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2008年2月 4日 (月)

「日露戦争」を読む・5

 奉天大会戦で、日本は勝利したのか
 日露戦争・第4巻は、1905年(明治38年)2月から6月までの戦史である。それは陸軍の「奉天大会戦」と海軍の「日本海海戦」それである。
 ロシア陸軍・極東軍(満州軍)の本体30数万余が、奉天(現在の中国遼寧省瀋陽)を中心に防御陣地を構築して、25万の日本軍を待ち構えていた。時は2月、零下30度にもなるという極寒の地での野戦である。
 戦場の東側は山岳地帯で、日本軍の陽動部隊(鴨緑江軍)が峻険な山岳地帯の雪中行軍と戦闘で苦闘し、50キロ離れた西側(日本軍左翼)では、旅順口攻略で損害著しくしかも疲弊した第三軍(乃木軍)が、ロシア軍の背後に回りこむべく迂回作戦に参加していた。正面は東から第1軍、第4軍、第2軍が布陣した。
 この57万とも60万とも言われる日露両軍がぶつかった「奉天大会戦」が、それまでの戦争になかったほどの世界史的大会戦といわれ、日本軍が「勝利した」とするその実際はどうであったか。少なくとも、この小島襄著「日露戦争」と学研「歴史群像シリーズ 日露戦争」を読む限り、戦傷者(戦死者)捕虜数では、ロシアが上回り、ロシア軍が奉天から撤退した(日本軍が占領した)点において日本軍の勝利といえるかもしれない。
 しかし、ロシア軍の撤退が戦略的撤退で、しかも撤退作戦そのものは成功し、日本軍に追撃(初期目的のロシア軍殲滅)を許さないほど損耗させた点と、ロシア領は一坪たりとも占拠されていないという点で、ロシアの敗戦が確定していないまま、膠着状態に入ったのである。
 事後の論評では、日露両軍の地上戦は、日本軍が旅順口を陥落させ、奉天戦でロシア軍を満州からほぼ追い出した点では大きなポイントを稼いだが、一方ロシア軍には「勝利」といえる有効なポイントはなかった。しかし、「判定時」に、疲弊しきった日本軍の姿、ポイントは取れなかったが余力がありそうなロシア軍の姿を見たとき、世界の目には、日本の「優勢勝ち」ではあるけれども、あと半年か一年継戦していたら逆転もあったかもしれないと見たであろう。
 結局、講和に持ちこみ、日露戦争で日本が「勝利した」というには、いまだ健在のロシアの「バルチク艦隊」の撃滅を待たねばならない。
 それにつけても、零下30度になるという極寒の地で、小銃を構えての戦争とはいったいどんなものなのか。このころの戦死者の半分は機銃弾、小銃弾によるといわれる。歩兵は、かなりの重量の防寒着に軍装備だけでも体力は消耗するであろうから、どのくらいのペースで歩くことができるのだろう。凍えた手、指先で銃が扱えるのだろうか。こんな条件下で双方が撃ち合ったのであろうが、私には全く想像もできない。
 戦闘時だけでなく、負傷兵の介助は?資材の運搬は、工兵、補給部隊だけだったの?食事は?水分補給は?髭剃りは?着替えは?排便は?内地に手紙を書くことができたの?
 “撃たねば、やられる。勝たねば生きて帰れない。早く終わってほしい、温かい味噌汁が飲みたい、風呂に入りたい”そんなことを弾込めのわずかな時間に思い浮かべては、引き金を引いていたのであろうか。 
(続く)
 <風邪かな?体調いまだ回復せず>

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