT」の印刷、セット、発送作業を終えたのが午後5時少し前。その作業の前午前10時から、ユニオン学校のための「C&Lリンクス愛知」を製作していて、久しぶりに「1日8時間の労働」で一日が暮れた。
 ここまで作業が順調に進んだので、少し欲が出てきて、「ミニ詩集」を手掛けようかな、という気になったが、枯渇気味の詩泉から、“呑める真水”を汲み上げるのは容易ではない。が、できれば良し、“濁り水を汲んで吐いて”も良しとして挑戦してみようと思う。
 とのんきなことを言っている間に、国会では、首相、法相、防衛相と相次いで“情けない”というか“誰がこんな大臣を選び、据えたのか”と嘆きたい「発言・答弁」が相次いだ。安倍がトランプと会って、どんなたわ言を言うのか心配であるし、なにがしのツケを我々に押つけるようなことがあれば、「退陣」願うしかないだろう。
 4月解散説は遠のいた、と永田町ではささやかれているらしい。「国会の解散権は、首相の専権事項」とほざいているが、「国民にこそ主権がある」以上、「権利・権限」とは言わないが、「国会解散請求運動」はある。韓国に学べ、続けなどとはいわない。60年安保闘争、70年安保闘争をもう一度、ともいわないけれども、「国会前へ大結集・金曜日官邸前行動」の再現は可能であろう。「沖縄・高江オスプレイパッド、辺野古工事再開」の闘いもあって、きわどさが募るが、この厳寒の後に“春が来た、梅よ、桜よ”といっておれない状況がないとは言えない。
 そんなところへ今度は、ML上に「三浦英之(朝日新聞アフリカ特派員)さんが、昨日、Twitterで南スーダンから難民が流れ込んでいるウガンダ北部の現状を伝えています。」という情報が流れた。その記事を最後まで読んだが、 想像力が追いついていかない、わが日常に照射!で言葉を失う。
 呆けてはいないとは思うのだが、“どうしようかな”と迷妄するばかり。とりあえず今日は精一杯のことはなしたと思いつつ・・・。

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2017年2月 8日 (水)

「名古屋労組連」をまとめる

 第39回ユニオン学校のレジュメ
 2月25日の第39回ユニオン学校の講演を依頼された。「少数派労働運動の闘い~1980年代-名古屋労組連の活動を振り返って~」がテーマ。
 先月半ばから、概要の資料集めから始めて、今日、ほぼ仕上がった。現在、家の中がごった返していて、資料の多くは段ボールの山に埋まったまであり、資料は、パソコンに保存されたものから引き出した。4年前にパソコンを買い替えた時、それ以前のものは、再保存しなかったが、「C&Lリンクス愛知」の第58号(2010年4月)以降の、「狭間の労働運動」シリーズが残っていたので救われた。
 講演のレジュメは、「C&Lリンクス愛知・第76号」として発行する。その冒頭では次のように「あいさつ」した。
 ・・・私の歩んだ、そして参加した地域運動には、大まかにいえば「労働運動」「市民運動」「政治活動」があった。
 それらの運動には、共同行動という形で地域運動総体として体現することもあれば、「地域労働運動」というように、それぞれの領域で取り組んだ場合と、個別課題であったりもしたが、私の基本的な立ち位置、あるいは“出身母体 ”は、「労働運動」として自覚し、その立場から参加したのだった。
 一九六七年に、職場である三菱重工・名古屋自動車製作所で、労組青婦協活動に参加したのが、私の運動のスタートであるが、それは企業内組合の、企業内活動であった。その活動が、企業の壁を乗り越え、地域で交わり、全国の運動と連なり、世界へ目を向けていく「本格的」な労働運動としてとらえた時、それは個別の職場に留まった、あるいは全国運動の一員というより、個人として「地域」の中でどのように考え、行動し、積み上げるかが大きな動機・要因であると思ったのだった。それは「地域」にこだわる所以でもあった。セピア色の写真のような、拙い話ですがお聞き下さい・・・。
 これから当日までは、印刷作業と発送を済ませ、話のポイントを絞り込んで“ストーリー”を考えなくてはならない。もう10年以上も、人前で1時間ほどの話をしたりすることがなかったので戸惑いはあるが、ある意味では「終活」の一つと思ってがんばってみようと思っている。

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2017年2月 5日 (日)

緑の党東海本部の総会・2

 青木秀和さんの「講義・経済論」に興味
 昨日の総会について、つい愚痴ってしまったが、午前中に設定された記念講演で、地元の経済学研究者・青木秀和さんの講義「脱経済成長思想の可能性を探る~その思想はどうすれば国民に受け入れられるのか?~」が、非常に難しい割には、“なんとなくおもしろかった”ところがあった。
 「脱経済成長」は、緑の党の「党是」みたいな位置づけとしてある。そこで、現状がどうであって、そこから導き出される経済にあり方-それは“くらしの在り方”でもあるにだが-について深掘りしてみようというものであった。
 青木さん曰く、レジュメを示して「この内容は、大学で講義するとしても1年はかかる」代物だという。それを90分ほどで読み解くことは、説く方も大変だが、聴く方は予備知識なしなので、“なんとなく、わかったような、わからないような”あいまいなまま耳を澄ませて聴くしかなかった。
 まず「年金財政」を例にとって「経済成長がないと困る」かどうか。現実は年金支給額が保険料と国庫負担を合わせた額を上回っているから、4,8%くらいの経済成長があって、その運用益で賄うことになる。経済成長がなければ(運用益が必要額得られない場合)「年金積立金」を取り崩すことになり(現実)、それはいつの日か「枯渇」して、年金制度は破たん、崩壊する、というのが現状認識だという。
 ここで「だから、経済成長が必要だ」論が正解かというと、そうはならない。なぜなら、日本の年金制度は、高度経済成長期に設計され、「経済が成長し続ける」ことが前提になっているからだ。ここでフランスの経済学者トマ・ピケティの経済論が登場するのであるが、その理論はここでは省かれ、端的に言えば、これからの経済成長はあるとも、ないとも言えないが、かつての“バブル経済”は、むしろ“1回きり”の「例外的・特異的な期間であった」というのである。だから、経済成長を前提とした「制度」が壁にぶつかるは必定というわけである。
 もう一つ。「特異な時期(=経済成長)をもたらした要因」は何だったか。吉川 洋氏(マクロ経済学)が指摘するのは、「一人当たりの所得を上昇させるのは“イノベーション”だ。これが先進国の経済成長を生み出す源泉である(人口と経済学・中公新書)」という。ところがその技術革新自体が1945年ころをピークに減り続けているという統計結果が示された。数字で言えば、世界の年間のイノベーション件数(人口10億人当たりの数字に換算)は、1945年で19件、その後年々下降を続け、2105年時点では、1件以下と予測されている。つまり、新技術で産業を興し、経済の成長を促す手段手法には、限界が見えてきたというのである。
 それで一気に結論に近い所に飛ぶが、「現代経済成長理論の限界」論が出てくるのだがその説明は難しい。私のメモには、「エネルギー資源の枯渇、新技術の開発に限界、経済成長期のインフラの劣化による補修・維持は経済の成長にはならない、むしろ後世に“負の遺産”を残すことになる」などから、経済成長を前提とした政策は行き詰まる。「ではどんな政策を打ち出せばいいのか?」「“脱経済成長”の実体的な表現方法は、別にないのか」とあった。
 かつての蒸気機関(交通・物流)の発明、電話(通信手段)の発明など、劇的・圧倒的な技術革新はこの先にはもうないだろうという指摘には、ため息なようなものが出たのだった。
 ・・・原発事故の処理、核廃棄物の処理・保管が、後世にどれほど「負担・足枷」になるか・・・。

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2017年2月 4日 (土)

緑の党東海本部の総会

 場の空気に違和感・・・
 緑の党東海本部の総会(定期大会)が開かれた。私は、サポーターであるから議事の賛否に関与できないが、発言は許されている。そこで発言するかどうかかなり逡巡した。それは、また昨年と同じように「党としての体をなしていない」といった類の発言になることはわかり切っていたからだ。
 議事進行を見守っていて、“核心的”な発言がないように思われたので手を挙げた。私の活動総括の視点は、内部的には組織的な運営、取り組みがどうであったか、外的には、諸課題に対して主体的な取り組みと、他の団体との連携、共同行動の成果はどうでであったか、にあった。そして、7月の参院選挙こそ「政党」として重点的な総括と展望が示されねばならないと思っていたが、少々物足りなかった。特に参院選の前哨戦と位置づけられ、選挙本番と同じくらいの運動が、選挙法に制約されないで行える運動の「あいちキャラバン」には一言も触れられなかったことは、心外というほかない。この認識の落差は、私にとってはとてつもなく大きく感じられた。“愚痴らない”ためには、話題を変えざるを得なかったが、やはり尾を引いた意見となった。
 自ら率先して呼び掛け、取り組み、成し遂げる覚悟と行動なくしてあれこれを言うことは憚れる。そう思うと強く意見は言えないし、批判的な内容も控えることになるが、“助言(アドバイス)か、批判か”その良否の判断が難しく感じた。この場のなんとなく馴染めない空気が私を取り巻いた。やはり“引退”の予感であろうか。それとも、自ら“仕切り直し”をしてみる機会とみるべきであろうか。

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2017年2月 3日 (金)

「ACTION REPORT」第22号

 2月4日発行がやや先送り
 APWSL愛知の会誌の編集作業を終えた。今日印刷の予定であったが、同時発行の、ユニオンと連帯する市民の会(CGSU)の活動誌「結」の発行がやや先となったので、様子見で作業を延期した。
 編集を終えた第22号の内容は、表紙に故坂喜代子代表の遺影と経歴など/巻頭の詩『帰らぬあなたは ひとり伊勢の海へ』と前掲後記 /ミシェル・オバマの評価は高いが・・・と事務局から /特集「APWSL愛知代表・坂喜代子さんの死を悼む」(副代表と事務局長)/海外情報「韓国・少女像問題」続報/「フィリピンの労働政策」/「インドの労働事情」/ACTION REPORT VOL.22 <2016年10月~2017年1月> /第39回ユニオン学校の案内となっている。
 APWSL愛知は、運動体ではなく、地域の労働運動の経過を伝える月刊のウェブと、季刊誌の「ACTION REPORT」の発信、発行が主であった。もう一つの来日活動家の受け入れ・交流(坂宅)などは、坂代表の個人的な受け入れが実態であった。その坂さんの死去により、交流の場が閉じられることになり、APWSL愛知の今後について検討せざるを得なくなった。
 「人は有期、運動は無期」なれど、「人は継承することで無期、運動は断念されることで有期」といえなくもない。あるいは、運動の根幹は変えないで、新たな結集をもって(衣替え)継続していく方法もある。
 また“継続は力なり”とはいうものの“継続する力(人)ありやなしや”である。と代表を亡くしたことで、あれこれ思いが巡るのであるが、「ACTION REPORT第22号」の作業を終えたので、次は、2月25日の第39回ユニオン学校のレジュメづくりを急がねばならない。その草稿は「C&Lリンクス愛知・第76号」の特集として編む予定をしている。これは急ピッチで仕上げて、同時発送に漕ぎつけたい。この1週間が期限と決めている。

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2017年2月 1日 (水)

さて、やることをやらねば

  2017年も早や1か月が・・・
 1月16日に、「仮住まい」に引っ越しをし終えるまで、数か月にわたってその準備をしてきた。前回の引っ越しから30年近くになり、それは40代からであり、最も「活動的」であった時期であれば、本、冊子、書類、チラシなどが積み重なってきた。
 古希を過ぎて「終活」に取り掛かり、少しずつ「リサイクル」に出して来たものの、遅々として進まなかったが、ここへきてかなり進んだことになる。いい機会となった。
 そんなことで1月を乗り切ったが、APWSL愛知の坂喜代子代表を25日に亡くして、前途多難を予感させる2月が始まった。早々に「ACTION REPORT」第22号の発行が迫り、急遽「坂喜代子さんを悼む」を編むことにしたが、「プロフィール」に難儀をした。
 さて、「マイブログ『郷蔵21』」は、前後半の2回をやめて、1月分をまとめて発信した。今年からそのように「月刊」とするつもりだ。前文は以下のように書いた。
     2017年が始まりました。
  今年の「啓蟄(けいちつ)」は3月5日で、「啓」は開く、「蟄」は虫が土中に閉じこもる、という意味です。しかし「人間」には「蟄」という生活-雪深い山間部の人たちにあるかもしれませんが、少なくとも都会にはありません。1月1日の午前0時が「啓」といえるかもしれません。もっとも多くは、正月三が日明けとか「仕事始め」を「啓」としているかもしれません。
 安倍政権登場以来「立憲主義」「平和主義」は、「蟄」を余儀なくされてきたといえるかもしれません。そして「土中の平和・安眠」に浸り切っている人たちの「啓蟄」はまだ先かもしれず、一足先に抜けだした者が土をたたいて「春」を告げ、「啓」を促さなければなりません。“梅は咲いたか、桜はまだかいな”なんてのんきなことは言っておれない2017年も早や1か月が過ぎました。(男の気持ち・生き方144)

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