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2016年8月 7日 (日)

男の気持ち・生き方(131)

 人間の価値って何だろう
 7月21日に「今だけ、カネだけ、自分だけ」という現在の世相の一部の表現について触れた。それに抗うとすれば、その真逆を行けばいいとも書いた。
 では「人間の価値を収入、学歴、生産性、若さ、外見などで決める風潮が最近顕著になってきた」(新・心のサプリ:海原純子-毎日新聞)という指摘についてはどう考えるか。
かつて、1980年代末に、結婚相手の条件に「三高」という「高学歴・高収入・高身長」というもっぱら女性の側からこの条件を求めたという「社会現象」があったと記憶する。そうすると、上記の要件にはこの「三高」に加えて、「生産性、若さ」が加わることになる。
 この指摘は「結婚の条件」という観点ではなく、むしろ「人間の優劣、社会的貢献度、健常性」という社会的、経済的観点から言っていると思われる。もっと言えば、経済界からの、国家主義者からの「生産性・効率性第一主義」から来ているのではないか、とすら疑念が浮かぶ。となれば、「三高」以外の「生産性、若さ」とは、「健康で若くて、障害を持たない労働力(兵士)」と置き換えられそうだがどうだろうか。
 ここでいきなり「アベ政治」を持ち出すのは唐突に過ぎるかもしれないが、国家主義の傾向が強く、“アベノミクス”という経済最優先主義の安倍首相の政策を考えると「人間の価値を収入、学歴、生産性、若さ、外見」でみているのは彼らではないか。“当たらずといえども遠からず”という気がしてならない。
 そしてそれらはまた、「二分化、二極化社会」という不毛な対立社会を醸成していないか気になるところである。
                  ◇
 改めて「人間の価値を収入、学歴、生産性、若さ、外見などで決める風潮が最近顕著になってきた」ことを引き寄せてその対極にあるものは何かと考えてみると、一つは、一言では言い表せないが「文化」かなあと思うし、かなり曖昧だが「情・こころ・絆」かなあと思うし、「話し合う、知り合う、認め合う」ことでもあるような気がする。
 “気がする”という確信のなさは、気が付かない、忘れてしまっているということもあろうが、私の原体験の中でそれらが具体化したとか、自認したという記憶が薄いからだと思う。
 “生活できる程度の経済基盤を家族でつくり、それぞれの個性、特性を生かし伸ばしていけば、必ずしも大学を出なければならないこともない。家族や回りに障がい者がいても、一所懸命生きていることを感じ合うことで価値観を共有できるのではないか。能力に幾らか差があってもそれは自然の成り行き、相互に補完し合う向き合い方で、働くことの喜びを分かち合うことが大切だ。老いも若きも選ぶものではない。すべて人の一生ではあるまいか。心の豊かさと希望を持ち続ける気持ちがあれば、外見は気にならないのではないか。多くを望まず、だが広く世界を見ていく姿勢はいつまでも持ちたい、そうありたいものだ”は、きれいごとの並べすぎだろうか。

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