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2012年4月22日 (日)

三度、水田洋さんの話が聞ける(3)

 社会運動、市民運動に則して考えてみる
 水田さんの話を聞きたいと集まったのは12人。私が感じたところによれば、アダム・スミスについて大学で講義、ゼミなど何らかの接点を持ったか、少なくとも文庫本も含め、著作の幾つかは読んだ人ばかり。そして、社会運動、市民運動とのかかわりを持ちながらの参加者は2/3かなと見たが、そこに目がいくのは、私自身が、学問的関心より、そうした研究されたものが現実の社会でどう作用しているのか、どう生かすことができるのか、という視点が強いからである。
 参加者の一人から“長いこと運動をやってきて、大きくまとまってうねりができればいいと思うのだが、なんだかいつもバラバラ”といったような発言があった。それを私なりに解釈し推測していくと、それは市民運動に何らかの「バックボーン」がいるのではないか、結集軸となるような理論的体系のようなものがあってもいいのではないか、という趣旨ではなかったかと思う。私の中に「オルタナティブ」という言葉出てくるのはこんな時である。
 それは私も感じていることなのだが、それを進めていくといつも“結局それは、党派に加わるか、つくることになるのではないか”に行き着いてしまう。水田さんは、どこかで“民主主義は、いろんな考えがあってのものだ”というようなことを言っておられたが、それは、市民運動はいわば“綱領”みたいなものは存在しえない場所なのだ、と言っているのではないかと私は受け止めた。それはまた、愛知万博反対運動の折り、「市民運動は烏合の衆の集まり云々」という水田さんの発言に問いかけをした時のテーマでもあった。
 社会運動と市民運動と分けていってはいるが、分ける必要はない場合もあれば、いっしょくたにして考えるのはどうかな、という場合もある、と私は思っている。そこには、社会運動は当然のことながら「政治性・国家観=イデオロギー」を抜きにはできないが、市民運動はむしろそれを遠ざけようとする傾向がある、との違いをみるからだ。そしてやはり私自身は、同次元で考えた方がいい、というところに行き着くのである。
 おしまいに、水田さんの話から今回も、私の求めたものの解答は得られなかったと思った。けれども、経済におけるグローバルでなおかつ同業者間の、市場での生存競争が激化している現実、それは当然のことながら労働者の雇用、生活・生存と直結している課題であり、それだけをとっても、アダム・スミス(とマルクス、エンゲルス)の“何か”が、陰に陽について回っているな、との意識だけは感じたのだった。 完

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