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2012年7月16日 (月)

「日本・緑の党」を考える(7)

 緑の党・東海の議論で、私的に若干のやり取り
 今日の東京17万人集会と、昨日の、名古屋の1000人集会を気にはしていたが、先約があってまたしても参加することができなかった。「主催者」か、それに近い所にポジションを置いていると、決して外すことはないのだから、活動を持続させるということは、できるだけ輪の中心軸近くにいることが最も有効であると、改めて気付かされる。
  さて、「緑の党・東海」についてもう少し書きとめておきたいと思う。14日のこの欄で、規約の第10条について若干ふれたが、これについて知人にメールしたところ、「お申し越しの件ですが、提案者の意図は、市民運動であるならば、どんな会合においても、運動経験の多寡によって差別されるべきではない。というよりも、新参者ほど尊重されるべきだという発想だと思います。だから、組織の根幹たる『規約』こそ、会合の度に作り直されるべきだという主張と理解しました。私としては、実務上大きな支障がないことは受け入れていこうと考えています。」という返事が届いた。
 メール上のやり取りは、必ずしも真意が伝わるとは限らないし、言葉足らずになりがちだ。従って、「反論」が主たるものにならず、相互の見解を述べるだけになっても仕方がない。
 その上であえて私の見解を知人に伝えた。宛先は知人であるが、内容的には議論の素材にはなると考え、ここで取り上げることにした。
  まず第1に、文中の「市民運動であるならば」から入ると、そうであるならそもそも規約など不要なのだと思う。機関とか規約、綱領、指針、役員、いわゆる「組合用語あるいは団体用語」として使われるこれらは、市民運動では“嫌悪”の対象ですらあった(私的経験から)。この場合、政党(緑の党)の活動と市民(住民)運動が同居しているようで、それがうまく「相乗効果」を生めばいいし、「みどり東海」の成り立ちが、市民運動または住民運動がその出生であろうから、「市民運動であるならば」という前提が来てしまうのかもしれない。しかし、この先、「緑の党」として選挙戦に打って出ようというのだから、政治活動と市民(住民)運動のそれぞれの視点、政策などが整理されないまま外に出ていくとなると、その不鮮明さは、アピール度だけでなく、党の信頼性に影響が出てくるような気がするのである。
  第2に、「新参者ほど尊重されるべき」は、私もこの歳になると、そういう気持ちが強くなってきている。また“横並び”とか“横議横結”という、いわゆるピラミッド型にかわるスタイルは、「民主主義」の形でもあろう。
  従って、「運動経験の多寡によって」差別されるべきではないが、だからと言って「新参者ほど尊重されるべき」ともいいきれないのではないか。「経験、熟達」と「初心、未熟」は、相互関係であって、例えば「規約」という運動の根幹が、会合のたびに議論されることはまだしも、結果としてその都度「規約」が変えられてしまうあり方には賛同できない。内部的にはどうでも繕えるが、傍目には「ぶれている」と映るに違いない。
 だから私は、(名称はともかく)「組織委員会」で、提起された問題を議論し、その経過と結果を総会(大会)に諮る、こういう流れならば、無理がないのではないかと思うのである。緊急性があれば、臨時総会を開催すればいいし、総会開催のハードルが高ければ、低くするなり、例外規定を設けるなりすればいいと思う。
  第3に、20代の若い人が提案している「緑の党・東海」ではなく、「緑の党・愛知」という提案の中で、活動の重点を知事選挙と県会議員選挙に置く、という主旨が述べられているが、これについて、内部で一体どんな議論がなされたのか知りたいところ。「意見は意見として、それまた自由」ということで止まったままなのか、その意見を後押しするなりして発展的に広げていこうとしているのか、はたまた、「緑の党愛知」という組織上の問題はいいとして、「重点を知事選挙と県会議員選挙に置く」という、現時点での問題の立て方に、経験者はなにがしかの助言をされたのであろうか、少なくとも前々回までの会合では、彼に変化が出ていないから、その方向で進んでいくようである。はたして2013年参院選という大きな目標を前に、「ベクトル」が同じ方向に向いて、選挙が迎えられるのかどうか(まあ一緒にやれるでしょうが)、8月4日の結成総会の場でも繰り返されるとやや心配である。
  第4に、議論のとっかかりに、試案(私案)、たたき台(草案)、執行部(運営委員会)提案、などを用意すると、あたかもそれが、自由闊達な討論を阻害しているかのような意見を言う人が時々おられる。あるいは、初めて来られた人は、それまでの経過が分かっていないから、改めてその人のレベルから議論を始めるべきだ、という人もおられる。これについてはどうか。
 「緑の党」のスタイルからすると、それは“当然でしょう”というような答えが返ってくるような気がする。
 しかし私は、やり方がたとえ「効率主義」と揶揄されようとも、基本的には「走りながら」進めることになると考えている。ただ問題は「走る速度」で、そこが状況に合わせて「緩急自在」であればいいかなと思うのである。
 なにがしかの同好会ならともかく、相手のある運動であれば、或いは期限のある活動であれば、個人的には“マイペース”でもいいのだろうが、全体を、個人のレベル(しかも多様な)に合わせることは、私には、同意も理解もできない。これが「機関主義」「これまでの悪しき在り方」とか、「弱者切り捨て」「効率主義、拙速」といわれたとしても。私は、いわゆる「活動」であれば、どんな場合でも、相手の動きに素早く対応、対処することは、キーポイントであると今でも信じているからだ。 
  ということで私は、どうも「緑の党」に期待するところは大であるが、自身に振り向けて見ると、その一員となる要件というか、「緑の党」への参加にブレーキがかかることが何かと多い。大局的なことではないが、課題と向きあう、ことを進める上での姿勢に、アンマッチなところがあるような気がしている。やはり「サポーター」が「適所」かなと、今は思っている。

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