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2011年1月12日 (水)

水曜フォーラム1月例会(2011)

 二元代表制について
 新年1月の例会は、間もなく告示される知事選、市長選の真只中の、その争点の「裏貼り」とも言える「二元代表制について」が、テーマであった。報告の役を請け負った私は、このブログでアップした、7日、8日の集会の様子から、その多くを引用して構成した。
 今回のテーマの「二元代表制について」は、現象的には、橋下大阪府知事、竹原阿具根市長、そして河村名古屋市長らの「議会との対立・対決」として浮上した感がある。しかし少し視点を変えれば、戦後60有余年の日本の社会の仕組みが“金属疲労”を起こしているからかもしれず、あるいは、情報社会にあって、テンポの早い世界の政治、経済に日本が翻弄されていることの反映としてあるのかもしれない。それはさておき、現実的な「名古屋市長選挙」を素材にして問題を捉え返すと、かなり深い問題を内包していることがわかってくる。
 それは、一言でいえば、「二元」の一方である首長側の「ポピュリズム」であり、もう一方の議会側の「かすむ議会制民主主義」ということだと思うので、これについて少し深めていきたい。
 という前置きで、参考資料として、1月7日付毎日新聞の切り抜き、1月7日、8日の集会資料を添えた。
 まず「かすむ議会制民主主義」であるが、
 「それは『ポピュリズム』の浸潤、台頭によって『議会制民主主義が危機に瀕している』ということができよう。これの要点は、現時点での政治の仕組みとしては、『議会制民主主義』が最良のものであるとして位置付けるからであり、これへの挑戦(破壊)とは、きっちりと向き合う必要がある、と同時に、議会の自浄作用と外的な改革が必要であることを意味している。」「・・・議会が形骸化もしくは機能不全に陥っているという指摘から掘り起こしていくと、二つの視点からアプローチできる。一つは、議会の『権能』の問題であり、もう一つは、議会を構成する『会派及び議員の質』という点であると考えられる。・・・」
 ポピュリズム(河村的手法)の危うさ、については、
 「・・・河村フィバーは、あの小泉人気の絶頂期を想起させるが、『郵政民営化』『自民党をぶっ壊す』だけで、衆議院の議席をごっそり持っていったことの現象を、かつての『ヒトラー』と重ね合わせた人は多くいたであろうか。・・・ヒトラーとまで言わなくても、石原都知事レベルの『独裁者待望論』がなくもない、ということになり、身が震える思いである・・・。
 では、そのような危険性をはらんでいるにもかかわらず、河村市長はどうして人気を保持しているのであろうか。政治学者の山口二郎氏は、8日の集会でズバリ『ポピュリスト』だからといい、この『ポピュリズム』について深く言及した。『ポピュリズム』とは、「大衆扇動型政治手法」と解された・・・。」
 もう一つの論点をあげれば、「民主政治と民意」とは何か、ということである。
 この内容は省略するが、「民主政治と民意」に背を向けているのは、実は当の河村市長ではないかという点が浮上してくる。例えば「市長提案が否決されるような議会は、解散させてしまえ。市長提案に賛成多数の議員、議会があってこそ、市長の公約は果たされるのだ」という論理になり、ここには「二元代表制」の仕組みは存在し得ないことになる。あるいはその可能性が高いといえる。
 1年半前、私も一票を投じたが、51万余の市民が河村市長に投票したとはいえ、それは「白紙委任」ではない、と言っても河村氏には通じないということであろうか。
 そして最後は、「ポピュリズムの対抗軸を考える」であるが、それは、ブログにアップした内容である。
 参加者の意見は、いつもなら右(自民党系)から左(共産党系)まで、意見が分かれたり、時として闘わされたりするのであるが、今日に限って「河村的手法のポピュリズムの危うさ」では認識は一致、しかし、河村人気は続いていることも、うなずくことが多かった。
 また、共産党が独自候補を擁立する方向にあることについても、「大局的に見て」「前回の知事選挙の二の舞」という形で否定的であったこともほぼ一致していた。

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