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2013年3月13日 (水)

塩路一郎について、原稿化に挑む

 きつい10日間でした
 先月7日、9日に本欄で書いた「塩路一郎氏死去について」が、ATU・Sの活動誌「れいめい」の編集者の目に留まったのか、改めて塩路一郎について書いてほしいと頼まれた。
 直感的には、“(日産については)私の持ち場ではない”し、“感想”程度なら、ブログを手直しすればいいが、そうもいかないのであろうから“難しい!”から断ろうかと考えた。それでも、ATU・Sの運営委員会の「協力者」という立場でもあり、構想を練り上げるうちに時が経って、引っ込みがつかなくなった。
 この1週間から10日の間、まさしく“苦闘”し続け、今日になってようやく仕上げて送稿した。
 タイトルは、「日産・塩路一郎氏の死去-彼を登場させた時代背景とは何か」としたが、2千字でまとめるにはちょっと風呂敷が大き過ぎるとは思った。だがまず書きはじめることだと思い、キーを打ち始めたのだった。
  「はじめに」に続いて、「戦後の自動車産業の争議」から書き起こした。「・・・自動車産業における戦後の労働運動史の詳細は省くとして、その初期の段階においては、1950年のトヨタ自動車の争議があげられる。会社側の“人員整理”として1,600名の希望退職、残留者の10%の賃下げなどが柱だった。一方、いわゆる『日産争議』というのは、1953年5月から総評系の全日本自動車産業労働組合(全自)日産自動車分会の争議として始まった。終結は9月頃までの100日以上におよび、このため『日産百日闘争』と呼ばれることもあるが、『日産53年争議』ともいわれた・・・」
  次に、「川又=塩路の蜜月と日産の凋落」へと進み「・・・興銀から経理担当常務として送り込まれていた川又克二は第2組合を作って労働争議を終了させようと考えていた折り、1953年に明治大学法学部の夜間部を卒業した、反組合活動の経歴の持ち主、塩路一郎が日産自動車に入社して来た。彼を使って労働争議を終息させた川又は、1957年社長に就任。同じく1958年に日産労組書記長に就いた塩路一郎。この川又=塩路の蜜月は以降20年間続いた。これは『日産凋落』の始まりだった・・・」
 塩路の論功の一つ「全金プリンス自動車支部」の壮絶な闘いの一部を挿入し、その後のイギリス工場建設問題で「塩路×石原俊社長」の対決があって、「・・・こうして1970年代後半からの日産は『三頭政治』と呼ばれた。川又と蜜月関係を結んだ塩路が、石原と激しく対立し、日産の凋落を招き、仏ルノーに身売りし、カルロス・ゴーンに経営をゆだねることになった・・・」
  結論部分は、「塩路の行跡、行状は、反労働者的であった」として、最後に、「・・・鎌田 慧さんの『トヨタと日産-自動車王国の暗闘-』(講談社1992年)の中のほんの一部であるが、塩路が退場する状況に至ったことについて『労働貴族の影響力が弱いのはいい。しかし、・・・労使一体化はさらに進む(なら)・・・事件は,労働運動の後退を示すひとつのエピソード、として読まれるべきであろう』」と書いた。そして、「いつでもこの『労働者、労働運動にとってどうなのか』の視点は外してはならないだろう。」が私の結語であった。
  原稿の下地の多くは、検索しての引用だが、それをコンパクトにまとめるのも「仕事」であろうと思った。だが、研究者か評論家、ルポライターが手掛けるようなテーマは、やはりきつかった。

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