« テロ特措法で、小沢民主にじわり | トップページ | 町の景観 »

2007年10月 6日 (土)

一つの平和運動のゆくえ

ピースサイクル・愛知での意見交換
 ピースサイクル2007を終えて既に2か月あまりが経ったが、愛知ネットの意見交換の場が持たれた。
  今年7月の本走の経過をたどりながら、来年の取り組みを話し合う場ではあるが、この数年はメンバーも固定しており、自転車の走行コースにあまり変化がないこともあって、話題は、隣県の静岡や岐阜の様子はどうか、日進市長選挙は惜しかったが、来年はどういう対応になるだろうか、そんな話題には盛り上がっても、本題については口ごもりがちになってしまう。
  “リレー”という点が、この運動を維持している面は否定できない。各地区独自の取り組みだけなら、つける理由はいくらでもあるから一たび休止すれば、たちまちこの運動は終ってしまうだろう。そんなに脆いものかといわれれば返す言葉もないが、20年続けて、その当初世代が、50台半ばを過ぎ、また“定年”を過ぎれば、後からくっついていくことはあっても、先頭を切ることの負担は大きいということだと思う。
  という消極面がいつの場でも前面に出るのであるが、各人の顔を見ている限り、それが特段深刻な状況とは思えない面もあるのである。その背景には、負担は大きいけれども、自転車で走ることは結構楽しい面もあるし、平和や核の問題への意識の高さは、高まることはあっても、遠ざかることはないということであろうか。
  また、「政治スローガンだけが先行して、平和のための運動を広く楽しくやろうよ、という背景が後退している」と言う発言も現状を反映している点であろう。
  今でも「平和行進」が続いているようであるし、部分的ではあるが「ストーンウォーク」というのも西の方で、あるいは韓国で行われた。
  反戦平和の願いは永続的なものであるが、その運動には浮き沈みがある。それは“時流”もあるけれども、担い手が職業的ではなく、一定ではあり得ないからでもあろう。リーダーも参加者も、個人的な生活面での変化が影響するし、世代的な引継ぎが進まないことも要因としてある。
  “一人になってもがんばる”という固い決意、精神論的な運動もあるけれども、出来れば「広く、長く、おもしろく」続けることが大切ではなかろうか。また、他の運動とも交わりながらも、「合同、統一、共闘」にこだわらずにマイペースで進めることも継続の要だと、あらためて思ったこの日であった。

|

« テロ特措法で、小沢民主にじわり | トップページ | 町の景観 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/183099/16684179

この記事へのトラックバック一覧です: 一つの平和運動のゆくえ:

« テロ特措法で、小沢民主にじわり | トップページ | 町の景観 »